「君を愛することはない」ということですが、いつ溺愛して下さいますか?
「君を愛することはない」
淡い月明かりの差し込む寝室。
すぐ横でベッドに腰かける夫の冷たい物言いに、クラリッサはきょとんと首を傾げました。
「突然、どうされたんですか?」
「どうもこうもない。俺は、君を愛することは……ない」
2度目の宣告に、クラリッサは今度は逆の方に首を傾けます。
宮廷伯の末娘のクラリッサは辺境伯の嫡男であるフリードリヒと、まさに今日、夫婦になったばかり。
そう、今はふたりの新婚初夜なのです。
――母からは怖がらずにフリードリヒ様に身を委ねなさいと言われたけれど……こういう場合は、どうすればいいのかしら?
クラリッサがぼんやりと考えていると、顔を蒼白にしたフリードリヒはさっさと立ち上がり、寝室を後にしてしまいました。
扉の閉まる音が、クラリッサひとり残された室内に響きます。
「君を愛することはない、ですか……」
王都で育ったクラリッサと、辺境で育ったフリードリヒ。
全く別の場所で育ったふたりですが、結婚するまで交流がなかったわけではありません。
父親同士がかつての盟友だったことから、ふたりには折に触れて会話をする機会がありました。
「政略結婚とはいえ、嫌われてはいないと思っていたのだけど……」
けれど、辺境に嫁いできてから。
いえ、出会ってからこれまでを振り返ってみても。
クラリッサには、さっぱり心当たりがありませんでした。
それどころか、むしろ――
不意に、クラリッサの頭がかくんと前に倒れました。
続いて、すぐに眠気が襲ってきます。
それもそのはず。
クラリッサは慣れない土地で盛大な結婚式をこなしたばかり。
それはそれは、とても疲れていました。
誰もいないベッドに身を横たえてみると、なんとふかふかで気持ちいいこと。
この日のために使用人が整えてくれたのか、たっぷりのおひさまの匂いがクラリッサを包みます。
夫と寝所を共にして子供を作るのはクラリッサの大切な役目のひとつ。
本当ならフリードリヒを追いかけるべきなのかもしれません。
「……とりあえず、今日はお休みしましょう」
それでも、クラリッサは自分に優しく囁いて、すぐに眠ってしまいました。
クラリッサはなかなか、肝が据わっているのです。
* * *
「……と、いうことがあったの」
「まあ! そんなことが……」
翌日の昼下がり、クラリッサは実家から伴ってきた侍女のミーナに事の顛末を話しました。
「クラリッサ様、お気を落とさないでくださいね。こんなに可憐で麗しい私たちのクラリッサ様を『愛することはない』なんて、旦那様のほうがおかしいんですから!」
のんびりと紅茶を嗜むクラリッサの横で、ミーナはわなわなと身体を震わせます。
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ」
発言の通り、クラリッサは思い悩んではいませんでした。
フリードリヒのいつになく冷徹な対応には、多少引っかかりがありましたが。
それはそれ、これはこれ。
「いえ! そういうわけでは……はっ!」
ミーナはいかにも何かに思い当たった、という風に口元に手をあてます。
クラリッサはそんなミーナの様子を可愛い仕草だなあ、と眺めています。
「これはもしや……『溺愛』の兆しでは?」
「『溺愛』の兆し?」
「はい。台所で他の使用人たちが噂話をしているのを聞いたことがあります。初夜の『君を愛することはない』という発言は『溺愛』を呼ぶ……というジンクスを」
「まあ、そんなジンクスがあるのね」
――この世には色んなことを考える人がいるのね。面白い。
奇妙なジンクスを考えついた誰かのことを思い、クラリッサはくすくす笑います。
「それじゃあ、私はいつかフリードリヒ様に溺愛して頂けるのかしら?」
「ジンクスに従えば、恐らくは。私が旦那様ならジンクスなんて関係なく絶対に命をかけて愛し抜きますけれど!」
「ふふ、ありがとう」
ジンクスが現実になるか、それは分からない。
けれど、結婚生活はまだ始まったばかり。
慌てなくていいのなら。
しばらくは、いつ溺愛してもらえるのか楽しみに待ってみよう。
焼き菓子を上品に口に運びながら、クラリッサはそう決めたのでした。
* * *
そうして、クラリッサの『溺愛待ち』の新婚生活が幕をあけました。
ある日の朝食前のこと。
クラリッサはフリードリヒと顔をあわせました。
朝の爽やかな日差しが室内と、フリードリヒを明るく照らしています。
心なしか表情も多少、昨夜よりは和らいで見えました。
こんなにいい朝ですから、もしかすると急に溺愛が始まるかも。
例えば、いきなり手を取られて笑いかけられたり?
うーん。フリードリヒ様の場合それはちょっと難しいかしら。でも……
なんて考えて、クラリッサは胸を弾ませます。
「おはようございます。フリードリヒ様」
けれど、クラリッサの挨拶にフリードリヒは口元を引き結んでしまいました。
そして、あからさまに顔を反らしてただ一言。
「……おはよう」
――あら残念。まだみたい。でも、挨拶して下さった。
ふんわり笑うクラリッサをよそに、フリードリヒは初夜の時のように、さっさと自分の席に座ってしまいます。
クラリッサも遅れて、フリードリヒの向かいの席に座ります。
フリードリヒは表情を硬くし、机のうえにじっと視線を落としています。
やがて朝食が運ばれてくると、焼き立てのパンとスープの香りで食卓が華やぎます。
その味わいに舌鼓を打ちながら、クラリッサはふと考えます。
――さきほどのフリードリヒ様の唇、ぴんと張った糸みたいだったな。
――そうだ、久しぶりに刺繍でもしてみよう。
裁縫道具はどの棚にしまっていたかしら?
久しぶりに針を持つ自分を想像し、クラリッサは上機嫌にパンを頬張るのでした。
* * *
また、ある日の夕暮れどき。
「できました!」
クラリッサは自室で刺繍をしていました。
フリードリヒの黒い髪と灰青の瞳に似た色の糸を手に取り、流行の模様を絹のハンカチに刺してみたのです。
その日の晩餐のあと、クラリッサは早速、そのハンカチを差し出しました。
「これは?」
「私が刺繍を施したハンカチです。よろしければ、使って頂けませんか?」
クラリッサはゆったりと目を細めます。
一方、フリードリヒの灰青の瞳はわずかに見開かれたあと……ぎゅっと閉じられてしまいました。
「……なぜ?」
喉の奥からようやく絞り出したような、小さく、掠れた声。
フリードリヒの、その苦しげな声を受け止めて――クラリッサは、ふと胸の奥で気づきました。
ハンカチに刺繍を、と決めたとき。
当たり前のようにフリードリヒ様に差し上げるものだと、そう思っていたことに。
そんな自分が我ながらなんだか可愛らしくて、クラリッサは微笑み、ありのままの気持ちを伝えます。
「ただ、贈りたかっただけです」
そうして、すこし強引にハンカチをフリードリヒの手に握らせてしまいました。
触れたフリードリヒの手は冷たく、しかも細かく震えていました。
クラリッサが見上げるようにフリードリヒの顔色を伺うと、その顔は初夜の日のように蒼白でした。
苦しげな声。手の冷え、震え。
その上、もはや青白い顔。
――ずいぶん、お加減が悪いのでしょうか? それとも……。
きっと、今は少し離れてあげたほうがいい。
そう考えたクラリッサは、軽く会釈をしてから自室に帰っていきました。
「俺は、君のためにまだ、できることが……」
晩餐室にフリードリヒと、その呟きを残して。
* * *
そうして、季節がひとつ過ぎても。
まだフリードリヒの『溺愛』は、はじまりませんでした。
クラリッサは、ひとりで寝る夜を寂しく思うこともありました。
けれど、ごくたまに視線が交わったとき、
フリードリヒは決まってどこか必死さを滲ませて顔を逸らすので――。
クラリッサはその姿を見るたびに、もう少し待ってみたいと思うのでした。
* * *
そして、庭園に薄く雪が積もった日の午後。
クラリッサはミーナの淹れてくれた紅茶を楽しんでいました。
「懐かしい味……ありがとう、ミーナ」
「ええ。今日は寒いので、身体が温まるこのお茶がよいかと思いまして」
クラリッサの実家では、寒い時期にショウガの入ったお茶を甘く飲むのが定番でした。
クラリッサが紅茶をひと口含むと、ぽかりと胸が温まりました。
「フリードリヒ様にも、温まっていただきたいな……」
雪深い辺境の地では、冬が来る前に片付けることが山積みでした。
なので、ここのところフリードリヒは以前にも増して公務に忙殺されています。
臣下たちと大量に書状をやり取りする関係で、文字が綺麗だから、という理由でミーナまで代筆に駆り出される始末。
――フリードリヒ様は昔から、たまに頑張りすぎてしまうのよね。
クラリッサは幼い頃の思い出を思い起こします。
――あの日、私がクロッカスが好きだと言ったら。
フリードリヒ様は、別れの日、その花を贈ってくれた。
春先の、まだ寒い早朝。
霜の降りた野を歩き回って、自分の手で花を束ねて下さった。
花束を差し出してくれた、その真っ赤に凍えた指先が。
クラリッサは今も、忘れられないのでした。
「寒い部屋で根を詰めていては、きっとまた風邪を引いてしまうわ」
クラリッサの傍らでミーナは両手で口を覆い、感激の声をあげます。
「なんてお優しい……! あとでぜひ、旦那様に紅茶をお持ちになってあげてください!」
「え?」
おや? とクラリッサは思いました。
ミーナはクラリッサが実家から連れてきたからか、フリードリヒには何かと辛口なところがありました。
けれど、どうしてか最近少しずつそういう発言が減ってきていて……今日はついに、クラリッサがフリードリヒに紅茶を供することを勧めたのです。
不思議そうなクラリッサの視線に気が付いたのか、ミーナは慌てた様子で咳払いをひとつ。
「い、いえ。あの……私はずーっとクラリッサ様を応援していますので! 早く『溺愛』がはじまりますようにと!」
「ありがとう……?」
――なぜこの流れで、溺愛の話が?
クラリッサはミーナの顔をじっと見つめてしばらく考えてみましたが……やっぱりよくわからないので、諦めました。
――よくわからないときは、直感に頼ってみましょう。
「ミーナ。フリードリヒ様に紅茶を淹れて差し上げたいの。お湯を用意してくれる?」
* * *
クラリッサがお願いすると、ミーナは辺境領に吹く北風よりもずっと早く、クラリッサが紅茶を淹れるための準備を整えてくれました。
そして、ところ変わってフリードリヒの書斎の前。
クラリッサは手ずから淹れた紅茶をトレーに乗せて、書斎のドアをノックします。
「誰だ?」
尋問官のような硬い声でフリードリヒは応えます。
「クラリッサです。紅茶をお持ちしたのですが、入ってもよろしいでしょうか?」
クラリッサがおっとり呼びかけると……
ガタガタ! ドカッ!
扉の向こうから大きな音が聞こえてきました。
クラリッサが慌てて扉を開けるとそこには、床に倒れ伏すフリードリヒがいました。
――過労で倒れてしまった?
それとも、やっぱり風邪かしら?
クラリッサはカップの乗ったトレーを傍らに置いて、フリードリヒを助け起こそうと近寄りました。
しかし……
「来ないでくれ!」
フリードリヒは床に突っ伏したまま、一喝。
大声のせいか、風のせいか、窓ガラスがカタカタと小さな音を立てました。
クラリッサはその場で立ち止まり、しゃがみ込んでフリードリヒの様子を伺います。
見ると、お腹のあたりに何かを下敷きにしているようでしたが、それが何かはわかりませんでした。
「でも、体調が悪いのでは?」
「体調は問題ない。だからすぐにこの部屋から出て行ってくれ」
「本当に?」
「本当だ」
確かに、言われてみればフリードリヒの声はしっかりしています。
――大きな声も出せるようだし、きっと躓いて転んでしまっただけなのでしょう。
それを見られて、恥ずかしかったのかしら?
なんにせよ、元気ならよかった。
クラリッサはほっと胸を撫でおろし、立ち上がり、部屋から出ていきます。
廊下に出ると窓の外、雪が降り始めたのが見えました。
紺色の空に綿のような大粒の雪。
雪は月明かりに照らされ、真っ白な世界にふわりと淡い影を落としています。
辺境の冬は寒い。
けれど、ときに、息を呑むほどに美しいのです。
クラリッサはつい時間も、廊下の寒さも忘れて、しばしその景色に見入ってしまいました。
* * *
――これだけ雪が降ったなら、今夜はきっと、一層寒くなるわ。
……あ!
「紅茶、忘れた!」
どれだけ雪景色に見とれていたのか。
白い指の先が寒さで赤くなってきた頃、ようやくクラリッサは自分が紅茶を届けに来たことを思い出しました。
慌てたクラリッサは、ノックも忘れて急いで扉を開きます。
すると、そこには。
机に突っ伏して寝息を立てるフリードリヒが。
疲れて眠ってしまったの?
……ああ、いけない。まずは紅茶を確認しないと。
入り口近くに置いたトレーを見ると、そこには空になったカップがひとつ。
それを見て、クラリッサの心はふわっと浮き立ちました。
――フリードリヒ様、召し上がって下さったんですね。
そのまま、クラリッサは机で眠るフリードリヒの傍に寄ります。
黒檀の天板の上にはきっちりと何冊かの本が積まれています。
そして、一番上にはクラリッサが贈ったハンカチがそっと載せられていました。
――ハンカチ、持っていて下さったんですね。
嬉しくなって、クラリッサは密かにフリードリヒの寝顔に顔を寄せます。
そのとき、自然に。
意識したわけではなく、ごくごく自然に。
クラリッサの視界に、平らに積まれた背表紙が映り込みます。
『男性機能の心理的要因とその対処法』
『成人男性における体調不全:辺境領における事例と気候的影響』
『男の誇りを救う薬草大全』
『陰なる活力を甦らせる十三の秘術』
「これは……医学書、でしょうか?」
クラリッサの唇から呟きが漏れた、そのとき。
眠っていたはずのフリードリヒが、勢いよく上半身を起こしたのです!
起き上がるやいなや、フリードリヒはきょろきょろとあたりを見渡します。
その流れでクラリッサを見つけるとカッと目を見開き、一目散に医学書らしきものを掻き抱きます。
「見たのか?!」
クラリッサとばっちり目が合ってしまったフリードリヒの顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていきます。
「何をでしょう」
「この、本……!」
「タイトルだけですが」
するとどうしたことでしょう。
フリードリヒの真っ赤な顔からは嘘のように赤みが引きやがて雪のように白くなり……全身がぶるぶる震えだしました。
「やはり、体調が悪いんですね。今日はもうお休みに……」
クラリッサは気づかわしげに、フリードリヒの肩に触れようとします。
けれど、フリードリヒはその手から逃げるように椅子を蹴って立ち上がり、後ずさります。
「もうやめてくれ!」
――せっかく、綺麗な灰青の目を正面から見ることができたのに。
どうしてそんなに悲しそうな顔をしているの?
怒り、というよりも切実なフリードリヒの表情に、クラリッサの胸はきゅうと痛みました。
「俺は……」
フリードリヒそこで、ひゅうと音を立て、息を吸い込み。
声を裏返しながら大声で吐き捨てました。
「君を、愛することができない……!」
勢いのままフリードリヒは胸に抱いた本を床に叩きつけ、走って書斎を出て行ってしまいました。
しんと静まり返る部屋にはクラリッサと、打ち捨てられた医学書たちが取り残されました。
こういうとき、どうすべきか。
クラリッサはすこしだけ悩みましたが――
「追いかけましょう」
すぐさま、フリードリヒの後を追いました。
クラリッサはなかなかどうして、肝が据わっているのです。
* * *
宵闇に染まる廊下にはオイルランプが所々灯っています。
雪の降る日は、ふだんより一段と夜の屋敷が静かになります。
そんな屋敷のなか、クラリッサはフリードリヒの足跡をたどります。
臣下の者や衛兵に訊ねて回り、ようやくフリードリヒが、裏門から敷地を出たらしいことがわかりました。
フリードリヒが向かった先。
クラリッサにはひとつ、思い当たる場所がありました。
――昔、フリードリヒ様が私のためにクロッカスを探して下さった丘。
きっとそこに、いらっしゃる気がする。
急いで靴だけを履き替えて、クラリッサは丘へ続く道を行きました。
* * *
屋敷の敷地からしばらく歩いた場所。
雪に覆われた小高い丘の上。
クラリッサはその一番高いところに、黒い人影を見つけました。
――きっと、フリードリヒ様だわ。
クラリッサはゆっくりその人影に近寄ります。
雪を踏みしめた靴底が踏んできゅっと音を立てました。
丘の頂上近くに来てみると、やはり人影はフリードリヒでした。
真白い絨毯の上。
フリードリヒは手を組み、仰向けで寝ていました。
「死んでしまえ。こんな俺など」
フリードリヒの独り言が、凍える風に乗って流れてきます。
まだこちらに気が付いていないようです。
クラリッサはなんと声をかけるか少し悩んで、とりあえず率直に思ったことを伝えることにしました。
「『溺愛』されないまま、未亡人にはなりたくないのですが……」
フリードリヒはまたもや、ものすごい勢いで上体を起こしました。
身体に薄く積もった雪があたりに舞い上がります。
そして、夢か現かを確かめるように、クラリッサの姿を凝視します。
「ど、どうして、ここが……?!」
「驚かせてごめんなさい。どうしてか、この場所にいらっしゃる気がして」
フリードリヒは一瞬、薄く口を開きかけました。
しかし結局、頭を抱え、瞼を固く閉じてしまいました。
冬に鎖されたこの地のように、すべてを雪の下に埋めてしまうかのように。
――凍ってしまった蕾のよう。
暖めて、溶かしてあげたい。
クラリッサは深く息を吐き、勇気を出して――ついに、あのことを尋ねました。
「どうして、『愛することはない』なんて言ったんですか?」
フリードリヒの肩が、大きく跳ねます。
けれどその口は堅く閉ざされたまま、びくとも動きません。
雪だけが、しんしんと降り積もっていきました。
――世界に、ふたりだけになったみたい。
クラリッサが清らかな静けさに浸っていると――
「……わかっているだろう」
ついに。
フリードリヒが、その沈黙を破りました。
フリードリヒは細く息を吐き、ゆっくりと、灰青の瞳を開き。
目線を落としたまま、ぽつりとこぼしました。
「俺は……男ではない」
――男では、ない?
フリードリヒの言葉の意味が、クラリッサには全く分かりませんでした。
自分よりずっとしっかりした肩幅。
白い喉元には、喉仏がくっきり影を落としています。
目の前にいるフリードリヒは、どう見ても男性に見えました。
クラリッサがきょとんと首を傾げるさまを見て、フリードリヒは苦し気に唸ります。
しかし、突如雪を巻き上げながら立ち上がり――
「お、俺は……俺は、不能なんだ!」
振り切るように叫びました。
大きく上下する肩。
荒く吐かれ続ける息は辺りを霞ませて。
白い靄のなか。
青白かったフリードリヒの横顔は、いつの間にか耳まで真っ赤に染まっていました。
しかし――
「ふのう? 何が『できない』のですか?」
まだ乙女のクラリッサは、知らずのうちに容赦ない追及をしてしまいます。
フリードリヒは声にならない呻きを漏らし。
やがて、白い吐息と共に消えてしまいそうなくらい、小さな声で告げました。
「……っこ……子作り……だ……」
子供は夫婦が愛し合って作るものと、クラリッサは聞いていました。
――なるほど。
だから、『愛せない』と仰ったのね。
すっきりと胸の内が整った感覚に、クラリッサはほっと息をつきます。
けれど。
それとは対照的に、フリードリヒは力なく頭を垂れました。
「俺は」
細く吐き出された息が、淡く白く、二人の間を流れていきます。
「君と、家庭を築きたかった」
吹き抜ける寒風に紛れるように、フリードリヒは囁きます。
「君と、小さな子供と、食卓を囲むのが夢だった。はじめて出会ったときからずっと……!」
フリードリヒの拳がより一層固く、固く、握りしめられます。
「なのに、俺は……あの日、立ち上がれなかった」
「えっと、でも立ち上がって部屋の外に」
「そ、そういうことではない」
クラリッサがフリードリヒの顔を覗き込むと、灰青の瞳にはうっすらと涙が浮いているように見えました。
震える睫毛を見ていると、どうしても何かしてあげたくて。
「……私は。フリードリヒ様とならきっと、本当の夫婦になれると思って、この地に嫁いできました」
クラリッサは立ち上がり、冷えで真っ赤になってしまったフリードリヒの拳を優しくその手で包み込みました。
フリードリヒの手はびくりと引っ込みかけましたが――
やがて、少しずつ力が抜けていきました。
――どうしてだろう。
自分よりずっとしっかりしたこの手を、労わってあげたいと思う。
そんな気持ちが、手と手が触れたところから、溢れてくる。
――ああ、そうか。
私は……
「私は、フリードリヒ様を愛しています」
いとも自然に。
その言葉は紡がれました。
フリードリヒは突然の告白に、喉を震わせ。
何度か荒く、息を吐きました。
「そんな、なぜだ?」
「理屈じゃなくて、『ああ、愛しいな』って……わかったんです。なにが『できなく』ても、関係ありません」
だいぶ温まった手と手を慈しむように見つめながら、クラリッサは歌うように語り掛けます。
「フリードリヒ様は、どうですか? やっぱり、私を愛しては下さいませんか?」
「……う……お……俺は……!」
フリードリヒの瞳から、ついに。
大粒の涙がこぼれおちました。
次々に頬を伝う涙はやがてぽたぽたと地に落ち、雪を溶かして跡を残します。
クラリッサがその頬に手を添えようとしたとき、ぱっとフリードリヒはその手を強く、握りました。
そのまま深く息を吸い込み、叫びます。
「俺は……! 君が、愛おしい!」
あまりに大きな声で、クラリッサの耳の奥がキンと痛みます。
けれど、それ以上に、小さな胸がぎゅっと締めつけられるように苦しくて。
クラリッサの瞳からも一粒、涙が落ちました。
「だって仕方ないだろう! 好きなんだから! ずっと! 昔から!」
フリードリヒが手を引くと、クラリッサはすとんとその胸元に収まってしまいます。
そのまま、不自然なほどそっと、壊れ物を扱うように。
フリードリヒの腕がクラリッサを包みました。
冷え切った腕なのに、どうしてか。
触れたところからじんわりと熱が広がっていくようでした。
――心が通じることが、こんなにも温かいなんて。
高鳴る鼓動と、火照る身体を感じながら、クラリッサは囁きます。
「私のこと……どれくらい、好きですか?」
「ぶ、不愛想な俺にいつも変わらず優しくしてくれる君が……好きで好きでしょうがない!」
「溺れるくらい愛していますか?」
「ああ! もう息ができないくらい、愛してる!」
ああ、やっと。
『溺愛』して下さいましたね。
……いいえ、表にしていないだけでずっと、『溺愛』して下さっていたのかも。
広い胸元に顔をうずめながら、クラリッサがついくすりと笑うと、フリードリヒは不安げに腕の力を緩めました。
「……その、変なことを言ったか……?」
クラリッサはフリードリヒを見上げ、少し背伸びをします。
そして、その頬にかするような淡いキスをして――
「いいえ、全く。私にとって世界で一番素敵な、愛の告白でしたよ」
耳元に、そう、甘く囁きかけました。
* * *
「やっぱり、『溺愛』されちゃいましたね!」
ようやく日差しが春の予感を帯びてきた昼。
クラリッサは今日も、ミーナと紅茶を嗜んでいました。
「そうね。ミーナの教えてくれたジンクス通りになったわ」
「あの雪の丘の一件以来、旦那様の溺愛っぷりといったら! 朝はお部屋まで迎えに行って、お昼休憩にも必ず顔を出して、夜なんかもう……ね!」
紅茶のポットを置いて、身もだえして見せるミーナに、クラリッサは淡く頬を染めました。
「なんだか恥ずかしいわ」
「むしろ見ているこっちが恥ずかしいくらいです! 毎日ごちそうさまです」
かしこまってお辞儀をするミーナに、クラリッサは思わず声を立てて笑います。
それにミーナもつられて笑い、ふたりは顔を見合わせて微笑み合いました。
「でもね、最近思うの。私の方がむしろ、フリードリヒ様を溺愛してるんじゃないかって」
クラリッサの言葉に、ミーナははっとします。
「な、なるほど。あんなに冷徹だった旦那様に、クラリッサ様はずっと優しかったし……今もとってもお優しい……」
確かに、クラリッサの言う通りです。
よくよく考えてみれば、季節がいくつか流れるまでとんと冷たい旦那様を温かく見守り続けたのはクラリッサの方。
クラリッサもまた、深くフリードリヒを愛していたと言わざるを得ません。
――もしかしたら、結果的には『あの発言』が、私とフリードリヒ様を、深く結びつけてくれたのかも? さすがに考えすぎかしら?
クラリッサの心の声に同調するように、ミーナは「うーん」と深く唸りました。
「……私も、結婚したら未来の旦那様に『愛することはない』って言ってもらうべきでしょうか?」
と、真面目な顔をしてクラリッサに問いかけます。
クラリッサ珍しくちょんと眉を怒らせて言いました。
「あら。そんな旦那様のところには、ミーナを決して嫁がせませんよ」
「クラリッサ様ったら!」
ふと、庭先に目をやると、花壇に紫色の蕾が並んでいます。
クラリッサは一目で、春の訪れ告げるあの花だと分かりました。
――きっと、フリードリヒ様だわ。
愛しい人。
ふたりの本当の雪解けは、もうすぐそこです。