06
午前中の第一試合というのにすでに球場全体が熱気を帯びていた。林のおかげで、監督にチャンスをもらい、こうして地区予選のマウンドに俺は立つことができた。初戦の相手は、運が悪いことにシードにもれた藤崎学園だった。
俺は、昨日舞のもとにボールを届けた。「舞にわたしてくれ」と俺が言うと結衣はあいかわらず怪訝な顔つきだったが、かまわずボールを預けた。『試合を見に来てくれ』とボールにはメッセージを書いておいた。「すてるかも」と皮肉を言う結衣が、舞を憎んでいるのは事実だろう。だが、舞が歩けなくなった日、結衣は学校を休んでいた。憎んでいるのなら、舞のことなどかまわず学校に行けばいい。なのに、結衣は行かなかった。心配だから行けなかったと今は思いたい。修復にはかなり時間がかかるだろう。けれども兄弟のいない俺だからこそ、姉妹の絆を信じたかった。
試合開始のサイレンが鳴り響くと、球場の両側から吹奏楽部の音楽と混じり声援が一段と大きくなる。一塁側の応戦席には、光西高校の生徒たちが野球部のために何段にも列をなし座っている。舞に出会わなかったら、俺もあそこで声をからしていたはず。舞の姿を捜したが、白い夏服と野球部のチームカラーのえんじ色の帽子を被った生徒一人一人を識別することは不可能だった。
「プレイボール」
審判の声にホームに目を向けた。藤崎学園の各バッターのデータをインプットしている、キャプテン杉本を信じて投げるしかない。久しぶりの実践に高鳴る心臓とは裏腹に、頭はだんだんクリアになる。
肩が軽い。投げるボールが流れるように走り、思い通りのコースに寸分もたがわず決まっていく。藤崎学園の各打者のバットは、面白いほど空を切り続けた。まったく打たれる気がしなかった。
「あまり飛ばしすぎるなよ」
ベンチにもどると林が俺の緊張をほぐすように声をかける。林もベンチに入っていた。俺の本気の球をとることができるのは、キャプテン以外こいつしかいない。監督の指示で試合までの約一週間、俺たちは別メニューで調整をしていた。二種類のカーブにチェンジアップそして決め球のフォークボール。どの球も林は一度みただけでとることができた。俺が投げ続けるかぎり林も控え捕手として俺のそばにいる。本当の意味で俺たちは運命共同体になっていた。
「塚本、わすれるな。一点とられたら即交代だ」
「わかっています」
不協和音を消すため、監督からあらかじめ告げられていた条件だった。試合直前で決まった俺たちのベンチ入りは、レギュラーからはじきだされた二名はもちろん、先輩たちも納得しないものが多かった。一点とられた時点で俺の夏は終わる。次はない。
立ち上がりから四回まで無難にきていた。キャプテンのリードはもちろんだが、一巡目の藤崎学園の打者は球筋を見ているようだった。データ集めも終わりそろそろ本気モードで相手もくるだろう。だが恐れることはない。俺は無名の高校一年生、失うなうものはない。舞にこの姿を見せるだけだった。
バッティングピッチャーをしたことが役に立っていた。キャプテンのデータをもとにバッターに対峙すれば、おのずと打者の癖が見えてくる。それがわかれば打者の調子を崩すように投げればいい。もともとこっちの方が俺の得意分野だった。
投げ続けていくうちに球速がましていく不思議な感覚が俺を襲う。歯止めをなくし自由に投げることで、今まで眠っていて使うことのなかった筋肉を呼び覚ます。藤崎学園に7回までノーヒット。打球が外野を超えることもなくパーフェクトなピッチングだった。
七回の裏、打線も奮起した。俺のヒットを足掛かりにバントとエンドランがみごとに決まり一点をもぎ取る。ベースを一周した俺は息が上がったが、八回、九回の残りのイニングを押えるため奮起するしかなかった。
八回のマウンドにのぼる。徐々に夏の暑さが俺を襲ってきた。汗が止まらなくなり、思った以上に疲れている自分に気が付く。心とは違い体は正直に反応していた。スパイクで足場をならしロージンバッグに手をやる。呼吸は落ち着いてきたが、汗は止まらなかった。
八回は四番バッターからの打順。油断はできない。投げるボールに球速の衰えは感じなかったが、蓄積された疲労は徐々に体力を奪っていった。もう少し真面目に土手をランニングしていればよかったと後悔したが、いまさら遅い。チェンジアップで打つ気をそらしながらストレートで押していく。なんとか八回も三人で切り抜けることができた。
ベンチに戻り座わっている俺の体力は、限界に近づきつつあった。少し休ませてくれと願ったが、味方打線は攻撃に時間をかけることができないでいた。精神論は大嫌いだったが、どうやら俺にも必要になりはじめていた。
「ノーヒットノーラン、いや完全試合でもするつもりか?」
林の言葉に一本のヒットも許さず、全ての回、三人ずつ打ち取りここまできたことに気がついたが、記録なんてどうでもよかった。ただ勝ちたい。一試合でも多く俺の姿を舞に焼き付けてもらう。そのためだけに投げていた。肩で息をする俺の耳に、ボールを取るミットの音が響く。一塁側のブルペンでエースの斉藤さんが急ピッチで肩をつくっている。冷静に試合を分析しているのか、監督は八回から斉藤さんにピッチング練習の指示を出していた。だが二回戦以降も投げつづけるつもりの俺にエースの出番はない。
「いってくる」
俺はベンチを飛び出した。