君が「大人」になる前に
1年だけ「お母さん」になってあげる。
約1年前のある日、そんな「彼女」の声が聞こえた。
その日から、僕と彼女の「声」との奇妙な同居生活が始まった。
ご飯よー。早く降りておいでー。
なんだよ。今ゲームがいいところだったのに……。
ほら、早く食べないと冷めちゃうから、さっさと降りてきな!
はいはい、わかったよ。
こういうやりとりも、何度となく交わした。
ご飯、勉強、お風呂、学校。
彼女は、生活の全てに口を出してくる。
僕の生きる時間の一挙手一投足に、彼女はいちいち口を出さずにはいられないのだ。
一階に降りると、台所には父さんが立っていた。
「おお、米は炊けてるんだが、魚がもうちょっとだ。頼む」
差し出される、小さなごはん茶碗。
僕の生まれる前からずっと使い続けてきて、縁の欠けた、風鈴の柄の碗に、ほんの少しの白米がキレイに盛られて、ゆらゆらと湯気を上げている。
毎日のことなので、僕も「うん」とだけ言ってそれを受け取り、明かりの消えた床の間に歩いていく。
六畳のたたみの間に漂うお線香の香り。
薄暗い中に、赤い光がじりじりと灯っている。
仏壇の前の、薄っぺらい座布団に膝を突いて、お供物の段にごはん茶碗を置く。
その奥で、一枚の写真が黒いフレームに収まっている。僕の年齢と同じ歳月を重ねて色あせた写真の中で、僕の知らない女性が、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて笑っている。
彼女が、僕の母親だった。
親戚の人たちは、法事や寄り合いがあるたびに、男の子は母親に似るんだね、最近、ますます似てきたよ、とか勝手なことを言うけれど、言われている当の本人としては、彼女と自分が血で繋がっているなんていう感覚は全くないし、自分の顔を客観視することもできないので、どこがどう似ているのかよく分からない。
その中で、ただ、毎朝毎晩、ほとんど同じ時間に、お供えのご飯を持ってきて、父さんが点けたお線香の隣にもう一本お線香を挿すという単調な作業の繰り返しだけが、僕にとって、写真の中の女性と僕とを繋ぐたったひとつの儀式のようになっていた。
「焼けたぞ」
カタリ、と、焼き魚の皿をふたりの食卓に置く音。
僕はほんの少しの間、ぼうっとして、蛍のような線香の炎と、その先から登る白い煙と、その向こう側の遺影を見ている。すると、また声が聞こえる。父さんの声ではない、女性の声が。
ほら、試験が近いんだから、早くご飯食べて勉強しないと大変よ? この前期の試験だって、あんなに言ったのに、前日までサボって酷い目にあったじゃないの。コツコツやるのが大事なのよ。
僕は、小さく、わかったよ、と答える。
声を潜めてやりとりをするのには、もう慣れていた。
「明日だな」
テーブルに着くと、父さんがカレンダーを見る。赤いマーカーで「みずき」とだけ書かれている。19回も同じことを繰り返すと、だんだんにシンプルになっていくものなのかな、と僕はふと考える。
声に従って、2−3時間勉強したあと、眠くなったので寝た。
「……」
呼びかけられた気がして、目がさめる。部屋には女性が立っていた。
若い――ちょうど、遺影の女性と同じ、20歳くらいの女性だ。
僕は恐るおそる尋ねる。
「……『お母さん』なのか?」
彼女は音もなく頷く。そして、紫の薄い唇を幽かに動かして、
「最後に、お礼が言いたくて」
声は、間違いなく、毎日僕に語りかけるあの声だった。
「いいんだ。僕も、少しの間、こういうことができて楽しかったからさ」
「そう。よかった」
彼女ははにかみながら言った。
「お誕生日おめでとう。みずきくん」
そう。僕の名前はみずきだ。そして、あと1分でやってこようとしている「明日」は、僕の20歳の誕生日。それは、お母さんが亡くなった年齢でもある。
「大きくなったね」
彼女は、僕と同じくらいの見てくれのくせに、古りた目で僕を見つめる。
「もうお別れ。1年間、『お母さん』で居させてくれて、ありがとう」
「なんでいっちゃうんだよ」
僕は一番聞きたかった事を聞いた。
そして、彼女は答える。
「みずきくんが、大人になるからよ」
笑う彼女の目から、涙がポロポロと溢れる。それは畳の上に落ちるけれども、シミひとつ作らないで、すうっと消えていく。
「あと1分で、あなたは私の知らない時間を生き始める。私の知らない人になる。私より『大人』になる」
「そんな寂しいこというなよ」
「寂しくなんかないよ。私は嬉しいもの。みずきくんはこれからきっと、私の見たことのないもの見て、聞いたことのないものを聞いて、知らないものを知っていくんだと思うと、私はとっても嬉しい」
母親のくせに、彼女は子供みたいに、ずずっと鼻をすすりあげる。
「ねえ、みずきくん。大人になるってことが、もしも、お父さんとお母さんのところを離れて、一人の人間としてちゃんとやっていくっていうことなんだとしたら、もうみずきくんは『大人』になっちゃうんだと思うの。私にしてあげられることはもうないもの」
「そんなこというなよ」
僕は最後に、「子供」らしく、だだをこねる。
「俺は、母さんといられて、よかった。悩んだときに、独り言みたいだったけれど、話を聞いてくれたり、だらけそうなときに、急かしてくれたりして、俺は、一人じゃないっていう気持ちになれた」
彼女は首を横に振り、小さな「子供」にいうように、優しく語りかける。
「違うよ、みずきくん。『大人』になったらね。そういう風なことは、お友達とか、好きな人と一緒にするものなの。人はね、きっとそうやって、次の時代の人たちと一緒に生きていって、そういう人たちがいくつもいくつも積み重なって、世界とか歴史ができていくんだと思うの。だからもう、私の役目は、もう終わり」
「だったら、なんで、最後に1年だけ戻ってきたんだよ。なんで帰ってきたりしたんだよ」
「わからない」
それは、ごまかしたり、はぐらかしたりしたくて言ったのではなかったのだと思う。
「神様の気まぐれかもしれないし、悪魔のいたずらかもしれない。でも、1年っていう時間を急に与えられて、そのなかで、ずっとその意味を考え続けてきて、私が伝えたいと思ってきたことを、伝えるね」
時計の針は、もう0時を過ぎようとしている。
「この1年間、与えられた時間のなかで、どんなことを伝えようかって、ずっと迷ってきた。でもね、結局、みずきくんに伝えたかったことっていうのは、本当に全部当たりまえのことだった。ご飯をちゃんと食べて欲しいとか、勉強をしっかりして欲しいとか、悪いことをしたら、ちゃんと謝って欲しいとか」
声は徐々に掠れて、夜の暗がりのなかに消えていく。
「うるさく言ってごめんね。私が、そうやって、当たり前のことを、当たり前のようにうるさく言って、本当に言いたかったのはね、全然、特別なことじゃないの。とっても単純なこと。呪文も、魔法も、秘密もない、すごく当たり前のこと」
うまく言葉にできないことを、彼女は、小さな拳を握ってもどかしがる。
「あなたのことを心配すると、胸のなかが苦しくなる。苦しいけれど、あったかくなる。あなたのどんな些細なことでも、助けてあげたい、構ってあげたい。ずっとずっと側にいて、ずっとずっと見守ってあげたい。なんて言えばいいのかな……」
困ったような顔をして、言いかけた最後の言葉は、もう聞こえなかった。
闇のなかで、唇が、こう動いたように見えた。
まっすぐに しあわせになって
言葉が届かなくなったことを知ったのか、彼女は、最後に一歩僕に歩み寄って、抱きしめた。
彼女のうなじからは、遠い昔に嗅いだ、懐かしい、お日様と、石鹸と、ミルクのような匂いがした。
ないはずの体温が、消える寸前に一番大きく光る炎みたいに、ふっと僕の胸のなかに飛び込んできた。
彼女は耳元で、掠れた、息の音で囁く。
「私の熱をあげるから、私の分まで、いっぱい、生きて」
僕は、うん、と頷く。
すると、胸のなかが、肺に火をつけたみたいに熱くなって、僕は大きく熱い息を吐いた……
それから、10年が経つ。
「ためだろ、ゆうか」
五歳になる娘を、僕は叱っている。
「悪いことをしたって思ったら、ちゃんとお友達に謝るんだ。わかるだろ?」
今日も僕は、当たり前のことを、当たり前のように彼女に伝える。
そして彼女は泣きじゃくりながら、うんうん、とそれを聞く。
そして最後に僕は、決まって、何かの儀式のようにこれをするのだ。
「ほら。おいで」
両手を広げて、僕は彼女を抱きしめる。
涙で濡れた、真っ赤なほっぺたと、浅く早く息をつく喉の熱が、僕の胸のなかでいっぱいになる。
でも僕は、それ以上の熱を伝えたくて、小さな頭を抱き抱えて、ぎゅっと強く抱擁する。
特別なものは、なにもない。
伝えたい、熱がある。
それは、十年間に、僕のお母さんが僕に伝えたあの熱と、きっと同じものだった。
なんでもない熱が、僕をあたためて動かし続ける。
それと同じものを、彼女が「大人」になるまでのほんの短い時間のうちに、僕はなるだけ彼女に伝えたいと思う。
今日も、明日も、明後日も。時間が許す限り。
てこさんと、「マザーテレサ」http://ncode.syosetu.com/n9019cq/のネタを使って、別の小話を書こう、というお話をして、書いてみたものです。
最初は、「マザーテレサ」みたいに、本当はXXXだった!みたいなどんでん返しをつけようと思っていたのですが、気づいたら、全然違う、真面目な話になっていました。
うーん。ちょっと伝わりにくかったかな、と思ったりもしています。感想、アドバイス、お待ちしています。