ファーストトライ 短編試作『名前のない恋』
ぬくもりが、まだ残っている。
この膝の上。かつて、あの人のものだった場所。
あの人は、今日、死んだ。
名前も呼ばれず、言葉も交わさず、
ただ毎日、同じ火を見て、同じ畑に立って。
それだけの日々の中で──私は、恋をした。
私? ただの猫よ。
細身で、毛並みも平凡で、特別な血筋でもない。
でもあの人は、雨の夜、倒れていた私を拾い、
言葉ひとつなく、毛布で包んでくれた。
その日から、私は彼の家に住みついた。
ごはんをねだったことは、一度もない。
お椀の中に、魚の切れ端がある日は、尻尾が勝手に揺れてしまったけれど。
それでも私は、恋をしていた。
食べ物じゃなく、あの人の仕草に、手に、静けさに。
彼は最強だったらしい。
村に来る旅人たちが、よく話していた。
「かつて、魔王の首を刎ねた男」
「世界を変える力を持っていたのに、突然姿を消した英雄」
──でも私は、そんなこと一度も信じたことはなかった。
だって、彼は。
春に土を耕し、夏に干し草を積み、秋に芋を焼き、冬は眠っていた。
薪を割る音が好きだった。
小さな火が、鍋の底でぐつぐつ鳴るのも好きだった。
そして何より、時々、私の毛を撫でる、
あの人の無骨で、あたたかい指が──大好きだった。
名前を、呼ばれたかったわ。
一度でいいから、呼んでほしかった。
でも叶わなかった。
猫に名前なんて、不要だってことくらい、私も知ってた。
それでも、最期の瞬間──
あの人は、私を抱いた。
荒い息の中で、手を伸ばして、
毛並みに触れたその指が、最後だった。
もう、彼の手は動かない。
火は消え、鍋は冷え、家の中には風が吹いている。
私は、ここを出ることにした。
あの人が歩かなかった道を、今からたどってみる。
私の足で、猫の足で。
きっと誰にも気づかれない。
それでも、かまわない。
私は、猫だ。
そして、恋をした。
名前も呼ばれず、想いも届かず、でも──確かに。
恋だったのよ。
あの人に触れられた、あの夜のぬくもりが、
何よりも、証だったのだから。
お題はタイトルと中身ギャップで。
出してきたプロットを見て面白くなかったので、語り手を猫に指定。
某古典まんまのキャラだったので、メス猫、主人公に恋してる、と指示して出来たのがこれです。
膨らませたらどうなるか、試してみたのがセカンドトライです。