第一話 三つ目のコップ
知らせは、あまりにも静かに届いた。
午前の光が、レースのカーテン越しに食卓へ落ちている。
味噌汁の湯気は消えかけ、卵焼きは少し冷めていた。
「ちゃんと食べなさいよ」
遥は小さく呟いた。
テーブルの端に、翔が残した一切れの卵焼き。
いつもなら「あとで食べるって言ったじゃん」と言い返す声が返ってくるのに、今日はそれがない。
当たり前の朝だった。
「行ってきます」
ぶっきらぼうな声。
「いってらっしゃい」
遥は振り向かずに返事をした。
洗い物の手も止めなかった。
玄関のドアが閉まる音。
それが――最後だった。
インターホンが鳴ったのは、それから一時間も経たない頃だった。
スーツ姿の男が二人。
差し出された名刺。
交通事故。
病院。
至急。
言葉は聞こえているのに、意味にならなかった。
「違います」
なぜか、そう言っていた。
「うちの子じゃ、ありません」
だって、さっき出ていったばかりだ。
帰ってきて、残した卵焼きを食べて、また文句を言うはずだった。
そんなはずがない。
病院の白い廊下は、やけに長かった。
名前を呼ばれ、部屋に入る。
そこにいたのは、眠っているような翔だった。
目を閉じているだけに見えた。
声をかければ、起きる気がした。
「翔」
返事はなかった。
近づいて、手を取る。
冷たかった。
「違う……」
遥は繰り返す。
「違う……こんなの……」
涙は出なかった。
泣いてしまえば、
もう会えない現実を受け入れてしまう気がしたから。
翔は、高校二年生だった。
陸上部で、長距離を走っていた。
毎朝、同じ時間に家を出て、同じ道を走る。
その通学路で、事故は起きた。
いつもと同じ朝。
いつもと同じ道。
それなのに、帰ってこなくなるなんて――
火葬場で、遥は初めて声をあげた。
「連れていかないで」
棺にすがりつき、何度も繰り返す。
「まだだめ……翔、ひとりにしないで……」
腕を引かれても離れられなかった。
扉が閉まり、煙が上がる。
その瞬間、何かが途切れた。
それから、遥は泣かなくなった。
涙を流すことが、怖かった。
朝になると、いつも通りに起きた。
ご飯を炊き、味噌汁を温め、卵を焼く。
それから、翔の部屋の扉を開ける。
「おはよう」
返事はない。
それでも、声をかける。
弁当も作る。
唐揚げ、卵焼き、ブロッコリー。
ミニトマトは入れない。翔が嫌いだったから。
テーブルに置く。
誰も持っていかない弁当が、そこに残る。
夕飯も三人分。
誠は何も言わない。
ただ、翔の席を一瞬だけ見て、言葉を飲み込む。
季節だけが過ぎていく。
春が来て、夏が過ぎ、秋が深まり、冬になる。
外の世界は変わっていくのに、
家の中だけが、あの日のまま止まっている。
玄関には、翔のランニングシューズ。
洗ったままのユニフォーム。
記録ノートには「あと三秒」の文字。
時間は進んでいるのに、翔だけが進まない。
年が明けた。
街には振袖が並び、テレビでは成人式の特集が流れる。
遥の中で、何かがざわついた。
もし、あのまま時間が続いていたら――
成人式の日。
外は笑い声であふれていた。
振袖の女の子。スーツの男の子。
みんな、未来へ進んでいる。
あの子も、ああしていたはずだった。
テーブルに、コップが三つ並ぶ。
誠が、ビールを置いた。
「成人、おめでとう」
静かな声。
「母さんも、一緒に祝おう」
遥は震える手でグラスを持つ。
いないはずの席のグラスに、ビールが注がれている。
「……おめでとう」
グラスを重ねた瞬間、
止まっていた時間が、崩れた。
涙があふれた。
止まらなかった。
「ああ……いないの……」
声が震える。
「もう、会えないの……」
ようやく、理解してしまった。
誠が、静かに抱きしめる。
「優しい子だったな」
「……うん」
「生きていてほしかったな」
「……うん」
「一緒に酒、飲みたかったな」
ただ、生きていてほしかった。
それだけでよかった。
もう一度会いたい。
「ありがとう」って言いたい。
それだけなのに。
泣き続けて、涙が枯れたころ。
ふと、風が頬をなでた。
やわらかく、あたたかい風。
まるで、そこにいるみたいに。
「……おかえり」
遥は、そう呟いた。
帰ってこない。
それでも。
ここにいた時間は消えない。
テーブルの上には、三つのコップ。
ひとつは、もう誰も手に取らない。
それでも――
その席は、今日もちゃんと、ここにある。




