神官と野宿
伝え聞くのは三百年前の勇者の話だ。
十七歳で聖剣に選ばれ、仲間と共に幾多の試練を乗り越え魔王討伐を成し遂げた英雄は、各地に数々の武勇伝を残している。そのどれもが語る。勇者は公平で、誠実で、寛大であったと。
「ち、ちょっと! ちょっとそれ私の魚! 何やってんですか勝手にっ」
「うるせえ黙れ。ボケっとしてる方が悪いんだろうが」
少なくともかの英雄は、仲間と夕ご飯のおかずの取り合いをしたりはしなかっただろう。
旅を始めてからは野宿をすることもざらにある。日暮れまでに町や村につかなかった場合はもちろん、そもそも今代の勇者サマはあまり旅の宿に泊まるのがお好きではない。
「群れるのは趣味じゃない」とかいう非常に傍迷惑な信念と「元?盗賊」という特殊な経歴をお持ちの自称一匹狼(笑)な勇者サマは、野宿における女子の悩み(虫に刺される、熟睡できない等々)なんてものは理解すら出来ないようで、旅が始まってから宿に泊まったのなんて数えるほどだ。おかげで今では焚き火の準備から食料の調達までなんなくこなせるようになった。もちろん煮炊きもどんとこい。勇者サマに料理は当番制と言われたせいだ。少なくとも、魚を炭にしてしまって白い眼で見られていた最初の頃よりは格段に上達したはず。
野宿なんてわびしい状況下での唯一の楽しみが食事なのに、どうして食べ物の取り合いなんてことをしなくてはならないんだ……! しかもその相手が勇者とか、何だかもう情けない。本当に倒せんのか魔王。
「はい、アルティス。ご飯ですよ」
そんな私の食事中の密かな楽しみがこれだ。癒しのもっふもふ聖獣アルティスに手ずからごはんを食べさせる幸せ。
普段はあまり私のラブコールには応えてくれないアルティスも、このときばかりは喜んで寄ってきてくれる。勇者サマがすると無造作に魚をポイッと投げて寄越すだけの雑対応だが、私はきちんと身をほぐして食べ易いようにしてから与える。それがお気に召したらしく、それ以来アルティスのごはん係は私の役目だ。
「ほら、たんとお食べ」
きゅるっ、と鳴いて手のひらに乗せた魚の身をはぐはぐ食べる。狐にも似た長い鼻の先端が濡れている。くふふ、うれしいか、うれしいのか。最後の最後までべろべろなめられた手のひらがくすぐったいぞ、くふ。
「間抜け面」
うるさいソコ! 人の楽しみの邪魔をするな!
□□□
野宿のときは火を絶やしてはいけない。魔物や獣が近づいてくるのを防ぐためだ。つまり、二人で代わる代わる火の番をしなければならない。それも私が野宿が嫌いな理由のひとつだ。何が悲しくて寝ているところを何回もたたき起こされなくてはならないのか。
「おい」
「……」
「おい、いい加減起きろ」
「……」
「おい……」
ゆさゆさゆさゆさ、身体を揺すられる。うっぷ、気持ち悪い。ちょっとなんだよ人が気持ちよく寝てるってのに……。
うっすら目を開ける。ぼんやりぼやけた視界いっぱいの……あれ、だれだこれ。
「ぎっーー」
突然視界に広がった見知らぬ男のドアップに反射的に叫びを上げようとした口はしかし、次の瞬間には大きな手のひらによって塞がれた。がふっ、と空気が抜けたような音を出してまじまじと手の主を見上げればーーあれ、なんか見覚えがあるような。
「お前な……何回目だこれで。いい加減人の顔見て悲鳴上げるのやめろ」
「ふ、ふがっ」
勇者サマ、と言おうとしたのだがまったく言葉にならない。ち、ちょっと強く掴みすぎじゃないですかね、ほぼ息できませんが、私。目線ですんませんと謝罪すると、勇者サマはようやく手を離してくれた。ぷはっ、と息を吐いて不機嫌そうな悪人面を見上げる。
すみません、と殊勝に謝ったのに無視された。このやろう。
「仕方ないじゃないですか。びっくりするんだもん」
考えてもみてほしい。起きたら突然目の前にちょっと目つきの悪い殿方のアップだよ? びっくりするでしょ? ついでに純粋培養の神官には異性に対する免疫なんてものはほぼ皆無なので、男性に一定距離よりも近付かれると咄嗟に反応が返せなくなるのだ。それなのに突然あの距離感て。パーソナルスペースを大切に!
「何もしてねえだろ。あんな、暴漢にでも遭ったような声出されるのは心外だ」
「……」
暴漢じゃなくても、盗賊じゃん。似たようなもんじゃん。口には出さないが。
しかしというかなんというか、確かに勇者サマは今まで一度も私におかしなことをしたことはない。神官といえども女の端くれ、二人旅(と一匹)なんて大丈夫なのかと疑ってかかっていたこともあったが、勇者サマは一度も私をそういう目で見たことはない。小突かれたり嫌みを言われるくらいはあるがそれでも概ね紳士的。というか女性として扱われているのかすら怪しい。ちょっとした荷物持ちくらいにしか思われてなくないか私。あれ、なんか腹立ってきた。
静かに燃える火を見つめながら考える。本当に、どうして彼だったのだろう。
その答えを知る聖獣は、勇者の傍らで丸くなって眠っている。時々ぴくぴくっと耳が動いている。可愛い。
木に背を預けて眼を伏せる勇者の横には聖剣が置かれている。長い間我が家の宝物庫で眠っていた聖なる剣。神が人の子に授けた、この世に一振りしか存在しないそれは、今は一人の男の手に委ねられている。
魔王を倒す。ただそれだけのために。
(本当に、なんでこの人なんだろう)
ぼんやりと、長めの前髪からのぞく顔を見つめる。目つきの悪い悪人面だが、意外とつくりは悪くない……て、何を考えているんだ私は。
(ーーえ)
ざわり、と背中が粟立った。
ぴたりと身体の動きが止まる。嫌な気配。例えようがない、首の後ろがちりちりするようなその感覚は、ここ暫くで少しだけ身に馴染んだものだった。旅に出るまでは知らなかったもの。騎士団に勤める兄はそれを、殺気と呼んでいた。
ぐるるる、とうなり声が聞こえた。いつの間にか目を覚ましていたアルティスが暗闇が支配する森の奥を睨んで警戒していた。
「……くそったれが」
おちおち寝れやしねえ、と舌打ち混じりの声が忌々しげに響く。
元々の目つきの悪さに輪をかけた悪人面で、勇者がため息を吐いた。不意に、視線がこちらに向く。ついで掛けられた「おい」という声にようやく我に返った。
「準備しとけよ。時間、掛かるんだろ」
即座に詠唱のことだと理解する。咄嗟に体勢を整えて杖を握る。神聖魔術ーー神官が使える唯一の攻撃魔法であるそれは、広範囲を聖なる光で包んで魔物を消し去る範囲魔法だ。詠唱に時間の掛かるそれは、普段の戦闘ではほとんど使わない。悠長に詠唱している内に勇者がさっさと敵を倒してしまうからだ。
「……」
杖を翳し、詠唱を始める。ゆらゆらと、大気をたゆたっていた魔力が杖に集束していく。ざわり、と空気が揺れる気配がした。アルティスが本来の姿に戻ったのだ。獅子ほどの大きさになった聖なる獣は勇者に背を預けるようにして闇の中を威嚇している。
背中を汗が伝った。
神聖魔術は普段はほとんど使わない。それは、今まではその程度の時間で殲滅出来てしまうくらいの量の魔物としか戦ってこなかったからだ。
空気が張りつめている。暗闇から向けられる、無数の殺気が身体中に刺さって痛いくらいだ。しかし集中は欠けない。詠唱を途切れさせてはいけない。
「グギャアアア!」
背後から断末魔の悲鳴が轟いた。びくりと肩が跳ね、一瞬詠唱が止まる。まずい、と再び詠唱を始めたと同時、視界の端を何かが過ぎった。
飛び散る体液と共に何かがぐしゃりと地面に伏した。一瞬だが、間違いなくそれはーー
「ゴブリン……」
子どもほどの背丈の、醜悪な顔の魔物だ。性格は狡猾で残忍、個の力は大したことはないが、群をなすと厄介で、倒しても倒しても次々に仲間を呼ぶ。どうやらいつのまにか、囲まれていたらしいーー。
「ふん、これだから雑魚は嫌いなんだ。群れなきゃ何も出来やしねえ」
聖剣についた緑色の体液を払いながら勇者が言う。解りやすい挑発に乗せられて場に満ちる殺気が濃厚さを増す。
ーー来い。顎をしゃくって剣を構えたその瞬間に、戦端が開かれた。