ま○こ犯
※このお話は、文字の一部を『○』で伏せさせていただいております。
――いやあね、ほんと。こんなものを描くなんて。
――そうねえ、どうかしちゃったんじゃないのかしら。
――いったい何を考えてるのかしらね。
――見たくないな。
――もう、行こう……。
昼下がりのとある町。住民たちは顔をしかめ、ひそひそと囁き合っていた。
「また、ま○こ犯が出たんですって、下劣よねえ」
「あら、ダメよ。こんなところで“そんな言葉”を口にしちゃ」
「ママー、ま○こってなにー?」
「はいはい、なんでしょーねー。さ、行きましょー」
住民たちが不快感を露わにするのも無理はない。人通りの多い壁に、大きく【ま○こ】と落書きされていたのだ。
犯行はおそらく夜中。これまでに何度も同様の事件が発生していたが、犯人は未だ捕まらず、その意図も不明のままだ。不安を覚えた人々は落書きの前で足を止め、犯人への不満をこぼしていた。
「本当に嫌ねえ」
「きっと、頭がほんの少しだけ普通の人とは違うのね」
「でも……ひょっとして、あなたが犯人だったりして」
「え? ちょっと、それどういう意味?」
「だって、あなたの名前、『まりこ』でしょ?」
「それのどこが関係あるって言うのよ!」
「怒らないでよ。怖いわ……」
「ほらほら、そんなに声を荒げないの。あっ、ほら、警察の人が来たわ。二人とも、もう行きましょ」
住民たちはそそくさとその場を離れた。
現場に到着した刑事たちは、壁に大きく描かれた落書きを見上げる。そして、刑事が重々しく口を開いた。
「ま○こ……か」
「先月から続いて、これで五件目ですね」後輩の刑事が言った。
「夜中にスプレーでさっと書いたんだろうな。手慣れたものだ」
「ええ。三件目のとき、巡回中の警官に見つかり、犯人はスプレー缶を落として逃げました。同じ商品の可能性が高いですが、どこにでも売っている品なので特定は難しいですね。いっそスプレー缶を規制できればいいんですが」
「それは無理だ。おれも困るしな」
「そういえば、先輩はDIYが趣味でしたね。最近は何を作ったんですか?」
「小鳥さんのお家だよ。庭の木に取り付けてみたんだが、気に入って住んでくれたら嬉しいなあ」
「ははは、最高ですね」
「だろう? ははは!」
「ええ……それにしても、この落書きの意図は何でしょうか……」
「わからん。ただ、この町の平穏を乱す行為を放っておくわけにはいかない。……いや、もうこの町だけの問題じゃない。話は広まり、多くの人が不安を抱いている。必ず捕まえるぞ」
「はい!」
刑事は防犯カメラを見上げ、ニッと笑った。
町中に張り巡らされたカメラの映像から、すでに犯人の行動範囲は絞られている。逮捕は時間の問題だった。
しかし、犯人は誰もが予想しなかった行動に出た。
「きゃあ!」
「うおっ!」
「んま!」
「な!」
昼下がりの駅前で、一人の男が突然服を脱ぎ捨て、裸で駆け出したのだ。
「みんな! 目を覚ませ! 自分に正直に生きるんだ! おれは言うぞ! ま――」
しかし、男は町の警備システムに即座に捕捉され、あっけなく拘束されたのだった。
「……で、お前が『ま○こ犯』なんだな」
取調室。うつむいたまま沈黙する男を前に、刑事は肩をすくめ、優しく問いかける。
「ふーっ、まったく、人前で裸で走るとはな。お前さん、コールドスリープから目覚めたばかりか?」
「……ある意味、そうかもしれませんね」
「お、やっと口を開いてくれたか。ありがとな。だが、コールドスリープなんてものはこの時代にも存在しないぞ?」
「ええ、だから、『ある意味』だと言ったんです。目覚めた人間という意味でね。あるいは、真実に気づいた者……もしくは人間性を取り戻した者……神秘の花園の開拓者……いや、これは違うな……」
ぶつぶつと呟く男に、刑事は哀むような顔をした。
「よくわからんが……そういえば、お前の部屋、違法なブツが山ほどあったな。あれだけで何年も刑務所行きは確定だが、あの落書きをした理由を正直に話せば、多少は考慮されるかもしれんぞ。どうだ? 話す気になったか?」
「話しても無駄でしょう……あなた方には伝わらない」
「そんな冷たいことを言うなよ。あの落書きにはどんな意味があったんだ? あの『ま○こ』の真ん中には、何を入れるつもりだったんだ?」
「ふふ……ふはははははは!」
突然、男が笑い出した。刑事は思わず身を引き、畏怖の念を抱いた。男の目は爛々と輝き、まるで何かを悟った聖者のようにも、あるいは狂気に囚われた亡者のようにも見えた。
「ふふふ……刑事さん、真ん中にナニを挿れるって? ふふ、ははは! もしかすると、あなたは本能で気づいているのかもしれませんねえ! ふはははははは! あなたはまだ、人間を取り戻せるかもしれませんよ! これは素晴らしい! 素晴らしい! はははははははは! 」
「な、何をわけのわからんことを……! 『ま○こ』の意味を言え! 言うんだ! 『ま○こ』とはなんだ! 女か? 別れた女へのメッセージか? 共犯者か? 『まりこ』か? それとも『まちこ』か? あの○には、いったいどの文字が入るんだ!」
「ふふふ……ひらがなを一つずつ当てはめてみたらどうですか? ほらあ、ハメたいでしょう? ああ、それとも私の部屋にあった禁書。あれを読めば、ナニかわかるかもしれませんよ」
「あれはすでに焼却処分された。……規定により少し休憩を取る。お前があれだけの数の禁書をどこで手に入れたのかも、あとでしっかり話してもらうからな」
刑事は椅子から立ち上がると、取調室から出た。ドアが閉まると同時に、重いため息が漏れる。廊下を歩きながら、指で目頭を押さえた。そこに後輩の刑事が駆け寄ってきた。
「先輩、どうですか? 進展ありました?」
「どうもないよ。まったく理解不能だ」
「でも、捕まえたわけですから、これで安心ですよね?」
「ああ、警備ドローンのおかげでな。本当に、ドローンのほうがおれたちよりよほど仕事をしているよ」
「え……なんですか、それ……。誰かに言われたんですか? まさか、市民に? やだ、怖い、泣いちゃいそう……」
後輩の刑事は両手を口元に運び、涙ぐんだ。刑事は慌てて手を横に振った。
「違う、違う。昔捕まえた別の犯人が言ってたんだ。もう何十年も前の話だが……ふと思い出してな」
「はあはあ、よかった……あ、それってあれですよね。昼間の路上でわけのわからない言葉ばかり叫んでいた“ちょっと普通じゃない男”の事件ですよね」
「そうだ。あんな凶悪犯罪は滅多にないが、今回の事件とどこか似ている部分がある気がしてな……」
「怖い……」
「大丈夫だ。大昔は春になると、そういうバ○がよく出たらしい。AIが政権を担うようになってからは、めっきり見なくなったそうだがな」
「ちょっと、○カなんて言葉を使っちゃダメですよ。規制対象なんですから。刑事が逮捕されるなんてシャレにならないですよ」
「おっと、失言だな。今のはオフレコで頼むよ。はははははは!」
刑事は笑った。胸のあたりにかすかに残る違和感を吹き飛ばすように。
だが、頭の中で、『ま○こ』の真ん中に入る文字をひたすら考えていた。
そしてその疑問は、彼だけでなく他の人々の心にも静かに根を下ろし始めていた。