Interlude 母と子
レグルス&アグラヴェイン妃、久々の登場です。
「お加減はいかがですか」
忙しい政務の合間、レグルスは離宮で療養中の母を訪れていた。
「おお、よくいらしたの。王太子殿下」
寝台から身を起こした母――アグラヴェイン妃は相変わらず病みやつれはしているものの、冷静に言葉を紡ぐ。顔色も少し良いようだった。
消えた〈聖女〉を王国も教会も血眼になって探している。特に教会は必死で。
あの夜会の後、レグルスたちは〈聖女〉失踪を教会の企みと糾弾した。化け猫はあくまでも、〈聖女〉を連れ去った者を捕まえようとしただけ。嘘ではない。アレが暴れたのは王宮。教会ではない。
〈聖女〉を逃がしてしまったのは、嘘偽りなく教会なのだ。
窮地に陥った教会は――責任のなすりつけあいと、今なおアクベンス神国を包囲している王国側の機嫌伺いに忙しい。教会は〈聖女〉との面会と引きかえに、莫大な額の寄付金を得ていた。が、〈聖女〉を失った今、彼らが頼れるのはアクベンス神国の高品質な薬だけ。
包囲軍の主であるアグラヴェイン妃に、手のひらを返したように、ハイポーションとキラービーの蜂蜜を使った霊薬を寄越してきたのだ。まるで「なんとかしてくれ」と言わんばかりに。
ただ、そのおかげでここ数日の母の容態はいい。
病が完治したわけではない。延命――この状態は薬が効いている間だけ。いつも伏せっていた母が、半身を起こして会話ができるまでに快復して、レグルスはホッと胸をなでおろした。
(まだだ。まだ、死ぬには早すぎる)
薬さえ――ちゃんと対処さえすれば、ここまで快復するのだ。なのに、教会もアクベンスの医師も匙を投げて、薬すら寄越さない。
(目障りなのだろうな。権力者だから)
アクベンスの医師は、言うに事欠いて母を僻地に療養に行かせろと言った。
(馬鹿な!)
それは「死ね」も同義ではないか。母は父とは違う。レグルスにとって、子供を道具としてしか見ていない父王より、立場上常ではなくとも親として接してくれる母は唯一の家族。
(喪われていい人ではない……!)
たとえ、〈レクイエム〉が近いのだとしても。
この世に〈厄災〉をもたらした〈魔女〉は〈勇者〉を堕落させ、世界の終焉を予言した。
〈厄災〉は早いうちに討伐しなければ、大地の恵みを食い荒らし、甚大な被害をもたらす。だが、〈厄災〉の存在を感知し、討伐隊を組み、現場に向かうにはどうしても時間がかかる。到着した頃には〈厄災〉がすでに数を増やしており、討伐に何年もかかったこともある。創世神話の〈勇者〉とやらは、〈聖剣〉を使いあっという間に〈厄災〉を消し去ったらしいが……。
(所詮はおとぎ話。そんな都合のいいことなどあるはずがない)
それに――。
人間は強欲だ。〈厄災〉に少しでも価値を見出すと、途端に討伐に異を唱える。〈厄災〉から得られる魅力ある新素材、食材、家畜……確かにいくらかは利もあるだろう。だが、長い目で見れば、利便のために、金貨のために大地の恵みを無駄食いさせているのだ。
今や愛玩動物になったミークがよい例だ。
(なぜあんなモノが必要だ? 身のまわりの世話なら人間の召使いの方がよほど能力が高いだろうに)
可愛い? それが何の役に立つ?
為政者になって知ったことだ。この大陸だけでも生き長らえた〈厄災〉の種類は両の手足の指を合わせた数よりはるかに多いと。
(……愚かだな)
あれもこれもと欲張った結果、人間は〈淘汰〉せねばならなくなったのだ。他ならぬ、強欲な自分たちを。〈レクイエム〉という形で――。
「殿下、〈聖女〉のことですが」
ふと気づくと、母が穏やかな表情でレグルスを見つめていた。病床にいるため、化粧をしていない顔は、老いやつれて儚く。髪油をつけない黒髪は、艶を失い枯れていくかのよう。まだ、老婆という歳には早すぎるのに。
「焦りなさるな。すでに国境は塞ぎ、バルテルミ殿も自ら赴いたと聞きます」
落ち着いた物言いに目を見開く。だが、直後に悟った。
(嗚呼。母上はやはり母上なのだな)
己の死に関わることでも臆することなく情報を集め、策を練る――美しいだけではない、聡明で強かな王妃は健在なのだと。
そのことに、知らず深く安堵した。
「私の生家から隣国を含めコンコーネの各支店への監視と、王妃の名で使いを送りました」
「拐かされた」コンコーネ男爵令嬢の家は国内外に数多くの支店を持つ大商家で、魔女派の重鎮。心から信頼を置けない相手だ。特に〈聖女〉絡みでは。
彼らを監視するには、国から振られた予算だけではとうてい足りない。母は生家であるアグラヴェイン侯爵家の力でそこを補ったのだ。莫大な財貨が消えるのも厭わず。
「娘を殿下の妃に迎える、と勅令を早馬で。もちろん、隣国に逃げているコンコーネの商会頭に」
淡く笑んで、母は霊薬――万病に効果があるというキラービーの蜂蜜を匙で掬った。
「……妃、でございますか?」
対するレグルスは軽く瞠目した。レグルスに婚約者はいないし、作るつもりもない。〈レクイエム〉――盤面をひっくり返す戦火が近い今、誰を選んでも意味がないからだ。
(万が一隣国に逃げられた場合、犯罪者より婚約者候補の方が追いやすいかもしれないが……)
愛、慕情――理由をつけがたい感情による追跡なら、隣国にも勘ぐらせずに協力を仰げるかもしれない、けれども。
(仮にも王太子妃の位を……そこまでする必要が?)
逃亡中の令嬢は病弱で〈黒魔法使い〉だという。身分も男爵令嬢と低い。それを王太子妃とは、なんとも薄ら寒い。
戸惑いを見せる息子に病床の母は微笑んだ。
「レグルス。そなたは少し遊んでもよいと、母は思うの」
難しい立場とはいえ、いい年をした息子が女にまったく興味なしとなれば、母としては少々心配だ、と。
柔らかな笑みで言われ、レグルスは出かけた台詞を飲み込んだ。苛烈な印象の強い母だが、時折こうして、王太子ではなくただの息子としてレグルスを想う言葉をくれる。
「妃にせよ、と言っているわけではないのだ。試して気に入らねば、婚約などいくらでも破棄できる」
息子の戸惑いを見て取ったのか、宥めるように母は言った。
「ものは試しと言うではないか。母はきっかけを作ったに過ぎぬ。あとはおまえの思うとおりに運んでよい」
姿絵の容姿は悪くない。大人しく、従順。妃の器ではないと思うなら、愛妾にしてみるのもよい。力のない小娘の扱いなどどうとでも変えられる。
「王太子妃」という餌に、コンコーネがかかりさえすればよいのだから。
「……かしこまりました」
愛も恋も、自分とは関わりのないものと思っていた。やれと言われたからといって、やる気にもならないが。政略に潜む母の優しさを無碍にもできない。
(便利な口実ではある、か)
罰をちらつかせるより、逃げる令嬢の心を揺さぶるには良い手なのかもしれない。
レグルスが思うに……令嬢は「拐かされた」のではない。自らの意思で逃げている。
いくら『怪物王子』に脅されたからといって、人間一人が夜も昼も休みなく令嬢を監視できるわけがない。逃亡を強制し続けるのは不可能なのだから。
(ああ。恋だの愛だのといえば)
慌ただしくカストラムへ旅立った側近候補の青年を思う。
マクシミリアンは「リディアは助けを待っているんです」とレグルスに話した。その声に狂おしい熱をこめて。
彼は令嬢が自身を待っていると信じて疑わない。令嬢にはっきり「マクシミリアンとは結婚しない」と言われたのに。
(令嬢が本当に「待っている」としたら……いささか気持ち悪くないだろうか?)
嫌いな人間を嬉々として待つ、あまつさえ追ってきてほしい、とは――そんな自虐的かつ変態的な令嬢。
(…………理解に苦しむ)
が、母の優しさを無碍にするわけにはいかない。少なくとも、かの令嬢を知る労力はかけるべきだろう。
(姉がリディアで〈黒魔法使い〉……〈生き物を隠す魔法〉を使う。妹がメリル、〈黒魔法使い〉で〈姉と視界を分かち合う魔法〉だったか……)
妹の方は妾の子で、その美しさから『夜会の妖精』と呼ばれている。マクシミリアンが侍っていたせいで、彼女たちのことは何気によく知っている。
(妹の方は性格に難があるとか……。姉の方が御しやすいか)
それにしても、妹の〈黒魔法〉は「姉と」視界を分かち合う魔法とは。なんとも限定的で使い勝手の悪い魔法だ。
(いや……?)
妙に引っかかった。〈黒魔法〉の内容はあくまでも自己申告。さらに令嬢たちは信頼の置けない魔女派貴族の出。
(申告が真実とは限らない)
もし、〈視界を分かち合う魔法〉が姉限定でなかったら?
姉の〈生き物を隠す魔法〉で隠された人間は、音も光もない世界に放り込まれるのだという。でも、妹だけは自身の〈黒魔法〉によって隠されながら外の世界を視ることができる。
もし、妹の〈黒魔法〉が赤の他人にも視界を分け与えることができるなら。
足手纏いの人数を最低限に抑え、身を隠しながら長距離の移動も難なくできるのではないだろうか。
(これは放っておくわけにはいかないな)
初めて、レグルスの口元に笑みが浮かんだ。




