悪魔との生活
また一日一話、10話投稿予定です。
ここからは奥様視点として物語が進みます。
あの屋敷には『悪魔』が取り憑いているらしい。
貴族とも思えぬ男が、あの狭い屋敷に住み着いているらしい。
その男こそが『悪魔』であり、その『悪魔』は国中から女子供を攫ってきてはその屋敷に閉じ込めてしまうらしい。
そして、その悪魔には名前がないらしい。
「──という噂が、領内で広まっているらしいですよ」
「何だその失礼な噂は」
執事のセバスが報告書を読みながらそう言った。
それに対し、旦那様は普段通りの不機嫌そうな顔をした。
「誰が悪魔だ、誰が」とぶつぶつ文句を言う様に、わたしは呆れて物を言った。
「旦那様が普段からそんな態度だから、領民たちが怯えてしまうんですよ」
わたしがそう言うと、彼はチラリとこちらを見て次にセバスを見た。
「……まさかとは思うが、この屋敷の主に向かってお前らも同じことを思っているんじゃないだろうな」
「どこをどう見れば、旦那様が『悪魔』ではないと言えますか」
「ええ、旦那様は『悪魔』そのものだと思います」
わたし達が即答して返せば、旦那様はチッと舌打ちを打った。
そして彼は、今彼の膝の上に座らされていたわたしの髪を一束持ち上げ、まるで上目遣いをするようにこちらを見上げてきた。
「フーン。俺の女のくせに、言うようになったなぁ。……リーファ」
「なっっ!?」
「それでは、報告は以上ですので退室させていただきますよ。旦那様」
彼がわたしの腰を強く引いて逃すまいとするその態度に、セバスはあっさりとわたしを見捨てて執務室から出て行ってしまった。
せめて「仕事場だから程々に」という一言の一つでも欲しかった。
「リーファ、こっちを見ろ」
これまでにはなかった真剣なその声色に、自然と耳が熱くなる。
ゆっくりと避けていた彼の目を振り返れば、そこには黒い双眼がこちらを見つめていた。
「なっ、……なによ」
精一杯の強がりでそう一言言うと、彼はわたしの反応に満足したのか一度目を閉じ、クツリと嗤った。
……ほら、そういうところよ。
「いや、お前が分かってるんならいいんだ」
「……何が、」
「“リーファ”」
彼はわたしの耳元に声を寄せ、これまた熱いモノを乗せてわたしの脳に直接呼びかけてくる。
「お前は俺の女だ。お前が俺の全てを知らなくとも、俺はお前の全てを知っている。……そう、全てな」
「んっ……っぁ!」
こういう時の彼が、わたしは未だに慣れない。
この屋敷に連れ去られたあの日から、どれほどの時が経っただろう。
けれど、彼がこうも甘い声を耳元で囁くことなんて、つい最近までなかった。
「……リーファ、俺の名を呼べ」
そう、つい最近まではこんな距離感、なかったのだ。
「…………っ、れ、レオン、っん」
「そうだ。悪魔だなんて言われてるが、俺には名前がしっかりある。そうだな?」
コクリと必死に頷けば、彼は満足げにまた嗤った。
屋敷の、それも彼の執室で、更には彼の膝の上に横抱きにされ座ることなんて、当初はどう想像できただろう。
いや、想像どころか予想もしていなかった。
「ほら、もう一度。呼んでみろよリーファ」
これもきっと『悪魔』の囁き。
耳元でこうも甘い声を出す存在なんて、わたしは他に知らない。
彼は『悪魔』だ。
たとえ、その見た目が一人の人間であろうと。
今、楽しげに嗤うその姿は『悪魔』そのものだった。
「そういえば、最近秘書のイアさん見ないけれど何方にいらっしゃるの?」
ふと気になったことを口にして聞いてみれば、二人がけのソファの上で手元の書類を捲って眺めていた彼は、こちらに視線を移すことなく答えた。
先程の体勢からようやく解放されたわたしは、少し距離をおいた状態で彼と同じソファに座っていた。
「アイツは情報を集めんのが仕事だからな。ここに居るほうが珍しい」
以前会ったのは、元奴隷扱いされていた獣人の子達がこの屋敷に来た時だった。
あれから一切姿が見えないので、少し心配していた。
「……なんだ、アイツに何か用か?」
だからそう聞いてくる彼の質問には、特に答えられることはなかった。
「まぁ、いつかはもっとお喋りしたいとは思ってるわ」
しかし、折角の機会なので自分の気持ちを素直に伝えてみると、彼は少し意外そうな顔をした。
「……へぇ、何でだ?」
けど、流石にその質問に答えられるような立派な理由は持っていなかった。
どう答えようかと、わたしは言葉を選びながら彼に話しかける。
「えっと、…………実は、前住んでた屋敷でイアさんに似た人を見た気がす、」
するの、という言葉は最後まで紡げなかった。
彼がわたしの腰を勢いよく引き、その胸に引き寄せたから。
「ちょっと、」
「無駄話に飽きた」
ここでジッとしてろ、と彼はそう言って書類を眺め続ける。
わたしがこの屋敷に来る以前の話を口にしようとするといつもこうだ。
彼のこの行動が、誤魔化しなのか気遣いなのか。
残念ながら、わたしには分からなかった。
けれど、彼の安定した鼓動を聴いているうちに、わたしも段々と瞼が重くなるのを感じた。
わたしは少しだけ体勢を整え、落ち着く場所を探す。
居心地が良い姿勢に直り、また彼の胸元にそっと耳を近づける。
そういえば、こんなにゆったりとした時間久々かも。
そんな風に感じながら、わたしはゆっくりと促されるままに瞼を閉じるのだった。
心地良く響く彼の心臓の音。
部屋の中に木霊する時計の音。
春の木漏れ陽が、窓の外から穏やかに差してくる。
あぁ、まさか彼とこんなにも近い距離で、こうして過ごせる日が来るなんて思っても見なかった。
彼と初めて出会ったあの日。
まさかこんな生活が待っているなんて、欠片も思いはしなかった。
あんな必死な日々には、決して。
わたしは微睡みの中、そんなことをうつらうつらと感じていた。
彼がわたしの髪を優しく撫で上げたような錯覚を受けながら、わたしの思考は深く眠りについた。
「おい」
男が一言そう言うと、執務室の扉が静かに開き一人の女性が部屋の中に入ってきた。
「報告」
男が短く命じれば、女性は静かに報告を始めた。
「ここより四百キロ西、現場で見つかりました」
「今回はまた随分と遠いな」
「あちらも慎重な様子です」
男が机を叩けば、女性はどこからか出した書類を男の指し示した机の上に置いた。
「……また遠出か」
「奥方様がご心配ですか?」
ポツリとこぼした男の一言を漏らさず聞いた女性は、彼の横に寄りかかって寝ているリーファをチラリと盗み見て問う。
「お前も聞いてただろ。次この仕事が終わったら、一度ここで仕事してる姿でも見せてやれ」
そんな彼女の質問には答えず、男は命令した。
「承知しました」
彼女がそう答えると、男は「持ち場に戻れ」とだけ言って彼女をすぐに部屋から出した。
彼女が部屋を出る寸前「もっとしっかり落としてこい」とだけ告げて、彼はまた新しい書類に目を向けた。
部屋から出た彼専属の諜報型秘書は、自分の後髪に目をやる。
そこにはねっとりとした赤黒いものが付着していた。
それから回廊の向こう側から若い女性の話し声が聞こえたことから、彼女はすぐにその場を去ったのだった。
お付き合いくださりありがとうございます。
次回は「奥様の新生活」です。