ユンベ村編9『舞台裏の暗躍〜盤上に揃う役者たち〜』
少女の処刑が決定したその日の深夜。
森を舐めるように燃え広がっていた火の手は、深夜になり村人総出の消火活動によってようやく鎮まりつつあった。
狂騒に包まれた森から少し離れた、静寂な礼拝堂の執務室。
窓から差し込む冷たい月明かりだけが、装飾の一切ない質素な部屋を照らしている。
ヴェルナーは暗闇の中、ただ静かに窓辺に立ち、微かに煙を上げる遠くの森を無表情で見つめていた。
修道服の袖から覗くその手には、分厚い剣ダコの名残がある。レベル68——かつて聖騎士として血の滲むような修練を積んだ証だった。
だが、その手にもう剣が握られることはない。
「あとはあの小娘を焼いて、内なる『コア』を炙り出せば——」
低く、ひどく冷たい声が部屋に落ちる。
彼の描いたシナリオは見事に村人たちを騙し切り、天使を処刑台へと追いやった。だが、ヴェルナーの顔に自惚れや達成感はない。彼にとって、こんな村人たちを操ることなど、ただの泥臭い作業工程に過ぎなかった。
「しかし……これが、聖国が最重要極秘で進める計画とは。上は一体何を考えているのか」
淡々と独りごちて、ヴェルナーは窓から身を翻した。
「まあ、私には関係ない。あの薬さえ手に入ればな」
その言葉を合図にしたかのように、部屋の隅の『影』が不自然に揺らぐ。
這い出てきたのは——【シャドウ】と呼ばれる、顔も声も持たない漆黒の人型生物だった。暗殺や工作のために生み出された、感情のない聖国の道具だ。
「……残りのヒカリゴケは処理したか?」
ヴェルナーの問いかけに、シャドウは音もなく、ただコクリと一度だけ頷いた。うんともすんとも言わない。
「聖国も、私にこんな傀儡を当てつけおって」
ヴェルナーはわざと声に出し、鋭い眼差しでシャドウを睨みつけた。
だが、シャドウは何の反応も示さない。舌打ちを一つ落とし、ヴェルナーは本題を切り出した。
「あの薬はどうした。実験として、森の魔物に与えていた例の薬だ」
命じられると同時に、シャドウは黒い腕を伸ばし、ヴェルナーの目の前に「それ」を差し出した。
手のひらに収まるほどの、小さなガラスの小瓶。
「去れ」
短く命じると、シャドウは再び音もなく床の闇へと沈み込み、完全に気配を消した。
静寂が戻った部屋の中。
ヴェルナーは小瓶を手に取り、月明かりへと静かにかざした。
怪しく、そしてひどく暴力的な紫色に発光する液体。
「生物に与えると、魔力を強制的に増強し、限界を超えた力を与える『転薬』……」
瓶を見つめるヴェルナーの瞳の奥で、決して消えることのない仄暗い炎が揺らいだ。
「矮小な魔物が、あの森の結界を突破し、火を吹くまでに成長していたのだ。これを飲めば、あの男にも——」
言葉を途切れさせ、ヴェルナーはギリッと血が滲むほど強く小瓶を握りしめた。
脳裏に焼き付いているのは、己のすべてをへし折った理不尽なまでの『才能』の記憶。
彼にはもう、己への驕りなど微塵もない。手段など選ばない。どれほど外道に堕ちようとも、この命を削る劇薬に頼ろうとも。
「次こそは必ず……」
静かな礼拝堂の執務室に、復讐鬼の重い執念だけが淀んでいた。
◇
翌日。
シルフィの処刑の情報は村中、いや、行商人の手を伝い村の外まで瞬く間に巡っていた。
その情報を聞きつけ、深くフードで顔を隠しながらユンベ村へと潜入する人影があった。
青色の瞳と、金色の長い髪がフードの影にのぞく。
人類最強の少女——イリアだ。
村の端にある、古びた小屋がやけに厳重に警備されている。
イリアは常人には視認すら困難な凄まじい速度で屋根に駆け上がり、小窓から中を確認した。
——やっぱりここね……。
薄暗い小屋の中には、すでに十字の木枠に磔にされているシルフィの姿があった。
処刑の準備が整うまでの間、あそこに監禁されているらしい。
イリアは屋根から裏路地へと音もなく飛び降りた。
「さて、無理やり助けるのは簡単だろうけど……」
イリアがフードの奥で鋭い目を細め、腰の剣に手をかけようとした、その時だった。
「——それはやめてくれ」
「……昨日ぶりね」
背後からかけられた声に、イリアは静かに振り返った。
そこに立っていたのは、黒髪に黒い瞳をした、平凡な顔立ちの青年だった。
「ハル……と言ったかしら」
「会って二回目で呼び捨てか。まあいいけど」
ハルは肩をすくめ、イリアの警戒に満ちた視線を真っ向から受け止める。
「今、無理やり助けたって、また別の場所で同じことを繰り返すだけだ」
「昨日会ったばかりのあなたが……何を知ってるっていうの?」
イリアの声音が、一段と低く冷たくなる。
しかし、ハルは全く怯むことなく、薄く笑って一つの単語を口にした。
「『リ・プルーム』」
「——ッ!」
その言葉を聞いた瞬間、イリアから明確な殺気が放たれた。
——『リ・プルームに匿ってもらえば、あなたは安全だったのに!』
脳裏に蘇るのは、数日前の自分の言葉。
あの時、シルフィへの説得の熱のあまり、彼らを無害な旅人だと括って不用意に口走ってしまった組織の名。
まさか、あの場にいたただの一般人が、その単語を拾い上げ、あまつさえ自分を縛る交渉のカードとして切ってくるとは。
「あの時ね……」
カチャリ、と剣が鞘から僅かに抜ける音が裏路地に響く。
イリアはハルを射抜くように睨みつけた。その目にはもう、彼をただのモブとして見る油断はない。
「あなた、ただの一般人じゃないわね。……それで、どうするつもり? ここで私を吊るす?」
今にも首を刎ねてきそうな人類最強の少女を前にしても、ハルはただ静かに首を振った。
「そんなつもりはない。むしろ逆だ。協力して欲しい」
そこから、ハルは淡々と己の描いた『反撃のシナリオ』を語り始めた。
ヴェルナーの企み、ヒカリゴケのからくり、そして三日後の処刑当日に仕掛ける大掛かりな盤面——。
裏路地で計画を話し終えたハルを、イリアは信じられないものを見るような目で見つめていた。
「まさか、そんな上手くいくの……?」
「上手くいくさ。もしそれが成功したら……少なからずこの村でのシルフィの冤罪は解ける」
なおも疑いの目を向けるイリアに対し、ハルはダメ押しとばかりに、極めつけの一言を放った。
「もし失敗したなら、君がシルフィを助ければいい。ついでに僕を殺したっていい。最強なんだろ?」
「…………っ」
己の命すらも盤面のチップとしてあっさりと差し出す、異常なまでの自信。
ハルのその底知れない真っ暗な瞳に気圧され、イリアは小さく息を吐いて剣から手を離した。
「……いいわ。でも、完全に信用したわけじゃない。ダメだと思ったら、即介入するわ。もちろん、あなたもただじゃ済まさない——」
言い残し、イリアがまた凄まじい速度で姿を消す。
残されたハルは、誰もいなくなった路地で一人、満足げに口角を上げた。
◇
その日の夜。
冷たい夜風が吹き抜ける中、十字の木枠に磔にされたシルフィは、ただ静かに空を見上げていた。
見つめる先は、星の瞬く遠くの空——故郷である『天界』だった。
「じいじ……姉さん……。ユノ様……」
ポツリと、ひどく寂しそうな声が夜闇に溶ける。
どんな時でも絶やさなかった、シルフィのいつも元気で健気な笑顔が、この時ばかりは少しだけ綻び、弱々しく歪んでいた。
乾ききった喉がひりつくように痛い。お腹も空っぽで、なけなしの魔力もとうの昔に限界を迎えている。
深い疲労と絶望の中で、徐々に意識が朦朧とし始め、目を瞑った、その時だった。
——ぱたぱたぱた。
微かな足音が聞こえた。
最初は、限界を迎えた脳が見せているただの幻聴かと思った。だが、その足音は確かに近づいてきて、シルフィの目の前で止まる。
重い瞼をゆっくりと開けると、そこには一人の少女が立っていた。
「……おねえ、ちゃん」
パンと水の入った革袋を抱えている。
大きな瞳でシルフィを見上げるのは、ミアだった。




