Chapter05-5 大蜘蛛
ソレは木々の間から獲物を見下ろしていた。月の光を弾いて銀白に輝く多角形――細緻なレース編みの玉座に、毛むくじゃらの長い脚を広げて。
粘糸に搦め捕った獲物は四匹。二匹はこの森に多く生息し、よく捕食してきた小型の獣。そして、二匹は珍しいことに人間だ。
獣の方は活きが良く、元気よく暴れている。こちらはデザートとしよう。人間の方は、どちらも動きが少ない。つまり今が食べ時だ。毛の少ないこの生き物は、ソレにとってはご馳走だった。
大蜘蛛は音も立てずに銀白の玉座を後にした。長い脚で音もなく。スルスルと樹の幹を伝い、最も動きのない一匹――大樹に縫いつけた方へと近づいた。
灰白の世界に、リディアはいた。
暗闇の中、魔物はリディアの位置を正確に捉え、粘糸を吐いて搦め捕った。頭から粘糸を被ったため、首を動かすことすら難しい。
(綿毛は魔物が放っているから……)
迂闊だった。リディアたちがはじめに見た綿毛は、魔物が拡散させた綿毛。綿毛は獲物をおびき寄せるためのものなので、当然――
魔物の元へ戻ってくる。綿毛を拡散させたら、今度は獲物を導き、引き寄せる。行って戻ってくるのだ。
全身に絡む強靭な糸は、非力な小娘の力ではどうにもできない。
絶望的な状況――身の毛もよだつ魔物に食べられてしまうかもしれないのに。
ソウ、ソウ……蜘蛛ノ糸ダ。思イ出シタ。
なのに……。不思議と恐怖を感じなかった。白く痺れた頭の中で、『知らない誰か』の声が愉しげに言った。
銀白の繭はリディアのほぼ全身を覆っている。外の様子は、僅かな糸の隙間から見えるだけだ。そこから視線だけで懸命に上を見ると、思った通り、黒闇の中に美しい銀白の多角形が淡い光を放っている。
ソウ……網ノ目ニスレバ、獲物ヲ逃ガサナイヨネ。
獲物を捕らえるのが、どうしてもうまくいかなかった。魔法の鎖を輪っかにして投げかけても、獲物はヒラリと軽やかに身を躱し、運よく輪の中に入れたとしても、藻掻いて暴れて結局逃げられてしまう。
そんな時に見つけたのが、蜘蛛の巣だ。ネバネバする糸は捕らえた獲物を放さず、暴れるほどに絡まり、自由を奪う。
だから――。
大きな大きな蜘蛛がスルスル樹から降りてきた。毛むくじゃらの巨軀は銀鼠色。丸い腹には、毒々しい紫色の斑紋が浮く。
(オイデ……モット近ク……)
バケモノを前にしているのに、なぜか怖さは微塵も感じない。むしろとてもワクワクしていた。銀糸の隙間から獲物を狙うリディアの瞳は、濃い魔力を湛えて血のように紅く。
(オイデ……何ニモ知ラナイデ)
アイツは見えているんだろうか。今ボクが――
嗤っている、のが。
「……フフッ。【囚エヨ】」
いつもの〈生き物を隠す魔法〉――そのオレンジ色の魔法の光が、空中でパラリと広がった。細いけれど強靭で、獲物に張り付く大きな網。それは音もなく、大蜘蛛に覆い被さると、まるで意志でもあるかのようにみるみる巨軀を包み込んだ。大蜘蛛は、自らを襲った異変に、脚をバタつかせて抵抗するも、かえって網が絡まるばかり。
やがて――オレンジ色の糸玉のようになった大蜘蛛の姿が、フッとかき消えた。
嗚呼……。
コレデ、ヤット使エル……。
ボクノ考エタ最強ノ武器ヲ。
◆◆◆
『ギョエエエエエエ!!!!』
「?!」
メリルの身も世もない絶叫に、リディアはハッと意識を取り戻した。蜘蛛の粘糸を頭から被り、まったく身動きが取れない。繭の隙間から視線だけで上を見ると、空っぽの蜘蛛の巣が淡い光を放っている。
『アンタ何隠してくれてんのよ! 出して出して出してぇ!』
〈空間〉の床をゴンゴン殴る音と、メリルの泣き声が聞こえてくる。
(あ……)
ぼんやりした頭が、先ほどまでの記憶を緩慢に思い出す。
(そっか……。私、大蜘蛛を)
なぜか、〈生き物を隠す魔法〉のオレンジ色の光が網になって。
大蜘蛛を搦め捕り、〈空間〉に放り込んだのだっけ。
『早く出してぇっ!』
金切り声をあげるメリル。……はて?
いったい何に怯えているのだろう。アイツは動けないはずだ。雁字搦めにしてやったし、〈牢獄〉ではお得意の粘糸だって吐けはしない。〈牢獄〉ではいかなる魔法も使えないのだから。
(……え?)
思わず自分の思考に目を瞬いた。
(〈牢獄〉? 魔法が使えない? なんで……知っているの?)
あの〈空間〉は、捕らえた獲物を閉じ込めておく〈牢獄〉で、リディアは〈牢獄〉に捕らえた獲物の能力を我が物として使うことができる。
スラスラとさっきまではなかった知識が頭に読みだされる。だが、「なぜ知っているのか」については、さっぱりわからない。
『メリル、その蜘蛛は動けないし、何にもできないわ』
自身の変化に戸惑いつつも、メリルに危険がないことを説明する。実際に、〈牢獄〉を〈視て〉みたが、大蜘蛛はオレンジ色の鎖でグルグル巻きのまま、空間に転がっているだけだ。脚の先がたまに動くことから、生きてはいるみたいだが。
そういえば、〈牢獄〉の内部を〈視た〉のも初めてだ。黒く煤けた継ぎ目のない床と壁に囲まれた空間には、メリルの運びこんだ女の子らしい家具調度が並び、隅っこに仲間たちの荷物、頭からブランケットを被ったメリルに、大蜘蛛。大蜘蛛の異物感がすごい。
『すごい異物感ね……』
『他人事みたいに。お姉さまの鬼畜!』
『ご、ごめん』
そんなやり取りをしていた時だ。
「悲鳴はこっちから聞こえたな」
近くの繁みがガサガサッと揺れ、カンテラを掲げた男が姿を現した。やがて複数の足音が近づいてきて。
「こりゃあ大蜘蛛だな。お、おい、人だ!」
知らない男の声が叫んでいる。次いで、たくさんのカンテラや光球が辺りを明るく照らし出す。
「近くに巣の主がいるかもしれん! 気をつけろ!」
リディアの視線の先に人が集まり、地に転がった銀白の塊――推定カーミラを助けようとしている。
(助けが……来たんだわ)
よかった……。これで館に帰れる。そう、思ったのだが。
「坊ちゃん、アンタの探してる女ってのはコレかい?」
「ん? いーや。違うね。リディアは澄んだ茜色の瞳に、ローズブラウンのとても綺麗な髪色でね」
予想外の人物が、リディアを現実に引き戻した。




