甘笠
雨上がりの夕暮れ時。
美味しそうな匂いがして、ホームシックになりそうだ。
私はいつものように見慣れた駅へと続く道を歩いて
いる。空はまだ厚い雲に覆われていて、
丁度、また雨が降り出しそうだ。
「うわ…傘持ってくれば良かったかも…」
コンビニ前で、立ち尽くしながら後悔した。
私の声は、アスファルトを打ち付ける雨の音に
かき消されていく。
もしかしたら、叫んでも誰にも聞こえない
かもしれない、なんてことを考える。
ふと、視界の端に人影を捉えた。
それが、どこか見覚えのある後ろ姿だったから。
「…高橋くん?」
声をかけると、彼は振り返って、目を丸くする。
少し驚いたような、それでいてどこか嬉しそうな
表情を浮かべて、彼は微笑んだ。
高橋くんは可愛い人なのだ。
「え、田中さん!こんなところで会うなんて、
すごいねぇ」
高橋くんは、高校時代からのクラスメイトだ。
物静かで穏やかな彼は、
クラスの中でも特に目立つ存在ではなかったけれど、
いつも周囲に優しい空気を纏っていた。
私は彼を、マスコットキャラクターみたいと思ってた。
「久しぶり~!高橋くんは、こんな時間にどこ行くの」
「ちょっと、本屋に寄った帰り。田中さんは、これから帰るとこ?」
「うーん、傘を忘れちゃったから、雨宿り中」
私が半笑いで言うと、高橋くんは少し考えて、自分の傘を差し出した。
「よかったら、僕の傘に入ってかない?家、方向同じだし」
彼の申し出に、私は戸惑いながらも甘えることにした。
高橋くんのことは、別に嫌いじゃない。
何なら好きだから、正直うれしいまである。
二人で一つの傘に入り、並んで歩く。
今になって、まさか相合傘をすることになるなんて、
一体どこの誰が想像できただろうか。
「高橋くん、疲れない?…ありがとね。」
「気にしないでいいよ。こんな雨の中、女の子一人で歩かせるわけにはいかないから」
高橋くんが、ちょっとカッコつけた顔をするので、
思わず笑ってしまった。
実はちょっとだけ、胸がときめいたのは秘密だ。
高校時代、彼とこんな風に話す機会なんてほとんど
なかったから、卒業して数年、まさかこんな形で再会
するなんて、思ってもみなかった。
帰り道、私たちは他愛もない話をした。
高校時代の思い出とか、最近見たテレビとか、
好きなアーティストとかね。
話しているうちに、彼をたくさん知れた気になった。
おねしょマンと呼ばれていたこととか、
優しそうなのに、下ネタがツボだということとか。
きっと、彼のおかげで楽しい時間になったのだと思う。
駅に着いたけど、私は、別れ際、少し寂しさを感じた。
いや、名残惜しさって方が近い、はず。
「傘、ありがとね!また、どこかで会えたらいいよね」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を伏せて、
こう言った。
「僕もそう思うよ。…あのさ、もしよかったら、
今度、ご飯とか行こ?」
彼はちょっとビビっていた。リスみたいで可愛かった。
私はモチロン即答だ。
「おっけー!絶対いこ!」
私たちは連絡先を交換した後、別れた。
今度は寂しくなかった。
また会えるって、分かってるから。
改札を抜けて、家へと続く道を歩きながら、
私は今日の出来事がフラッシュバックしてきた。
キモい会社の上司。
取引先のキショじじい。
さながら悪口のナイアガラである。
会社の帰り道のシーンに差し掛かると、
顔が熱くなってくる。
高橋くんと二人で歩いた帰り道、彼の優しい笑顔、
そして、少しだけ勇気を出して私を誘ってくれたこと。
「…可愛いなぁ、高橋くんって…」
私が男だったら、絶対襲っちゃうなあ。
高橋くん、大丈夫なのかな。防犯面でさ。
まあ、そんなこと考えたって仕方がないんだけど。
それから、私たちは何度か二人で食事に出かけた。
初めての二人でのごはんは、ラーメンだった。
いや、いいんだけどラーメンて。
女と思われてないのかなって、ちょっと悲しくなった。
別に、高橋くんは、お気に入りのラーメン屋さんに
連れてきてくれただけだったんだけど。
高橋くんはいつも優しくて、何だかほやほやしてる。
一緒にいると安心できた。
でも、多分、高橋くんの特別は、私じゃない。
高橋くんは、基本誰に対しても優しい。
初対面の外国人にもめっちゃフレンドリーだし。
「私にとって、高橋くんって何だろうな」
そんなことを考えるようになった頃、
私たちは付き合い始めた。
きっかけは高橋くんから告白されたことだったりする。
「田中さんのことを、もっと知りたいと思いました。
一緒にいたいと思ったんです。僕と、
付き合ってください!」
高橋くんはマジメに、子犬みたいな顔をするから、
断われるはずもなかった。
まぁ、付き合い始めても、
私たちの関係は大きく変わらなかった。
高橋くんは相変わらず優しくて、ふわふわで、
私を大切にしてくれていた、けど。
彼からは、私以上の熱を感じないから。
「高橋くんって、私のこと、本当に好きなのかな。」
ほんの僅かな綻びはどんどん広がって、
大きくなっていって…
「ねえ、高橋くんは、私のことどう思ってるの?」
高橋くんは少し驚いた顔をして、こう言った。
「どう、って…好きだけど…どうしたの?」
高橋くんは、嘘をつかない。
だから、多分本当なんだろう。
でも、こんな風に考えているってことは、
私は高橋くんを信じられてないんだ。
「…いや、何でもない」
私はそう言って、彼から目を逸らす。
もやもやはこんがらがって、どうしようもなくなった。
それから、私たちはしばらく、
恋人として過ごしていた。
そんなある日、私は彼に別れを告げた。
「ごめんね、高橋くん。私、やっぱり、
高橋くんのことを、信じられないんだ。」
私の言葉に、彼は悲しそうな顔をした。
「…そう、わかった。今まで、ありがとう」
私たちは、それ以上何も言わなかった。
はは、私。今、酷い顔してるだろうな。
その日は、土砂降りの雨が降っていた。
彼と別れてから、私は後悔していたんだと思う。
私は、私の中の彼の存在が大きいことに気づいた。
「私、今さら気づいたんだ…」
信じられなくても。
あなたの居場所になりたい。
帰ってくる場所になりかったんだ。
けれど、とっくにもう遅かった。
私たちは、もう恋人じゃないんだ。
私は連絡を取ろうとした。
何回も、何回も。
けれど、勇気が出なかった。
彼に会うのが、堪らなく怖かった。
そんな時、私は高校時代の友人から、
彼のことを聞いた。
「高橋くん、最近、元気ないんだって。何でだろうね」
友人の言葉に、私は胸が締め付けられたのだった。
「私、やっぱり、彼が、彼が好きだ…」
私は彼に電話を掛けた。
「もしもし。あの、…高橋くん?私、田中です…」
私の声に、彼は少し驚いたようだった。
けれど、彼はすぐにいつもの優しい声で、
私に話しかけた。
私たちは、久しぶりに会って、たくさん話した。そして、私は彼に、自分の気持ちを伝えた。
「高橋くん、私…高橋くんが好き!図々しいかもだけど、
もう一度、私と付き合って下さい!」
私の言葉に、彼は少し口ごもりながら、こう言った。
「田中さん…、僕も、田中さんのことが大好きだ。」
私たちは、再び恋人同士になった。
けれど、以前とは少しだけ違っていた。
私たちは、お互いの気持ちを、
ちゃんと言葉にして伝えるようにしたのだ。
「好きだよ、悠」
「僕も好きだ、未玖」
高橋 悠と、田中 未玖。
私たちは、お互いの気持ちを確かめ合うのを
習慣にした。
雨上がりの帰り道、私たちは再び、
相合傘をしながら歩いていた。
けれど、以前とは違って、
私たちは、恋人だった。
「ねえ、悠」
「ん?」
「私、高橋くんと出会えて、本当によかった」
「僕もだよ、田中さん」
私たちは、いたずらっ子みたいに笑って、
そして、幸せなキスをしたってところ。
雨上がりの空には、虹がかかっていた。
ハッピーエンド。