屋敷に住まう執事
執事視点です
長い間、私は主の帰りを待っていた。
小さな領地の、小さな屋敷の管理を任されたその日から、私は執事として、この屋敷をお守りしてきた。
あの時から。主が帰らなくなったその時から、ずっと。
どれほどの年月が過ぎたか。
時折、巫山戯た若者たちが肝試しにと屋敷に侵入するようになった。
どうにかそれを追い払い、屋敷の中を掃除し続けても、結局やってくるのはただその繰り返しの日々だった。
この屋敷は、赤字経営の後に売り払われ、それを買い取ったのが我が主だった。
主の経済状況から、もっと良い土地の、もっと広い屋敷がいくつもあっただろうに、我が主は何故かこの屋敷を選んだ。
『キミにはまだ分かるまい。この屋敷の良さが』
そう言ってニッコリと笑った主の顔を、私は今でも忘れられずにいる。
『……すまない。本当にすまない。きっと、必ず! すぐとは言えないが、必ず帰ってくる! だからそれまで、この屋敷を、……頼むっ』
そう言って、この屋敷を出発された主の後ろ姿を、私は忘れることもできず、何度も夢に見た。
そして夢の続きでは、主はついにこの屋敷にお帰りになられた際、私の肩を優しく抱き寄せて仰るのだ。
『よく、よくこの屋敷を守ってくれた』と。
それが夢であることに、私は何度も落胆を覚えた。
いつかお帰りになる主の帰りを、私はひたすら待っていた。年月を経て劣化していく、この屋敷とともに。
そんなある日、屋敷の玄関口から何やら騒がしい音を立て始めた。
何だと玄関口の様子を覗えば、一人の男がそこに立っていた。閉めていたはずの扉はその漢によって蹴破られたのか、半開きになった状態だった。
いつもの巫山戯た連中の類かと思えば、その男はジロジロと屋敷の中を不躾にも眺めていた。
慣れてしまった招かざる客だということを私は察し、早く追い出さねばと策を練ろうとしたところで、丁度男は私の気配に気がついたようだった。
ズンズンと音が聞こえそうな程の勢いで、男はこちらに近づいてくる。
そして一言、男は言い放った。
「この屋敷を俺に寄越せ」
なんと無礼なと、私はその一言を発した彼を拒絶した。
我が主がお帰りになるその日まで、私がこの屋敷を守るのだと、私は彼に一切譲らない態度を取った。
この屋敷は、いつか我が主がお帰りになられる家なのだから。
しかし私に断られたはずの男はそれからも毎日やってきて、勝手に屋敷に入り私を見つけては「屋敷を寄越せ」と言うばかり。
その言い方も、態度も、傲慢そのものであった。
何度来ても断ると、何度言っても彼は何度もやってきて、言うのだ。
「この屋敷を俺に寄越せ」
こんな勝手な男が、何故こうも毎日来るのか。私は不思議でならなかった。
この屋敷の管理は、すでに私一人しかやっておらず、庭は荒れ、外壁は舗装が必要だと素人目にも判断できるほどだった。
毎日屋敷の中を掃除することに手一杯で、小さな畑に実る野菜をどうにか領民たちに分け、私一人分の食料を手に入れている状況なのだ。
領主がいない状況で、領民たちはよくもこの地にとどまってくれていると、私は何度も感服した。
集めた少ない税金は、住人の居ない屋敷の修繕よりも領地の開拓資金に使うほかなかった。
それでも、主が行っていた事業の継続をするばかりで、領地の経営が上向きになることもまた決してなかった。
「おい、いい加減認めろ。この屋敷を俺に寄越せ」
今、この領地には領主が、主が必要だ。
そのことは分かっていた。
しかし、だからと言って我が主の帰りを待つ以外の方法を、私は知らない。
いつか、きっとあの方はお帰りになる。
そう信じることで精一杯だった。
それ以上考えることを、拒むことしかできなかった。
またある日、彼がやってきて毎度と同じやり取りをした。
その時、ふと私は彼に尋ねた。
「何故そんなにもこの屋敷を求めるのか」と。
彼は鼻を鳴らし、私を嘲笑うように言った。
「俺は貴族が嫌いだ。この国の貴族が嫌いだ。興味一つない。が、俺は一応この国では爵位を持っている。屋敷一つ持っていないと手続きが面倒なんだ。だが、貴族みたく広い屋敷にも、広い庭園なんかにもこれっぽっちも興味ない。その点、この屋敷の狭さは俺にとって都合がいい」
これまでで、彼が一番多く語ったのはこの時だったかも知れない。
彼の言葉に私は圧倒した。
貴族が嫌いな貴族など、初めて見たからだ。
彼はもしかしたら「成り上がり」なのかもしれない。
それとも、意外にも上級貴族の縁者が何かか。
何より、狭い屋敷がいいなどと言う人間は初めて見た。
そして私は、彼を理不尽な男だと考えた。
私の大切な、大切な主の屋敷を欲しいと口にするその理由が、ただそんな理由であったなどと。
それからも、男は毎日私を訪ねてきた。
寄越せ寄越せと、そればかりだった。
彼を客人と呼んでいいかはこれまた悩ましいが、こんなにも人が訪ねてくるのはこれまでかつて一度もなかった。
男は朝来ることもあれば夜来ることもあった。昼に来た時は流石に「仕事はないのか」と尋ねたが、しかし彼は何も応えなかった。
そしてある日突然、彼が姿を見せなくなった。
ようやく諦めたのかと思うと同時に、私はどこか不安を覚えた。
彼はその前日までは普段通りだった。
もう来ないとも、飽きただと、不毛だとも言わず「明日にでも認めやがれ」と、これまた普段通り言い残して出て行ったのが最後だった。
その態度はいつも通り、傲慢で理不尽なものだった。
それがこうも急になくなると、それはそれで不自然以外の何物でもなかった。
それからしばらくのこと。
ガタリと、真夜中に音がして、すでに休息を取っていた私は飛び起きた。
音がした玄関に近づけば、外では雪が降っていることに気がついた。
まだその時期には早いというのに、不思議なものだと感じながらも、音の正体はそれであったのかと思考を巡らせる。
しかし、またガタッと物音がして、それは雪の影響ではないことに気がついた。
ゆっくりと暗い明かりのない玄関口に近づき、扉をほんの隙間ばかり開けると、何かがその隙間から勢いよく倒れ込んできた。
急いで飛び退ければ、バタンッと大きな音を立て、人が倒れたことにその時初めて気がつかされた。
そして、それこそがここ最近姿を見せなくなっていた彼であった。
急いで扉を締め、彼を近くの暖炉のある部屋に運び、一人がけ用の椅子に座らせ毛布を被せた。
このとき、彼には意識がなかった。
担いだ時に感じた男の体温の低さに、私は急いで厨房まで行き茶器を用意しその部屋に運び込んだ。
急ぎ用意したぬるま湯をゆっくりと彼の口元に持っていけば、男の口元がピクリと動いたのが見えた。
私はこの時初めて、彼を座らせた椅子が主のお気に入りであったことに思考が行った。
しかし、今はそれどころではないとそれ以上気にすることもなかった。
それから暫くして、男がようやく意識を取り戻した。私はこんな真夜中にどうしたのだと彼に尋ねた。
男はしばらく口を開くことはなかったが、彼の返答を待っている間に私は改めて彼の全身を認識できた。
そこで何故か、彼の体に無理やり巻いた毛布には血が染み込み始めていることに気がつく。そしてよくよく見れば、カップを持つ彼の手のひらも赤黒く染まっている。
ふと、視線を彼から移せば、床にも点々と血が続いていた。
私はこの一連の流れからようやく、彼が怪我をしていることに気がついた。
急いで彼をくるんでいた毛布を引き剥がし、どこの部位を怪我しているのか探せば、それは脇腹にあった。
この傷はどうしたと尋ねても、彼は何も語らなかった。
いくつか尋ねた後に、彼は一言「お前に正直に答える義務はない」と言い切った。
それから、せめて傷が治るまでだと、彼をその部屋に有無を言わせず隔離した。
彼は何故か何度も部屋を抜け出そうとしていたが、医者を呼ぼうとしたら更に酷くなったので、仕方がなく私が応急処置をするばかりだった。
あんなにもこの屋敷を寄越せと言っていた男が、何故こんな態度を取り続けるのか不思議でならなかった。
傷がある程度治ってきた頃合い、私はもう一度彼に尋ねた。
普段、何処で何をしているのかと。
彼の傷を見るために何度もむりやり服を脱がし、汗と汚れを拭うためにと、これまた何度も服を脱がしたが、その度に私は新しく古傷を見つけた。
それは刃物の切り傷だったり、打撲痕であったりと様々であった。
はっきり言ってなかなかに厳つい傷跡ばかりで、よくこれまで死に至らなかったと思うばかりだった。
しかし、やはり彼は何も応えない。
聞くなというオーラーを隠すことも、一切していなかった。
だからこそ、私は彼に聞いた。
何故、あんなにもこの屋敷を欲しがったのかと。
彼はまた鼻で笑い、以前にも同じ質問に答えたと言った。
私は、本当にあれだけが理由だったのかと更に問い返した。
今度の彼は今にも舌打ちをしてきそうな態度だった。
「俺がこの屋敷を欲しいと思った。ただそれだけだ」
彼のその言葉に、私は以前主が言っていた言葉を思い出した。
『この屋敷の良さを分かる者は、きっと私とも良き友人になれるだろう。キミも、きっといつか分かるようになる。その時は、ともに語ろう』
……彼は、彼には、この屋敷の良さというものが、分かるのだろうか。
その疑問はいつの間にか声となり、口から漏れていた。
彼は、一度眉を顰めたあと、部屋全体を見ながら言った。
「……言っただろ。俺は貴族が嫌いだ。死に金ばかり生む、貴族が俺は嫌いだ」
その時、彼の姿が何故か主と重なって見えた。
見た目も格好も口にすることも全て似ても似つかない主と。
……もう、この屋敷にはお帰りにならない主と。
彼が何故突然この屋敷に来なくなったのか、何故あんな酷い状態に至ったのかは何も知らないし、予想もつけられない。
…………しかし、私はもう、主を失いたくなかった。
「……貴方が、そんなにもこの屋敷が欲しいというのならば、差し上げます。もう、この屋敷に帰ってくる方は、……いらっしゃらないので」
彼の命令に近い横暴な言葉に、この時ようやく、私は頷くことができた。
その代わり、最後には必ずここに帰ってきて欲しい、という条件付きで。
その時の彼の顔は、それまで一度たりとも目にすることはなかった酷く醜い『悪魔の笑み』だった。
それからというもの、新しい我が主様は必ずこの屋敷に帰ってくるようになった。
その度に傷を増やしたり、面倒事や拾いものをしてきたり、急に「俺の女だ」と女性を連れてきたり。
領民たちからは碌でも無い主だと言われるが、私は彼を追い出せなかった。
私が彼の言葉に頷いたあの時、彼が見せた悪魔のその笑みを、忘れることは決してできなかったから。
彼が、この屋敷に現れる以前より、すでにこの屋敷の所有権を表す書類手続きを国との間で済ませていたことも、知るのはそう遅くはなかった。
『この屋敷を俺に寄越せ』
わざわざ私にそう言わずとも『今日からここは俺の屋敷だ。お前は出ていけ』とそう一言言うだけで済んだかもしれないのに。
彼はわざわざ、私に許可を求めに訪ねた。
訪ね続けた。『この屋敷が欲しい』と。
それがどういう意図で、どんな意味があったのかは、今では少しばかり……分かる気がする。
次回は悪魔の『秘書』。