影の薄い秘書
秘書視点です
私はただ、痛みが欲しかった。
永遠に消えない、癒えない傷が欲しかった。
それが、私への罰になるから。
ひたすら、腕を引っ掻いて背中を毟って足を殴りつけた。
ジンジンと、ドクドクと。
痛みが走る度に安堵を覚え、痛みが薄まると同時に不安を覚えた。
私はただ、痛みだけを求めていた。
……弟を失った、その日から。
『姉ちゃん』
そう私を呼ぶ、その声が忘れられない。
『姉ちゃん』
ニカッと笑う、その顔が忘れられない。
『姉ちゃんのことはオレが守る!』
ヒーローに憧れる、その姿が忘れられない。
あの子は、私の弟は優しい子だった。
優しい、いい子だった。
日向のような温もりを持つ、愛らしい子だった。
だからこそ、あの子を失った時は絶望した。
頭が真っ白に、世界が真っ黒になっていくのを直に感じた。
血溜まりの中、あの子の純粋さを表すかのように、その姿のどこにも紅く染まる場所はなかった。
あの子だけが際立っていた。
一面真っ赤な世界で、あの子だけは何にも染まらないそのままの姿だった。
それは美しささえ感じるほど、死を認識できないほどの姿。
どうして、あの子が死ななくてはならなかったの?
どうして、あの子の呼吸が止まらなくてはならなかったの?
どうして? どうして?
『痛い、辛い、苦しいっ!! 助けてっ! 誰かつ、助けてっっ!!!!』
あの子は、弟は、その痛みを、見えない傷を抱えて死んだ。
それをようやく頭の中で咀嚼できた時には、あの子の姿はもうどこにもなかった。
私はあの子を助けられなかった。
あの子に痛みを抱えさせるばかりで、その苦しみから逃すことができなかった。
私はあの子の姉なのに。姉だったのに。
『姉ちゃん』
あの子が、そう呼んでくれていたのに。
あの子の背負った痛みも、あの子の抱えた傷も、全てが疎ましくて、全てが憎くて。
それでも、一番疎ましくて憎かったのは他の誰でもない、自分自身だった。
どうして、もっと早くにあの子を助けられなかった。
どうして、あの子の傷に気がついてあげられなかった。
…………これは、私の罪だ。
そんなある日、一人の男が私の前に現れた。
それはおかしな男だった。
平常、人が私を見れば恐れるように、疎むように睨みつけてくる。
けれどその男は、私の姿を不躾にも眺め、そして嘲笑った。
「自傷行為か。見た目通り、イタい女だな」
彼のその言い方に、苛つきを感じながらも同時に心地よさを感じた。
負の感情が高まるほど、これが自分に相応しいと安心を覚えた。
「お前、俺の下につかないか?」
けれど、彼の言葉をすぐには理解できなかった。
彼を見つめ、彼が何を思うのか探ろうとしても、何も分からなかった。
ただ、彼のその笑みは『悪魔』だと形容しても仕方がないほど歪んで見せていた。
「おい、聞こえてるのか? 判断も鈍い女だな」
更に歪んだその顔は、どこまでも理不尽さを思い起こさせる。
「……俺は、お前の欲しいモノをお前に与えることができる」
彼は急に私との距離を詰め、そして胸元を突いてきた。
「お前が欲するのは、痛みか、傷か、苦しみか。あるいはその全部か……」
彼の言葉が少しずつ染み込んでくる。
それは突かれた胸か、脳か。だんだんと思考が絡め取られる。
「痛みが欲しいなら一生消えない痛みを与えよう。傷が欲しいなら癒えない傷を与える。苦しみが欲しいなら逃れたくなるほどの苦しみを与えてやる」
今まで、たくさんの人達が私の肩を叩き、腕を引き、抱きしめてくれた。
笑う人もいれば、泣く人もいた。
……それでも。
彼らの言葉には、一度として惹かれることはなかった。
彼らのどんな表情にも、感情が揺さぶられることはなかった。
「俺の下に来い。お前が一生闇に塗れたいというのなら、俺がお前に、背負いきれないほどの闇を背負わせてやる」
私は、救われたかったわけでも、赦されたかったわけでもない。
だって、私の罪を赦せるのは、あの子だけなのだから。
もう、この世のどこにも居ない私の弟が、私を赦すことは決してない。
それでいい。それで構わない。
私は、私の愛したあの子を、私よりも先に死の世界へ旅立たせてしまったことが、何よりも赦せない。
永遠に消えない痛みを、癒えない傷を求めていた。
そんな私の気持ちを、突如として現れたこの男は見抜いてくれた。
見抜いた上で、私に闇を背負わせようとしてくれた。
今も、逸らすことなく私を見つめ続ける彼の瞳に、私は深い、暗闇の世界を見た。
私の持つモノとは似て異なる、深い闇を。
「………………私は、癒やされたいわけじゃない。安寧を求めたいわけじゃない。ただ、……痛みと、苦しみを持っていたいだけ」
彼の闇に、私は確かに惹かれた。
彼の提示する闇が、すぐそこにあるような気がした。
彼は許してくれる。
私が闇を抱えて生きていくことを。
死すらも甘いと、痛みを抱えて生きていくことを。
彼は、それを私に許してくれた。
だから、私は彼に付いていくことを決めた。
彼の内に秘めたる闇に惹かれて。
これから、どれほどの闇に引かれるのかを期待して。
逃げてしまいたいと、私がそう思ってしまう程の深い闇に期待して。
それから、主様は私に沢山の闇を見せてくれた。
それはこの国に蔓延る悪を。人間間に生ずる増悪を。この世をたらしめる醜悪を。
それを目にする度に、脳に焼き付き、胸が痛み、それを吐き出すことも許されず、ただその日々の中を過ごした。
決して安全とも、穏やかとも言えない日々ではあったが、それが私にとっての日常になることは嫌ではなかった。
彼の抱える過去を、闇をすべて見たわけではない。
その全体像さえ把握し切れていない。
けれど、彼の闇はきっと、この世界のすべての闇を凝縮したとしても、事足りないものだろう。
それでも、私に見せる彼の闇は、何故か日々深まっていくように感じた。
いつか、主様の闇は払われることはあるのだろうか。
彼の下、諜報型秘書として、闇に塗れることを望む私には、その未来を見ることは叶わなかった。
次回は悪魔の『奥様』。