02
俺と舞の勉強会は日課になっていた。最初のうちはいやいや聞いていたが、舞は本当に教えるのが上手だった。もちろん劇的に勉強がわかったというのではない。舞のかみ砕いた説明のおかげで、いままで暗号だと思っていた数式ひとつにしてみても、実は一定の法則にしたがって解を求める道具のようなものだということに気が付いた。ひとつ道具の使いかたがわかれば数値が変わっても不思議と応用がきいた。小さい頃、野球のバットの打ち方を教えてもらうと、自然に速い球でも、変化球でも打つことができた感覚に近かった。もちろん空振りをして舞に諭されることもあったが、反復練習すれば能力が伸びるトレーニングのように数学が面白くなった。
数週間が過ぎたころには、数学の朽木が、授業中に黒板に書いた問や答えに辿り着くまでのアプローチの仕方が理解できるようになり、無意識に教科書を広げ問題の解を導く作業に没頭していた。
「どうしちゃったの?」
林が、俺の席に来て奇声をあげる。
「なにが」
俺の受け答えが気に入らないのか、裏切り者でも見つけたように林は侮蔑した。
「真剣に授業を聞いて、ノートをとる、そんな子供に育てた覚えはありません」
またか。林の冗談めいた口調に俺はうんざりした。
「勉強に目覚めたのは舞ちゃんのおかげか。俺も仲間に入れてくれ」
舞と勉強をしていることは、クラスの誰もが知るところになっていた。
「神崎にきけよ」
話が終わらないうちに林は、舞のとこに行き速攻で戻ってくる。
「いいって」
林が勉強会に参加することになってしまった。俺は、授業中に生まれかけていた勉強に対する熱意が、うすれるだろと直感した。
勉強会にうるさい奴が一人増えてどうなることかと危惧していが、林はまじめに舞の話に耳を傾けていた。というよりこいつは天才かもしれないと俺は思った。一を聞いて十を知る人物がいるが、林がそれだった。もともと勉強は得意なのかもしれないが、舞が舌を巻くほど優秀で、俺がこれまで時間をかけてやっとの思いで積み重ねてきた知識の壁をたやすく飛び越えていった。
「林くんには、教える必要ないね。学校の授業をきいて進学したい大学の傾向と対策本をやれば十分なレベルだと思う。もちろん本気を出して取り組むことが前提だけど」
「仲間外れにしないでくれ」
林はシャーペンを指先で器用に回転させながら懇願してきたが、俺は舞の言う通りだと思った。ボールを受けたキャッチングひとつにしてもセンスを感じた。野球にしても、勉強にしても、林が本気をだせばいまよりずっと高い位置にいける人間ではないだろうか? 生まれ持った才能か、努力しない天才か? どちらにしても、お調子者を演じている姿がこいつのフェイクに思えてきた。
「二人の邪魔するつもりはない。ただ一緒にいたいだけなんだ」
本気とも冗談ともわからない林の表情にとまどったが、舞が笑いながら言った。
「いいよ、人数は多い方がいいから」
奇妙ともいえる三人の勉強会は、よきしない効果をもたらした。一学期の中間試験で俺は赤点をとることなく試験をパスしいた。数学に関しては、85点という過去に一度もとったことのない点数を取り、答案用紙の氏名欄を二回確かめた。総合成績上位者は廊下の掲示板に名前が載る。舞が学年4位というのは納得できたが、1位の奴には納得できないでいた。
「塚ちゃん、成績順位表みてくれた」
「よかったな」
「すごいね、本気をだして頑張ればと言ったけど、まさか一番をとるなんて」
舞の喜ぶ声に軽く会釈でかえした林は、いつもの勿体つけたいいかたで礼を述べる。
「舞ちゃんのおかげです。チーム舞に入って勉強してよかった。こんな僕が一番をとれたのだから」
それが呼び水になった。舞のとなりの席にいた女が会話に入って来た。
「すごい。一番とるなんて私はぜんぜんテストだめだった」
「ミキちゃん、君もチーム舞に入れば勉強なんかスイスイ簡単にできるようになる。保証する」
「本当?」
チーム舞が朝の勉強会のネーミングだとやっと気づいた俺は、「クラスの女子の名前を全て覚えた。だれとでも友達だ」と豪語していた林の言葉があながち嘘でないことを知った。
「私も勉強会に参加してもいい」
「舞先生は、来る者こばまず、去る者追いかけず。ねえ、舞ちゃん」
「え! ええ」
「ありがとう」
勉強会の参加者がまた一人増えることになった。その後も徐々に舞の周りにはクラスメートの輪が広がっていき、休み時間、俺が話かけなくても誰かと楽しそうにしゃべる舞を教室で見ることができるようになった。舞は芯がしっかりした強い女だ。初対面では、それがとっつきにくく、話しづらく感じてしまう。でも、会話を続ければ強さの裏にある優しさが見えてくる。俺がそうであったように、クラスの連中も少しずつ気づき始めている。
梅雨が明けると夏の地区予選がはじまる。朝練がはじまると、舞と一緒に登校して、勉強する生活もしばらくおあずけだ。振り続ける雨が、教室の窓ガラスに当たり流れ落ちていく。ガラスに映った俺の顔が、舞と一緒に過ごす時間がなくなることを、どこかさびしげに語りかけていた。