脱靴
少年は突如、今日死ぬことを思い立った。校舎の屋上から飛び降りて死のうと考えた。学校でいじめや、家で親に酷い扱いを受けていたたわけではない。生きることに疲れたとかそういうわけでもない。ただ、少年にとってこの先の人生がこんなにも平凡に過ぎていくことがたまらなく苦痛であった。
彼には仲の良い友人がいて、クラスで浮いた存在というわけではなかった。成績優秀であり、バレー部のキャプテンとして県大会にも出場していた。傍から見れば充実した学生生活を送っている少年であり、校内では羨望の眼差しを向ける者もいた。ただ、彼にはそれが手に取るように想像できるものであり、ありふれた事実であった。こうすれば、こうなるだろうという予測を立てるのは彼にとって造作も無いことであった。いつしか、起こること全てが平凡になり、デジャヴとなった。まるで、クリアしてやりこんだゲームを延々とステージ1から繰り返すかのような退屈さであった。そして、その退屈さの解決に、彼は死を求めるに至った。少年自身でもこれが衝動的なものであることは重々承知していたが、死ぬことに何の恐れも持たない人間が彼である以上、それはありうる可能性の一つであった。
少年は体育の授業で持久走を走っている間にそれを思いついた。白砂のトラックを延々と走り続け、そのほとんど変わらない景色を前に、彼はこの先の人生もずっとこうなのだろうなと想像した。周を回って再び同じ景色に出逢う度、その思いがより強くなり、確信した。
彼は今日、学校が終わると部活に行かないことを同級生に伝え、屋上に続く階段で日が暮れるのを待った。下校時間が過ぎ、校舎が静寂に包まれた後、彼は悠然と屋上に上がっていった。
外は既に暗くなっていた。硬いコンクリートの上を歩いていき、冷たい金属製の手すりに両手をついた。正面に見える校庭は暗闇をその中心に集めていた。上半身を手すりに預けて、真下を見ると灰黒い地面があった。彼は姿勢を戻すと、息を吐いて目をそっと閉じて飛び込んだ後の自分を想像した。仰向けに崩れ、頭から血を流す自分。翌朝に発見され、校舎中に鳴り響く救急車の音。学校中で大騒ぎになり、放課後のクラスルームで死んだことが告げられ、咽び泣く同級生。死に顔を見て、通夜で涙を流す親戚と家族。少年は笑みを浮かべ、徐に目を開けた。
歳を取ってその存在を疎まれて死んでいくぐらいなら、今皆が悲しんでくれるときに死んだ方がよっぽどいいじゃないか。風はちょうど少年の後ろから吹き、その背中を押しているようであった。少年は履いていた白い靴を脱いで、手すりに足をかけた。足は震えていたがそれは単なる恐怖によるものではなく、死へと自ら接近していくというリアリティからくる、一種の興奮に近いものであった。だが、両足をかけて手すりを跨ごうとしたとき、はたとその動きを止めてしまった。
「なぜ俺はさっき、靴を脱いだんだ?」
少年は自分が靴を脱いだ理由が分からないことに気がついた。飛び降りるのに靴を脱ぐ必要は無かったからだ。後ろ向きざまに脱いだ靴を見ると、白い靴のその両つま先が彼の方に真っ直ぐ向いていた。彼はしばらくの間静止すると、登り掛けていた手すりから下りた。なぜ、靴を脱いだのか、尤もらしい理由が思い浮かばなかった。揃えられた靴を後ろから見つめながら、自分が靴を脱いだ理由を彼は思案し始めた。
彼はまず考えた。飛び降りるときに靴を脱ぐのは遺書を置いておくためではないかと。脱いだ靴に遺書を添えるのは見たことはないが知っている光景であった。しかし、彼は遺書など持っておらず、それなら懐に忍ばせればいいと思った。次に、自分で飛び降りたという証人を作るためではないかと考えた。誰かに突き落とされて死んだのではない、自らの意志で死んだのだということを、代わりに語る存在が必要なのではないか。それとも、靴を脱ぐということは死への敷居を跨ぐ行為なのかもしれない。少年は様々に考えたが、それは単に靴を脱いだ事に対する後付けの理由でしかなかった。
少年はしばらく靴を脱いだ理由を考えていたが、段々とその靴の存在が鬱陶しく感じられるようになった。今、俺は死のうとしていたのに、靴のことを考えるのは何てばかばかしいんだ。そこで、片方の靴を拾い上げるとそれを地面に向かって落とした。靴は静かにその形を小さくしていき、二秒ほどして靴底が地面について大きな音を響かせると、横に大きく弾んで転がっていった。そして、片方だけ屋上にあるのも奇妙に感じて、残されたもう一足を地面に落とした。靴はさっき飛んでいった方向とは逆に大きく跳ねて、靴はバラバラに地面に鎮座した。
少年は靴下のまま、地面のザラザラとした感触を感じながらその靴を見下ろした。左右に散らばった靴はあまりにも離れていてそれぞれが独立しており、どちらが左右の靴か判然としなかった。彼はもう一度目を閉じると、そこに自分が落ちた姿を靴とともに重ね合わせようとした。しかし、白い二つの靴の存在感があまりにも強烈で自分の姿をそこに置くことができなかった。そして、これから死ぬという実感が段々と湧かなくなってしまった。彼は顔を両手で覆うとしゃがみ込んで、たった十分前に飛び降りて死ぬと決意していたときの意識を取り戻そうと思ったが、それは覆った手の隙間からポロポロとこぼれ落ちていくばかりであった。
この異変は何だと、少年は焦燥に思考を巡らせた。シャツに滲んだ脇汗が熱を帯びていく。あのとき、靴なんかに気がつかなければ、もう今頃俺は死んでいたはずなのに。いや、違う。全ての原因は靴だ。どうして、俺は靴を脱いだのか。いや…。
そのとき、少年は目を大きく見開いた。
「そうか…、俺は死ぬために靴を脱いだんじゃない、退屈だから靴を脱いだんだ。」
少年はその場から立ち上がると笑みを浮かべていた。そうそう、俺は退屈だったんだ。少年はその言葉を何度も繰り返しては、満足そうに笑った。やがて少年は手すりから離れると、屋上から降りていった。暗闇を湛える階段の中に足を躊躇無く出していきながら、頭では終始地面に落ちた靴のことを考えていた。
「あの靴は今、どんな姿で俺を出迎えるんだ?」
落とした靴を拾いに行くと、靴はそれが出来上がって以来、最も遠く離れた位置にあるようだった。両足を拾い上げ、それぞれを足に通して爪先をトントンと立てて履くと、靴は妙に軽い感じがしていた。
「何だ、死にたいのはお前の方だったのか。」