04
一晩眠るとすっかりのどの調子がよくなり、朝練にも体が慣れてきたのか体調も良かった。借りていたタオルを舞に返そうと教室に入り、舞の席を見たが舞の姿はない。
「神崎はきていないのか?」
美紀に声を掛けてみた。
「ええ、勉強会も中止」
美紀が連絡を再度してくれたが携帯はつながらなかった。俺は五組の教室に向かう。初対面だが舞の妹に聞けば何かわかるかもしれない。教室に入り、入口にいた奴を捕まえたが舞の妹もまだ来てないらしい。ホームルームまでは15分以上ある。
気が付けば俺は走っていた。舞の家に続く土手を全速力でかけぬけていた。途中に、舞が歩いていて、心配している自分を笑い飛ばしたかった。ホームルーム開始のチャイムが遠くでかすかに聞こえてきたが、舞の顔を見るまで止まるわけにはいかなかった。
「神崎――」
俺はインターホンには目もくれず玄関をたたいた。
「だれ、まったく」
ドアが静かに開けられ長身の女が不機嫌そうに俺を見た。
「神崎、舞はいるか」
「いるけど、あなた誰?」
安堵の溜息がもれた。ただの早合点だった。安心したとたん、体中の毛穴から汗がふきだしてくるのがわかる。舞に返すはずだったタオルで思わず汗をふいた。
「俺は……同じクラスの……塚本……勇次、神崎……」
息を整えなくてはうまく喋れない。脇腹を押えながら上を向くと、二階の窓に舞の姿はなかった。
「あなた、前、家に来た人?」
「ああ、舞はまた風邪でもひいたのか?」
「元気だけど。ずいぶんあわてて、何か急ぎのよう?」
「いや元気ならそれでいい。学校で話す」
呼吸がおちつき、俺は学校にもどることにした。これ以上ここにいたら舞に怒られそうな気がした。心配しすぎだと。
「学校にはいかないと思うけど。間違えた。い・け・な・い・と思うけど」
「いけない?」
笑みを浮かべる女に俺は聞き返す。この女が舞の妹なのだろうか? 林がいうように美人かもしれない。だがなんだ、この態度は? 表面にあらわれてこない冷たくてドロドロしたいやなものを感じた。
「もとにもどっただけ。元気だけど歩けなくなった。わかる?」
「歩けない?」
昨日までは杖をついて元気に歩いていた。どうして急にあるけなくなる? 俺は玄関のドアをあけ、靴を脱ぎ捨てる。後ろで女が何か叫んでいたが、玄関正面にある階段を駆け上がり二階の窓の部屋へ急ぐ。位置的にはこの部屋? 「Mai」と書かれた木製の小さなプレートがかけられていた扉を見つけ、ノックするが返事がない。強引に扉のノブを回すと、鍵はかかっていなかった。
部屋を見渡すと、八畳ぐらいの部屋に白色に統一した色彩の家具が並び、窓のすぐ横にベッドがあった。ベッドから舞のささやき声がかすかに聞こえた。
「帰って……」
声が小さくてうまく聞き取れない。ベッドの中で掛布団をかぶったまま顔も出さない舞に、俺は近づく。
「帰って、お願いだから」
「心配で来たんだ。そしたら歩けないって聞かされて」
「結衣がいったことは本当。また歩けなくなった」
「冗談だろ?」
「冗談でこんなこと、言わけないでしょう」
顔をだした舞が出会ったときと同じ目で俺を睨みつけ、掛布団をなげすてた。
「見て、わたしは、また歩けなくなった。やっと、やっと、杖をついて歩けるようになったのに」
上半身だけを俺に向け起き上った舞の下半身は、頑丈なベルトでベッドに固定されているかのように動かなかった。
「大丈夫。頑張ればまた歩けるようになる」
「頑張れは歩けるようになる? わたしが、どれだけ必至の思いでリハビリして歩けるようになったかも知らないで」
俺が元気づけようとする言葉が、舞を傷つけてしまう。
「リハビリしても、また歩けなくなるかもしれない。不安をかかえながら生きていく。塚本くんみたいに、なに不自由なく好きな野球だけをやって生きている人に、わたしのことなんかわからない」
「俺はただ、前みたいに一緒に……」
「同情でしょ。足の悪い子だから。違う?」
何も言えない俺に、舞がパジャマの袖をめくる。右腕から肩にかけて、大きさの異なる無数の切り傷が広がっていた。ミミズばれのように浮かびあがった傷が絡み合い、肌の色がそこだけ切り取られたかのように薄く明らかに異なる。
「ママがわたしをかばった事故の傷。夏服をきれないでしょう」
長袖しか着ない本当の理由を知った。事故を忘れさせないための傷というなら、あまりにも残酷すぎる。のんきに考えていた昨日の自分が恥ずかしい。
こんなに近くにいるのに、絶望している舞を救い出すことができない。悲しい目をしている舞の、視線の高さまで俺は腰を落とした。
「施設をでるとき、ある人に言われたことがある。「これから楽しいことが一杯まっている。でも、つらいときここに帰って来ていつでも泣いていいんだと」大人の嘘だと思った。俺、父親も母親もいなくて、施設で育って、子供のころから悲しくてつらいことばかりで、いいことなんてなにもなかったから」
誰にも話したことのないことを俺は話していた。
「生まれながらに不幸なんだと事実を受け入れると心が軽くなって、これがあたりまえなんだと思ったら涙もでなくなって」
舞は傷口を隠すように押えている。
「でも、舞と出会って間違いに気がついた。足が不自由でもまっすぐ生きている。俺と違ってひねくれたりせず、毎日を大切に一生懸命生きている。人の目なんか気にしないで笑っている。どうしたら舞みたいに強くなれるのだろう……そればかり考えるようになった」
忘れていた熱いものが心の底からわき上がるのを感じた。気が付けば枯はてて、必要ないとふたをして封印してしまっていたもの。
「舞、頼むからあきらめないでくれ。頼むからもう一度笑ってくれ」
いままでせき止めていたものがなくなり、流れだした。
「つらいなら泣いていいんだ。俺が一緒に受け止めるから……」
涙と一緒にあふれる思いを伝えた。きっと舞に届くと信じて。
ずっと喋らなかった舞がうつろな瞳で俺を見た。
「出ていって……」