神官と泥棒
私は神官だ。主神リトに仕え、迷える心に道を指し示す敬虔な神の代弁者。大神官であった父の教えのもと、幼い頃より勉学に励み、一日も欠かさず祈りを捧げ、女だてらに上り詰めた神官という地位を私は誇りに思っている。
この後も悩みを抱える人々に神の教えを説いていくことこそが我が天命と心得、日夜研鑽に励んでいこうと固く誓っていたはずの私は今ーー薄暗い森の中を遮二無二走っていた。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ……!!」
丈の長い僧服が今は憎い。走りにくいなんてものじゃない。こののっぴきならない状況下に無駄に足に絡まる長衣とかなんの拷問だ。何度足がもつれたことか。
嫌だが、本当に嫌だが迫り来る恐怖心に勝てずにちらりと後ろを振り返る。ーーあ、やべ、やっぱり止めとけばよかった。
一秒前の自分を呪う。振り返った先、鬱蒼と生い茂る木々をかき分け醜悪な顔をした魔物がこちらを追いかけてきていた。ぼうぼうの髭面に嗜虐的な笑みを浮かべたオーガとの距離は思ったよりも近い。本気でちびりそうになりながらがむしゃらに走り続ける。ーーなにがどうしてこうなった。回らなくなった頭で考えた。やはり一つしか思いつかない。
(あの……適当男!)
全部あいつのせいだ。絶対あいつのせいだ。あのデタラメ男のよく解らない提案でこんないかにも何か出そうな森の中を通ることになったのだ。何が「森を真っ直ぐ突っ切ると近道が出来る」だふざけたことぬかしやがって。おまけにはぐれて魔物に追いかけられている始末。何で私がこんな薄暗い森の中でこんな動きにくい格好でしたくもない全力疾走をしなくてはならないんだ!
頭が痛い、息が苦しい、ダメだ、そろそろ……。
「あっ」
反射的に思った。死んだ、と。
盛大に足がもつれた。おまけに足元に張り出していた木の根に引っかかって身体が大きくバランスを崩す。つまり、こけた。
背後で魔物の歓喜の咆哮が聞こえた。ぞわりと全身が総毛立つ。地面に突っ伏しながら感じる、背中からじわりじわりと確実に近づいてくる死の気配。かちかちと、耳障りな音はなんだろうと鈍くなった頭の片隅で考える。ーーああ、そうか。これは私の歯の音だ。迫る死の恐怖を前に、歯の根が合わないほどに震えているのだ。
ふしゅー、ふしゅーと、直ぐ後ろから恐ろしい息づかいが聞こえた。恐怖で後ろは振り返ることが出来ない。そして、悟る。ああ、だめだ。これは、死ぬ。
(神よ……)
最後の祈りを捧げる。
父さま、母さま、おまけに兄貴たち、先立つ不幸をお許しください。これもみんな一から十まで全部あの男のせいです。ああ、神よ、我が主。何故、何故あの男を選んでしまわれたのですか。あれは駄目です。あれはーー。
魔物の咆哮が思考をかき消す。この後襲い来る痛みに備え、ぐ、とかたく眼を閉じた。
「だっ」
いってえ! 誰だ今頭殴ってきた奴! って、あれ?
「犬っころ! 火!」
「は? ぅあっつ!!」
男の声の後、ブワッとものすごい熱気が背面を通過した。背中焼ける! と慌てて匍匐前進でかさかさと逃げ出してバッと後ろを振り返ると、真っ黒の大きな炭のかたまりが一つーーいや、あれは。
瞠目する。あれは魔物だ。正確には魔物だったものーーさっきまで私を追いかけていたオーガだ。醜悪な魔物はいまや骨までしっかりと焼かれ、真っ黒の炭となって崩れ落ちていくところだった。
呆然としていると、足元から「きゅるっ」と鳴き声が聞こえた。目線を向けると、手のひらサイズの犬に似た真っ白な生き物が一仕事終えたと言わんばかりにはふんっ、と鼻を鳴らしていた。可愛い。
「アルティス……」
聖獣アルティス。神話に描かれる、主神リトに付き従う聖なる獣。その脚は空を駆け、黄金の眼は千里を見渡し、怒りの吐息は万の魔物を焼き尽くすという。人界が危機に陥ったときに神が地上に遣わすといわれるその獣は、たったひとりの選ばれし人の子ーー勇者にのみ頭を垂れるーーというか、さっき私の頭をどついてきたのはコレか。人の頭を足場にした後、魔物にブレスを吐いたのだろう。今でこそ連れ歩きに便利なミニマムサイズだが、そのブレスの威力は本来のままだ。待てよ、さっきはぐれたはずの聖獣がここにいるということはーー。
「なにやってんだ、さっさと起きろ」
「いった! あ、頭叩かないでくださいっ」
いきなりべしんと呆けた頭を叩かれて抗議の声を上げる。叩きやがった張本人は意地の悪い三白眼を面倒くさそうに細めてこちらを見下ろしていた。ぐぐ、と負けずに睨み返していると、隣にいた聖獣がきゅっ、と一声鳴いて男の肩へ飛び乗った。 そして定位置、と言わんばかりにそこで丸くなる。くそ、うらやましい。
聖獣が懐くのはただ一人、勇者だけだ。これが現実だと叩きつけられてため息が出る。ーーああ、神よ。本当にどうして、なんでまたこの男を選んでしまったのですか。
「……ったく、手間掛けさせやがって。いきなり居なくなるとか、死にてえのかお前は」
ろくに戦えないくせに、とねちねち文句を言う男にむう、と眉を寄せる。いきなり居なくなったとか、むしろこちらの台詞なのだが。そ、それに戦えないのは仕方ない、だって神官だもの! 治癒魔術は得意だけれど、攻撃系は不得手だ。唯一使える神聖魔術は詠唱に死ぬほど時間を要するから、一対一じゃあものすごく不利。昔からよく言うじゃないか。「神官は、後ろで黙って詠唱」って。ちなみに神官の部分は魔術師でも可。だいたい同じ意味になります。
ぴーぴー反論したら心底鬱陶しそうな顔をされた。ひどい。
「だいたい、あなたがこんな森の中通ろうとかいうからはぐれちゃったんじゃないですか。どんどん先に行っちゃうし」
「お前がそんな歩きにくそうもん穿いてるから悪いんだろうが。人のせいにすんな」
「ちょっ、歩きにくそうもんって、これは由緒正しい神官の正装ーーって、言ってるそばから先に行かないでください!」
ろくにこちらの話も聞かずに歩き出してしまった一人(と一匹)を慌てて追いかける。再びはぐれたらたまらない。というか早すぎるだろ。距離がなかなか縮まらない。
わたわたと、最終的には僧服をまくり上げながら追いかける。それでもいっこうに縮まらない距離。あいつは鬼か、鬼なのか。誰でも良いからあいつに女子に対する優しさってやつを教えてやってくれ。
そして、私はこの後も幾度となくつまづきそうになりながら、薄暗い森の中を歩き続けるのだった。
□□□
私の家系には、代々大切なお役目がある。それは、勇者だけが扱える剣ーー聖剣を守ることだ。三百年前に先の勇者が魔王討伐を成し遂げてから我が家に大切に保管されていた聖剣は、魔王復活の報と共に新たな持ち主を探すこととなった。国中の強者が我こそはと名乗りを上げたが、誰一人として聖剣を持つことはおろか、触れることすら出来ない始末。そうしている間も魔物の横行は悪化の一途を辿り、いよいよどうするかと頭を悩ませているとき、我が家に一人の賊が忍び込んだ。
夜陰に乗じて宝物庫に忍び込んだその賊は、こともあろうに、聖剣を持ち逃げした。ーーそう。「持ち」逃げしやがったのだ。
もちろん、家族総出で追いかけた。最終的に騎士団に勤めている長兄が賊を追いつめたのだが、賊は間違いなく両手で聖剣を保持していた。マジかよ、とその場にいた全員の心の声が一致したのを私は聞いた。
ーーゆうしゃさまはどろぼうでした。
即、家族会議。選ばれし勇者が盗賊? それなんてジョーク? 縄でぐるぐる巻きにして捕らえた盗賊ーーもとい、勇者は不本意そうに顔を顰めていたが、それでもその男が聖剣を持てたという事実は変わらない。極めつけに、勇者選定を見届けたように空から黄金色の光をまとって聖獣アルティスが降臨したものだから更にどうにもならなくなった。やはりこの男こそが世界の命運を握る選ばれし人の子ーー勇者なのだろう。アルティスは勇者を見ると「きゅるん」と一声鳴いて手のひらサイズまで小さくなってしまった。そして簀巻きにされた勇者の傍らで安心したように丸まっている。可愛い。
「勇者? アホかお前ら何言ってんだ」
事実を正確に告げたとき、勇者が返した返事がこれだ。いやはや全くもってその通り。いやしかし冗談じゃないんだなこれが。
男は半信半疑だったが、兄が試しに聖剣を持とうとして見えない壁に弾かれたのを見て目を丸くしていた。持てないのだ。聖剣は、勇者以外の人間には。それでも男は最後の最後まで渋ったが、最終的に、次兄の「魔王を倒したあかつきには国公認で金銀財宝ざっくざく」という言葉に心が揺らいだようだった。小声でぶつぶつ「ざっくざく……」と繰り返していたから間違い無い。やはり最低だ。
最低ついでに、勇者はもう一つ最低なことをしていってくれた。あの男はパーティーを組まないと言ったのだ。
「群れるのは趣味じゃない」
なにスカしたことぬかしてやがる、という私の心の叫びは聞き入れられなかった。群れるのは好きじゃないって、じゃあお前聖剣一本と犬一匹……失礼、聖獣一頭でどうするつもりだ。バカなの? 勇者ってバカなの?
さすがに一人で行かせるわけにはいかないと慌てた父さまが、妥協案として治癒魔術の使い手を一人だけ連れていってはどうかと提案した。うん、さすが父さま。回復役ってのは必須だよな、やっぱり。うんうん。そうそう、大事大事って、なんで生温い眼でこっちを見ているのかな、父さま。え、いやだよ? 私、行かないよ? そりゃあ一通りの治癒魔術は修めてはいるけれど、実践皆無だからね、私。無理無理……って、え? 勇者の監視も含め? 聖剣を守るのが一族のつとめって……え?
というわけで、私は二人(と一匹)で魔王退治の旅をすることになった。
親父許すまじ。