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いつからだろう泣けなくなったのは?
決して裕福とは言えなかった。物心ついた時から父親も母親もなく、何もなかった。こぐま園という小さな児童養護施設で、同じような境遇の奴ともう何年も過ごしている。
俺はここが嫌いだった。六畳ほどの各部屋に子供が四人ずつで共同生活をする。テレビは制限され、風呂だって毎日決まった時刻に入る。「親がいなくて友達と騒げて最高」なんていう奴は、修学旅行の何日間だけ楽しんだ奴の話で、実際そんな状態が毎日続けばどうなる? みんないやになるにきまっている。
義務教育のおかげで学校にはいけたけど、学校帰りはいつも憂鬱になる。家が児童養護施設なんて、友達に知られたくなかった。帰り道にゲーセンに行き、コンビニで買い物する当たり前のこともできなかった。アスファルトの地面を少し窮屈な靴で踏みつけるたびに、「ここから出て行ってやる」と俺はいつも思っていた。
出ていくチャンスは十六歳になる前に訪れた。もともと体の大きかった俺は、中学の頃には身長が180センチを超え、スポーツだけは何でもできた。いろいろな運動部の助人として、野球、サッカー、陸上と試合に出て結果を残した。特別な練習などしなくても、誰より速くボールを投げ、誰よりも早く走ることができた。もしかしたらこれが、なにもない俺に与えられた唯一ものだったのかもしれない。
中学三年の時、体育教師の坂本が、私立光西高校に推薦入学を薦めた。野球部の特待生試験に合格すれば、高校三年間の学費が免除され、野球部の寮で生活もみてくれる。三年間みっちり頑張れば、将来プロの選手になる可能性だってある。もっともらしく聞こえたが、勉強ができずお金のない者に残された選択肢は、それしかないと言われているに等しかった。野球に特別な思い入れはなかったが、児童養護施設から出たい一心で特待生試験を受けた。結果は待たなくてもよかった。俺が投げた球を、野球部の現レギュラーの誰も打ち返すことができなかった。
寮に入る朝、園長の児島さんが、俺の肩をたたいた。
「勇次くん、これから楽しいことが一杯まっていますよ。でもね、つらいときここに帰って来ていつでも泣いていいんですよ」
俺は、寮までの遠い道のりを電車にゆられながらずっと考えていた。
親に捨てられた人間に楽しいことなどまっているのだろうか?
人生のスターラインでいきなりつまずいた人間に、挽回のチャンスなどめぐってくるのだろうか?
つらいときに本当にいつでも泣いていいのだろうか?