Chapter06-2 モルドレッドの戦い(後編)
一見、さっきと変わらぬ暗闇が広がっている。しかし、明らかに異なる場所……腐臭と言おうか、気分が悪くなるほどに濃いすえた臭いが充満しているのだ。加えて、ざわざわと蠢く夥しい気配、声……。
(なんだ? これは?)
モルドレッドの知る戦場よりひどい悪臭。血の臭いも混じっているが、そんなものはほんのわずか。生臭い息、寝くたれた汗、排泄物、それから、
(ああ……これは死臭か)
生者と死者をごちゃ混ぜにした異様で濃厚な熱量。モルドレッドのいるこの空間は、つまりそういうことになっているのだ。
(ッ)
吐き気を催す臭気だ。加えて狂おしいほどに空腹だ。命の危機を感じるほどに。
――と。
不意に、暗闇に眩いほどの光が差した。突然間近に気配を感じて、モルドレッドは鎖鞭を振ろうと
「ぐはっ」
一瞬のうちに、硬い木の床に顔を叩きつけられた。痛みと痺れが走る。
(な?!)
何も持っていない黒い手が宙を掻く。ガリガリに痩せてか細い、真っ黒な手。自分のものとは思えないソレに愕然として。直後に腹に強い衝撃を受けて、意識は暗転した。
…………場面が切り替わる。
ガタガタと振動がうるさい。身体は縛られたかのように動かない。うだるような熱とさっきの暗闇よりは幾分薄まった悪臭が漂う、狭い部屋らしき場所に寝かされているようだ。
また、光が差す……。
荒い足音が近づいてきて、髪を掴んで顔を上向けられ、また打ち捨てるように転がされる。それからしばし……。
突然、部屋が大きく揺れて振動が止んだ。馬の嘶きが聞こえる。剣戟の音も。そこでようやく狭い部屋が馬車の中だと思い至った、直後。
バキリ、と馬車の壁を突き破り、鈍色の刃が突き出した。自分の正面に座らされていた同類が、ハクハクと口を動かしている。その胸部から、とめどなく血を流して。
剣戟の音は続いている。
誰かが頭を乱暴に掴んで、身体を床に倒された。伏せろと喚く声が聞こえる。また、破壊音。喚く声は醜い断末魔になり、倒された身体の上にずしりと生温かい重みが無遠慮に落ちてきた。
一人、また一人……。
剣戟の音が近くなる。
…………。
…………。
いつの間にか、またゴトゴトと車輪の音がする。薄暗い視界の中で、数人の男が室内を改めている。目の前で太い腕が『商品』を選別し、ダメになってしまったモノはぞんざいに掴んで馬車の外に放り捨てた。
(売レナイゴミハ、捨テラレル)
生きていても。傷が付いていたり、汚れていたらもうそれは『不良品』だから。
ゴトゴトと車輪の音が遠ざかる。
また、暗転――。
目を開けると、また暗闇だった。けれど、あのひどい悪臭はない。
「……大丈夫。もう、大丈夫」
よく知った言語を柔らかな声に乗せて誰かが頬に触れた。とても温かな手だ。
「もう誰もあなたを傷つけないわ。私が守る。心配しないで」
たおやかな声は、それでも強い意志を宿していた。
「私はカーミラ」
プラチナブロンドの髪の間から、蒼白な肌がのぞく。エルフのように現実離れした美貌の女が優しげな笑みを浮かべた。
(女神様……ミタイ……)
森の中に孤立する館は安全だった。狂おしいほどの空腹も感じないし、悪夢のような船倉に押し込められることもない。護衛もロクにつかない馬車で危険な旅路をゆくこともない。清潔な服を着て、カーミラ様と教典を学び……
そう。いずれ『カーミラ様』を継ぐために。
(嗚呼……カーミラ様ハ私ヲ見捨テナカッタ!)
あふれる歓喜、信望、多幸感……
「…………とんだご都合主義だな」
バキリ、と掴んだモノを割砕いて、モルドレッドは薄目を開けた。
「ギィ……ィィ……」
本体である指輪を破壊された影が苦しげな声をあげる。
なかなか愉快な悪夢だった。
船倉に詰め込まれ、縛られて馬車で運ばれ、傷つけば息があろうとも捨てられる――奴隷の悪夢。そこに現れるカーミラによく似た女。与えられた不自由のない生活。虐げられない幸せ……。
実にバカバカしい。勘違いも甚だしい。
「勘違いするな。ソレはおまえら偽物がでっちあげた、おまえらに都合のいい偽神だ。断じて本物のカーミラではない」
信仰の対象である『カーミラ』を愚弄されたコイツ等は、モルドレッドに幻を見せてまで『カーミラ様』の素晴らしさを伝えようとしたようだが。
(あいにく、俺は知っていたからな)
ここへたどり着く前に、モルドレッドは過去の覚え書きを頼りに例の日記――地下で遺体が抱いていたそれを読み解いていた。
それによると。
本物の――コイツ等が成り代わる前のカーミラは、魔力以外はごく普通の貴族の女児だった。年端もいかない彼女が、外国から来た奴隷に特別優しかったわけではないのだ。
「皮肉だな」
懐に抱えたボロボロの本――地下の遺体が抱えていた日記帳に書かれていた。偽物ども――代々の偽カーミラたちがひた隠しにしてきた日記の一部、その写し。破り捨てても良かったろうに、彼らのいう『信仰心』からそれはできなかったと日記帳には書かれていた。
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私の館には召使いがたくさんいるの。
私が寂しくないようにって、お兄様が集めてくれたの。
でも、召使いはみんな外国人で、特に肌が真っ黒い召使いは大きくて顔も怖い。
彼らには近づきたくないの。
話し相手はちゃんとオクトヴィアの子で本当によかった。
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外国人は身体が大きく、顔つきも異なる。ゆえに威圧感があって苦手だった……そういうことだろう。
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でも、テディーに会いに行くときには、大の苦手でも怖い召使いも連れていかないといけない。私はいつも、お願いする役目を話し相手のマーシャに頼んでいて、マーシャは快く応じてくれる。マーシャはあの真っ黒い召使いが怖くないんですって。
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本物のカーミラの日記には、少なからず大きな黒い召使いから逃げ回ったエピソードが登場する。ただ、それだけだ。怖かったからといって、真っ黒の召使いをカーミラが虐げたわけでもない。その逆もない。
ありもしない繋がりの捏造元は、マーシャという話し相手だろう。恐らく、マーシャこそが偽物どもの真の――
「ギ……ギィ、ィィ……」
もはや姿を保っていることさえできず、溶け縮んでいく影は、まるで「それ以上は言ってくれるな」とでも言いたげに、弱々しい呻き声をあげ、やがて完全に溶けて形をなくした。あとに残ったのは、壊れて原形もわからぬほどに朽ちた指輪。おそらく、偽物どもの遺品――カーミラの装飾品の一部だろう。
「まあ、血も涙もない鬼ではないからな」
例え作り物の、偽物のエピソードでも。彼らが『カーミラ』に感じた恩は真実。与えられた優しさもまた、真実だから。
言い訳するでもなく拾い上げた遺品を、ハンカチに包んだタイミングで。
「ウィル! 無事か!」
コウモリの翼を生やしたジーンが目の前に滑り込んできた。




