(2)
今年初めての代表生徒会に出席するため歴史学教室へと向かいながら、シータは隣を歩くピュールから槍専攻の状況について聞いた。
「やっぱりあの連中、かなり問題があるのね」
「ああ。あの副代表をつぶせばたぶん収まると思うんだが。一回生はジェソ派とオヌス派で二分されている」
先日シータともめた槍専攻一回生副代表のオヌス・プルートーは、父親がこのあたりでは一番大きな槍鍛錬所の指導者で、取り巻きは全員弟子だという。
「代表になれなかったことで父親にだいぶ責められたみたいでな。やたら威張り散らして荒れてるのもそのせいだ。ジェソを蹴落とそうとしょっちゅう逆らっているから、授業中も騒いで、代表のジェソがよく叱られているらしい」
合同演習でオルニスとプレシオがたたきのめしても効果がなかったという。ピュールはその鍛錬所の出身でオヌスとは顔見知りのせいか、オヌスもピュールの言葉は一応おとなしく聞くようだが、オルニスたちの注意にはまったく耳を貸さず、むしろ反発しているというから、相当なものだ。
「あそこは毎年、自分のところから学年代表を出すことに執念を燃やしているんだ。これはという者を徹底的に鍛えて、それ以外の同期生たちはそいつに従うよう指導していく。俺もそうだったから、やり口はよく知っている」
ピュールがため息を吐き出すそばで、「シータさん、さよなら!」「シータさん、お先に失礼します!」と剣専攻一回生たちが声をかけてくる。すっかりなついた下級生たちに手を振るシータに、「剣専攻は平和そうだな」とピュールがこげ茶色の髪をかきむしった。
「剣専攻生はもともとまっすぐな人間が多いのよ」
ひねくれ者の槍専攻生と違ってね、と得意げに笑うシータに、ピュールが鼻を鳴らした。
「ただの単純馬鹿の集まりだろうが。いきなり一回生に膝蹴りを食らわせて治療室送りにした奴が、よく言うぜ」
「なんでピュールが知ってるのよ」
あせるシータに、見ていたからに決まってるだろうとピュールが嘲笑する。あの日は槍専攻の合同演習があったため、ピュールたちも移動していたのだ。
「何でもかんでも一発ぶちかまして解決しようとする癖は、そろそろやめたほうがいいぞ」
歴史学教室の扉を開きながら、ピュールが肩越しにからかう。
「それで仲良くなれれば別にいいでしょ」
ふくれっ面で、シータも後に続いて入室した。
教室では代表の人数分の席が、長方形を描く形で整えられていた。
特別決まりがあるわけではないが、武闘学科生と神法学科生、教養学科生はいつも自然と分かれて座っている。ピュールが空いていたアルスの隣席に腰を下ろしたので、シータはピュールとトルノスの間に座った。するとトルノスがぱっと笑顔を向けてきたので、つられて笑う。大きな犬のようだなと思いながらトルノスの横に視線を投げると、ジェソと目があった。ラムダから聞いているのだろう、疲労の濃い黄赤色の双眸に親しみの色を混ぜながら、ジェソはぺこりとシータに頭を下げた。
シータは反対側に並ぶ神法学科生たちをざっと見た。ファイは議長であるローに近い位置にいる。ローとしゃべっているファイをぼんやり眺めていると、ファイの隣にいた炎の法専攻生が不意にシータをかえりみた。
交流戦後の舞踏会や降臨祭の前、ファイに最後までしがみついていた女生徒だ。腰まで届く長い赤朽ち葉色の髪に茶色い瞳の彼女は、アヴェルラ・シェルフ。去年の黄玉の投票でも三位に入った美人だ。
ローの話では、今も変わらずファイを追いかけているらしい。ファイが以前ほど冷たい対応をしないので、あきらめていないようだと。
アヴェルラはシータを凝視した後、明らかに見下した笑みを口の端に浮かべた。何を基準にしたのか知らないが、自分のほうが上だと判断したのだろう。そしてアヴェルラはファイの腕にそっと触れ、気を引いた。
ファイと言葉を交わしながらちらちら視線を投げてくるアヴェルラに、シータは唇をかんだ。見せつけられても、ここからではどうにもできないのでもやもやが募る。
「鬱陶しい」
ピュールの舌打ちに、シータはびくりと肩をはね上げた。
「お前のことじゃねえよ」
縮こまるシータを横目に一瞥してから、ピュールは今日の議題が書かれた紙に視線を落とした。
翌朝、登校したシータは正門を過ぎたところで、先を歩くファイを見つけた。登校中に会うのは何日ぶりだろう。
「ファイ、おはよう!」
うきうきした足取りで声をかけたシータをふり返ったファイは、目をみはった。
「……なんでそんなに葉っぱがついてるの?」
しかも顔中が傷だらけになっていることに、ファイが眉をひそめる。
「あー、これ? 木から降りられなくなって鳴いてる子猫がいたの。よじ登れそうな木だったから助けに行ったんだけど、そのときにすごい引っかかれちゃって」
後で治療室に行くから大丈夫だよ、とシータが答えたとき、近くでくすくす笑いがした。
「嫌だ、あんな格好で恥ずかしい。女の子とは思えないわ」
シータのほうを見ながら話しているのは、アヴェルラとその友達だった。
「武闘学科生だから、自分の性別を忘れてるのよ」
「がさつよね」
アヴェルラたち以外にも、シータの状態を見てひそひそ話している生徒がいる。道の真ん中だからよけいに目立つのだ。
女らしくないと言われても今さらなので自分はそれほど気にしないが、一緒にいるファイは嫌かもしれない。シータがそろりと離れようとしたとき、ファイに腕をつかまれた。
「シータ、こっち」
ファイに連れられ、シータは端のほうへ移動した。そこでファイが『治癒の法』をかける。無数のみみず腫れが散っていた顔から瞬く間に傷が消え、同時に痛みもひいていった。
青い法衣を着ているファイが水の法を使ったことに、周囲の一回生らしき生徒たちがぎょっとしたさまで注目してくる中、ファイはシータの頭についている葉を一つ一つ取り始めた。
「別に、わざわざ治療室に行かなくても」
僕に頼めばいいのに、と少し不機嫌そうに言うファイに、シータは笑った。
「去年、私が大きなたんこぶを作ったときは、ミューに頼めって言ったのに?」
当時のことを思い出したのか、ファイが決まりそうに視線を泳がせる。その様子がおかしくて吹き出したシータは、ふと違和感を覚えた。
「……ファイ、背がのびた?」
これまでずっと目の高さにあったのは鎖骨あたりだったのに、今見えるのは胸の辺だ。
「ああ、うん。最近少しのびたかな」
髪にふれるファイの指先の動きが気持ちいい。しつこくからまっている小さなものは、できるだけ髪型を崩さないよう慎重に取ってくれているようだ。
「あまり高くなると困るなー」
身長差がありすぎると、見上げるだけで首が痛くなってしまう。
「僕はもうちょっと欲しいけどね」
三回生の中では小柄なほうだからか、ファイがぼやく。ローがこのところ急に背が高くなったので、気になるのかもしれない。
「全部取れたかな……ところでシータ、さっきから君の後ろに張り付いてる人がいるんだけど」
「えっ!?」
驚いてふり返ったシータは、この世の終わりと言わんばかりに暗くよどんだ目で自分たちを見つめるトルノスに、「ひゃっ」と悲鳴をあげた。
「な、なんだ、トルノスかあ。びっくりさせないでよ」
「……シータさん、そいつ誰ですか?」
トルノスがじとっとファイをにらむ。
「ファイ? ファイは私の、こ……」
恋人、という呼び方はいまだに恥ずかしくて慣れない。そもそも恋人らしいことなんて、片手で十分足りるくらいしかしていない。でも友達よりはずっと特別な存在だ。
「だから、その……こ……こ……」
口にしようとすればするほど意識してしまって言葉にならない。ファイも黙ってシータを見ている。
「こ……交際相手です!」
意味は同じだが少しだけ色気の欠けた表現で叫ぶ。それでも顔がほてってしまったシータに、トルノスはかたまった。
「交際……相手……」
がっくりと膝を折るトルノスを横目に、「行くよ」とファイがシータの背中を押す。珍しくやや強引な促しにとまどいながら、シータはファイと一緒に中央棟へ向かった。
「おーい、生きてるか、トルノス?」
一限目の授業が終わってもずっと机にうつぶせて落ち込んでいたトルノスを、副代表のマルクがのぞき込む。
「告白する前にわかってよかったじゃないか」
「っていうか、けっこう有名なのに、知らなかったほうがびっくりだけど」
他の剣専攻一回生たちも寄ってくる。
「何だよ、知ってたなら先に言えよっ」
かみつくトルノスに、「いや、お前のことだから、知ってて突撃するのかと思った」と同期生が苦笑う。
「だってさ、あんな恥ずかしそうな顔で『交際相手です!』って……ひどくねえ? 剣を振るときはめちゃくちゃ強いのに、何なんだよ、あのかわいい反応は……ああくそ、思い出したらよけいむかついてきた」
「頑張れ……って言いたいところだけど、相手が悪いな」
マルクが肩をすくめる。
「『神々の寵児』なんだろ? どんな感じか想像がつかなかったけど、風の法衣を着ているのに水の法を使ってて、正直ぞっとしたな」
「同じ冒険集団に所属しているみたいだし、さすがに勝ち目がなさそうだよな」
「でも珍しいよな。あの二人、学院内ではあまりべたべたしないって聞いてたのに」
尊敬する二回生代表とその交際相手について、同期生たちの話はつきない。歯ぎしりしていたトルノスは、がばっと顔を起こした。
「俺はあきらめないぞ。あんな、筋肉なんかこれっぽっちもなさそうな奴には負けないっ」
こぶしを振り上げて吠えるトルノスに、剣専攻一回生たちはパチパチと控えめに応援の拍手を送った。
「なんか最近、みんな変じゃない?」
数日後の昼休み、生徒会室の掲示板に『冒険者の集い』と『ゲミノールムの黄玉』の告知を貼っていたローを見つけて手伝っていたシータは、通り過ぎる女生徒たちに首をかしげた。
やたらと頭に葉っぱをつけて歩いている。しかも圧倒的に女生徒が多い。
「ああ、あれ。君たちのまねをしてるんだよ」とローは笑った。
「ファイがシータの髪についた葉っぱを取っていたのが、女の子たちの心を鷲づかみにしたみたいでさ。頭に葉っぱをつけて好きな人に取ってもらうっていうのが流行ってるんだ」
それで実際に付き合いだした人もいるんだって、と言うローに、シータは困惑した。まさかそんなことになっていたとは。
「君たちは、もうちょっと人前で恋人らしくしたほうがいいと思うよ。どうも君たちの周りには、あきらめの悪い人間が多いみたいだから」
ローが忠告しているのは、アヴェルラのことだろう。眉間にしわを寄せるシータをローは横目に見ながら、『ゲミノールムの黄玉』の投票についての紙を貼り終えた。
「気をもんでいるのは君だけじゃないよ。ファイも同じだってこと」
「それ、どういう……」
「おーい、ロー! シータ!」
そのとき、聞き覚えのある声に名を呼ばれた。ふり向いたシータは目を見開いた。
「タウ! ラムダ!」
私服姿の二人が並んで歩いてくる。後ろにはイオタとミューもいた。
「四人とも、どうしたの?」
「今日は武闘館と神法学院は創立記念日で休みだから、みんなでゲミノールムに顔を出そうってことになったんだ。目当ては槍専攻の合同演習だったんだが、さっき聞いたら剣専攻もあるそうだな」
バトスももうじき着くだろう、とタウが言う。
「それって、もしかして槍専攻一回生の噂が武闘館にも届いてるってこと?」
心配して様子を見に来たのだろうか。尋ねるシータにラムダがうなずいた。
「ジェソは家では何も言わないんだが、オルニスたちの愚痴をバトス経由で聞いてな。後でアレクトールも来るそうだ」
周囲がざわついている。タウたちの顔を知っている人も知らない人も遠巻きに注目し、こちらを指さしてしゃべっていた。中には他の生徒を呼びに走る者もいる。その様子を流し見たイオタが眉をひそめた。
「……ねえ、ゲミノールムって今、ずいぶんおかしなものが流行ってるのね」
イオタが気にしているのは、頭に葉っぱをつけて歩いている女生徒のことらしい。まじないか何かかと聞くイオタに、ローが笑ってシータとファイのやりとりを報告した。
「なあに? あんたたち、ついに学院内でも堂々といちゃいちゃするようになったの?」
「だからしてないって」
シータが熱くなった頬を両手ではさみながら否定する。ふふっと笑ったミューが、貼られている紙に目をとめた。
「なつかしいわ。もうそんな時期なのね」
「『冒険者の集い』の開催時期が遅くなったな」
タウの指摘に、ローが「そうなんだよ」と答えた。
「虹の捜索隊が廃止されて、特待生試験に関係がなくなったから、一回生も参加しやすいようにって、今年から『炎の神が奮い立つ月』に行われることになったんだ。案内だけは今までどおりこの時期にするけど」
「あら、『ゲミノールムの黄玉』、今年はシータも有力候補じゃない」
「え? 嘘!?」
イオタの言葉に驚いて『ゲミノールムの黄玉』の告知をふり返ったシータは、女生徒の欄に自分の紹介があるのを見てのけぞった。
「ちょっと、ロー、なんで私まで載ってるの!?」
ローの襟をつかんでゆさぶるシータに、ローが「苦しいよ」とうめく。
「僕の事前調査によれば、今年は混戦になりそうなんだよ。三回生はおもにアヴェルラとプラムで票が割れてるんだけど、二回生はシータの知名度が高すぎてほぼ敵なしの状態で、一回生はアレーナとミュイアでこれまた二分してる。ただ一回生の場合、女の子と剣専攻生の間でシータが人気だから、総合的に見たらシータがいくんじゃないかと思ってるよ。ちなみに男子はファイが少しだけ優勢だけど、プレシオとオルニスとアルスも固定の支持層がいるから接戦だね。二回生はピュールとパンテールとニトルが票を取り合ってるし、一回生の票がどこに入るかで変わりそうだよ」
「このヘイズルの紹介は何なの?」
後から別の紙で付け足されているものを、イオタが指さす。
「それは僕が書いたんじゃないよ。ヘイズルが勝手に作って強引にくっつけただけ」
「だからヘイズルの紹介だけ装飾までされて派手なのか」
自己推薦とはたくましいなとラムダが苦笑する。おそらくプラムと一緒に黄玉になろうという魂胆なのだろう。
それにしても、とあらためて自分の紹介を読み、シータは頭をかかえた。アヴェルラにプラム、アレーナ、ミュイアと美人ぞろいの中で、やはり自分だけ浮いているとしか思えない。
「私はあんたが黄玉になるの、いいと思うわよ」
シータの落ち込みと動揺を見てとったかのように、イオタが言った。
「絶対に無理だよ。イオタやタウみたいに華があるわけじゃないし……だいいち、イオタの後の姫なんて、荷が重すぎるよ」
「だからいいんじゃない。アヴェルラやプラムも悪くはないけど、普通すぎて面白味がないのよね。その点、話題性ではあんたとファイのほうが、私たちよりよっぽどすごいと思うけど」
「『神々の寵児』と、初の女性剣専攻代表だからな」
タウも同意する。そこへファイがやって来た。みんなが集まっているのが見えたのか、タウたちが来ているという噂が耳に入ったのだろう。シータの隣に並んで掲示板を見たファイは渋面した。
「ロー、僕の紹介は載せないでくれって頼んだよね?」
「そうなんだけどさ。シータを載せるならやっぱりファイも載せないとって、生徒会のみんなが聞かなくて。でも、君もシータと一緒に黄玉になるなら、そんなに嫌じゃないでしょ」
ローがにんまり笑う。
「まあ、あくまでも予想だから。投票が終わってみないとわからないよ」
シータだってかわいいんだから、もっと自信を持ちなよとローに励まされたが、シータはため息をつかずにはいられなかった。
そのときふと、シータは少し離れたところに立つ剣専攻一回生の集団に気づいた。手招きすると彼らは顔を見合わせ、代表でトルノスが近づいてきた。
「タウ、今年の剣専攻一回生代表のトルノスだよ」
トルノスの背中をぽんとたたいてタウに紹介する。私服でもタウは腰に長剣をはいているので、卒業生とわかったのだろう。トルノスは緊張したさまで名乗りながら、タウに頭を下げた。
「それから、こっちはジェソのお兄さんのラムダ」
シータの言葉に、トルノスの顔つきが少し険しく引き締まる。
「ジェソには負けちゃったけど、いい動きをするから、これから強くなると思う」
「シータさんには、最初の合同演習でばっさりやられました。あんなに強いとは知らなくて」
頭をかくトルノスに、ラムダがあごをさわりながら口の端を上げた。
「あー、それは気にしなくていいぞ。シータの強さは三回生にも劣らないはずだ」
「当たり前だ。去年、俺がだいぶ鍛えたからな」
赤い瞳を細めて笑うタウの少し得意げな口調に、シータも嬉しくなった。
「タウたちも今日の合同演習に顔を出すそうだから、後で打ち合ってみるといいよ」
シータの提案にトルノスがうなずいたとき、バトスが声をかけてきた。
「なんだ、こんなところで立ち話をしてるのか。おー、シータ、久しぶりだな。元気にしてたか?」
「わっ、ちょっとバトス、やめてよ」
いきなり髪をぐしゃぐしゃにされ、シータは「もうっ」と怒った。触ってみるとあまりにひどく乱されているのがわかり、むくれながら髪をほどく。
「……シータさん、髪をおろすと女っぽくなりますね」
そばにいたトルノスが目をみはる。
「はいはい。どうせトルノスもエイドスたちと一緒で、普段私のことを男か何かだと思ってるんでしょ」
イオタが櫛を貸してくれたので、それで髪をすいてまたくくり直しながら、シータは言い返した。
「いや、俺は――」
トルノスが口ごもる。イオタたちの視線がトルノスにそそがれる中、バトスがにやりとして、シータの右肩に腕を乗せ体重をかけた。
「俺はいつものしっぽ頭もかわいいと思うぞ」
「バトス、重いよ」
「というかお前、本当にきれいになったよな。やっぱり恋……おっと」
くるっと向きを変えたシータがこぶしを飛ばす。それをかわしながらバトスは笑った。鳩羽色の双眸でファイとトルノスをとらえる。
「バトス、あんた……後で切り刻まれても知らないわよ」
イオタが大きく息をつく。そこへ予鈴が鳴った。イオタとミューは図書館で時間をつぶし、タウたちは教官にあいさつをしてから闘技場に向かうという。解散しかけたところで、シータはファイに呼びとめられた。ファイがシータの右肩をぱっと払うのを見て、皆が目を丸くする。きょとんとしたシータは、「あっ」と短く叫んでバトスをにらみつけた。
「バトス、お昼を食べた後、手を拭かなかったの?」
汚れていたのだと思って抗議したシータに、バトスがぶはっと吹き出した。
「仕掛けた俺が言うのもなんだが、これはかなり手ごわいな、ファイ」
何のことかとシータが問う前に、バトスはタウやラムダと一緒に去っていく。ファイも小さく嘆息するときびすを返した。トルノスのことは一瞥すらせずに歩いていく。
「トルノス? どうかしたの?」
いぶかるシータに、じっとファイを見送っていたトルノスは、「何でもありません」とかすかに笑った。
五限目、鎧を着用して闘技場内で整列していた剣専攻生の前に、ウォルナット教官がタウとバトスを連れて現れた。とたん、二、三回生から拍手と歓声があがる。
「一回生は初めてだな。去年の三回生代表のタウと、二番手のバトスだ。今日は武闘館が創立記念日で休みだから顔を出してくれたんだが、いい機会だから手合わせしてもらうといい」
「二番手って、本当かよ……」
ウォルナット教官の紹介に、トルノスがつぶやく。シータは苦笑した。
「バトスは見た目は軽いけど、強いわよ」
「見た目だけじゃなくて、中身も軽そうですが」
「確かに」と、二、三回生が賛同する。
「お前ら、覚えとけよ」
バトスが大げさなほど顔をしかめてにらみを飛ばしたので、どっと笑いが広がった。それから練習相手を探す時間になると、タウとバトスに二、三回生が群がった。シータは後でゆっくりタウたちに相手をしてもらうつもりだったので傍観していたが、バトスがみんなをかき分けてシータのほうへ近寄ってきた。
「タウは先にアルスとやるそうだから、お前は俺に付き合え」
「いいよ」と承知しかけたシータとバトスの間に、トルノスが割って入った。
「俺とお願いします」
まるでシータをかばうように立ってバトスを見据えるトルノスに、バトスが瞳をすがめた。
「そうくると思った。期待を裏切らない奴は好きだぜ」
「あんたに好かれても嬉しくありません」
「違いない」
言い返すトルノスにくくっと笑って、バトスが身をひるがえす。空いている場所で向き合った二人は同時に剣を抜いた。呼吸を置くことなくいきなり切り合いだした二人に、シータだけでなく他の生徒たちも目をみはる。
「一応言っておくが、俺は恋敵じゃないからな」
ガンッと剣と剣をぶつけながら、バトスが弁解らしくない口調で告げる。
「ちょっかいのかけ方が気に入らないんですっ」
「それはよく言われるな」
トルノスのないだ剣を受け流しながら、バトスは口角を上げた。
「つい構いたくなるんだよ。お前はどこが好きなんだ?」
バトスの鋭い突きをギリギリ防いだものの、トルノスは顔をゆがませた。
「あんたに話したくありません」
「指をくわえて見ているだけかよ」
バトスの挑発に、トルノスの目に剣呑な光が走った。
「そんなわけないだろうっ」
もはや敬語も忘れてトルノスが切り込む。予想より重い攻撃だったのか、はじき返したバトスが舌で唇をなめた。
「なるほど、悪くない」
次の瞬間、バトスの攻撃が一段階速さを増した。
防戦しかできなくなったトルノスが、それでも必死についていく。そばで見ていた一回生たちがかたずをのんで見守る中、ついにトルノスはバトスの剣の前に膝を屈した。
息切れしながらバトスをにらみあげるトルノスに、剣をさやに戻したバトスがにやりとする。
「あと一年早く生まれてくればよかったな。そうすれば、うまい口説き方を伝授してやれたのに」
トルノスの頬がますます朱を帯びる。歯ぎしりするトルノスからそらした目を、バトスはシータへと向けた。
「こいつ、いい動きをするな。このまま鍛えれば、かなり使える奴になるぞ」
「そうでしょ」とシータが笑う。
今年の一回生も面白いなと、バトスが機嫌よさそうに歩いていく。その場に両手足を投げ出して転がったトルノスは、荒い呼吸がおさまらないまま、「くそっ」といらだちを吐き出した。
その後、シータはタウとバトスに相手をしてもらい、充足感にほくほくしながら休憩に入った。
「今年の剣専攻一回生は、素直な人間が多そうだな」
二、三回生と打ち合う一回生を眺めながら、タウが言う。バトスもうなずいた。
「アルスは貫禄がたりないからちょっと心配してたんだが、この様子なら大丈夫だろう」
「一回生はトルノスがまとめてくれているからね」
「ああ、あいつか」と、タウがエイドスの指導を受けているトルノスに視線を投げた。
「シータが一回生を膝蹴りで気絶させたと聞いたときは、正直かなり不安を感じたんだが、ずいぶん慕われているな」
「お前、治療室送りにした人間に好かれる特殊能力でもあるのかよ? おかしすぎるだろ」
「……武闘館にまで情報がいってるの?」
いったいどこからどう流れているのか、とうなだれるシータに、タウとバトスとアルスが発笑した。
「こっちはまあ安心として、問題は槍専攻だな。オルニスとプレシオがあんなに愚痴を言うって、珍しいぞ」
一度水筒に口をつけてから、バトスが腕を組む。
「この前、代表生徒会のときにジェソに会ったんだけど、ずいぶん疲れた顔をしてたの。一人で抱えなきゃいいけど」
「ラムダも気にしてたな。ジェソは我慢強いぶん、あまり弱音を吐かないそうだ」
ジェソも孤立しているわけではなく、人数的にはむしろジェソに従う者のほうがやや多いのだが、オヌスたちに逆らいいさめるほど度胸のある生徒もいないため、解決にいたっていないらしいと、タウも表情をけわしくした。
シータがピュールから聞いた話をみんなに伝えると、バトスがこぶしをあごに添えてうなった。
「プレシオとオルニスは別の鍛錬所の出身だからな。ピュールがその副代表と同じ鍛錬所なら、アレクトールもたぶんそうだろう。今日あいつが行って、少しおさまるといいが」
しかし、事態は変わらなかった。それどころか、新たな事件が起きたのだ。
ジェソが、盗みを働いたと――。