Chapter03-5 茨の部屋にて
アディサ視点です。ん? アディサって誰?
まさか、〈勇者〉がここを訪れるなんて――。
真夜中――。
己の手のひらさえよく見えない暗い部屋の中で、アディサはひどく動揺していた。
〈勇者〉は〈厄災〉を滅する存在。だけど、もう何百年も前に世界から姿を消した、神話の中の人物。だが、彼は間違いなく本物の〈勇者〉だ。ついさっき、彼らの〈言語〉を使うことなく、〈厄災〉たちと言葉を交わすところを、アディサは目の当たりにしたから。
どうしよう。〈勇者〉はテディーたちを消しにきたのだ。『楽園』が、消えてしまう。
意を決して、『私』は彼に懇願した。幼いフリをして色仕掛け紛いのことも仕掛けた。絶対に、絶対に『楽園』だけは譲れない。
ここを失ったら……
ここを失ったら……
テディーを失ったら、『私』の価値は消えてなくなる。人間ですらなくなって……。
『日記』を抱え、アディサは肖像を見上げた。割れ砕けた輝石窓のほんのわずかな灯りに、浮かび上がる『神』を。
……大丈夫だ。『私』にとってテディーたちは『おともだち』だから――。
柔らかそうなプラチナブロンドの、七歳くらいの『神』は、無垢な笑みでアディサを見下ろしていた。
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大好きなテディー。
私の大事な大事なおともだち。
テディーたちがいるから、私はここに一人でもお兄様を待っていられる。どうかずっと私のそばにいて。
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……問題ない。
大事な大事なテディーのためなら、たとえ『創世神話』と反することとわかっても『私』は「わがまま」を言うはずだ。
「貴女は私、私は……」
養蜂はやめる。『お兄様』は立派な王子様だから。『私』のやったことが原因で民に迷惑をかければ、きっと悲しむだろう。この決断は正しい……はず。養蜂で儲けていたハサンは喜ばないだろうけど。
そもそも、未知の病に倒れた器たちのために始めた養蜂だった。お金儲けをしたかったのはハサンであり、アディサは器たちが助かったのならそれでよかったのだ。
間違ったことは、していない。
たとえそこに、少しばかりの打算や計算が差し挟まれたとしても。
「私は、貴女」
アディサは縋るように『神』を見上げた。
(これは『貴女』の意思。『貴女』は大好きな『お兄様』を悲しませたくない。ハサンには悪いけど、『貴女』は子供だから大人の事情は察せない)
いいんだ……これで。
アディサは自分に言い聞かせた。
テディーたちが、広い範囲で活動しているのは知っていた。でも、その範囲と人間の活動範囲が重なっていたなんて……。
恐怖を感じた。
ここは『離宮』。魔物や獣を追い払う衛士はいても、人間と戦える兵士はいない。『楽園』を守るためには、知られてはいけないのだ。
――と。
微かな足音にアディサは、耳をそばだてた。
(誰?)
こんな夜中に訪れるのは、ライラーくらいのものだ。あの子はまだここへ来て日が浅い。遠い遠いところから来たライラーは、暗闇を怖がって泣くのだ。船底みたい、と。
「ライラー?」
無言の訪問者に、アディサは優しく呼びかけた。
本当は、『アディサ』を出してはいけない。『楽園』を守るために、『私』は『カーミラ』でなければならないから。でも、『アディサ』でなければ、心に浅くない傷を負うライラーを慰めるのは難しかった。
「ライラー? どうしたの? 眠れないの?」
「アディサ! アディサだな?」
しかし。
茨の向こうから聞こえた声は、ライラーのものではなく。
「ハサン……様?」
◇◇◇
「アディサ! ああ、アディサ! 大丈夫か? 何も変わったところはないか?」
茨の向こうから、興奮気味な声が問う。
「私は大丈夫ですわ」
努めて冷静にアディサは答えた。彼――ハサンにアディサでいることがバレたのは、ライラーを構うようになってからだ。彼女を慰めているところをハサンに見られたから……。
彼はダーリアが休んだ頃を見計らっては、ここへやってくる。
「アディサ、喜んでくれ。おまえを解放できるかもしれないんだ」
茨の向こうからハサンが言った。
「ハサン様、カーミラ様のことは……」
冷静に、アディサはハサンをたしなめた。
「もうあんな亡霊に怯えなくていいんだ。〈勇者〉とか名乗る冒険者が来たろう?」
(ああ、そういうこと)
ハサンは〈勇者〉が〈厄災〉たちと言葉を交わせることを知ったのだろう。『カーミラ』の代わりを見つけたと言いにきたのだ。
「ハサン様、〈勇者〉様は〈厄災〉を滅するお方です」
手早く、丁寧に〈勇者〉がどんな存在かを説明する。ハサンたちの商売は〈厄災〉ありき。だから、それを消してしまう〈勇者〉は招かれざる客なのだと。
「ここは穏便に旅立ってもらうのがよいと思います」
きっと、『カーミラ』も〈勇者〉が役割を果たすことを望んでいる。『日記』の滲んだ文字が、幼い彼女の葛藤を伝えてくるから。
「それではアディサ、おまえが解放されないではないか!」
ハサンが語気を荒げた。
(やっぱり……この人は将軍と同じだ)
アディサは内心でため息を吐いた。まだだ。まだ、現役でいなくては。ライラーはすでに〈厄災〉と少しずつ話せるようにはなっている。でも、この男を御すのはまだ荷が重い。
二十年前に死んだ将軍も器に執着していた。正確には先代に。アイツは、『継承』が済んだら美しい器を我がモノにする意思を隠しもしなかった。あの悪夢のような日――地震で母屋の塔が崩れた日、先代の身体についた傷は決して崩落によるものだけではなかったから。
「ハサン様、私はあなた様もお守りしたいのです」
何度もした説明を繰り返す。
この館が森に蔓延るアンデッドから護られているのは、『カーミラ』の力によるものだと。『カーミラ』は彼女の高い魔力で、愛する兄のためにアンデッドを祓う祈祷を行った。祈祷は今も、見えない彼女によって続けられている。だから、『カーミラ』を廃してはならないのだ。
「そんなもの、聖職者を雇えばいい! アディサ、おまえは知らないだろうが、世界は広いんだ。あんな亡霊に頼らなくとも、ここを守るくらいどうとでもなるんだ!」
けれど、ハサンは自分こそが正しいと、アディサの言葉を頭から否定するばかり。……いつも、こうだ。
(嗚呼……あなたにとってもアディサは『人』じゃないのね)
落胆も虚無感も、期待しては幾度となく味わってきた。彼にとって、アディサはさしずめ美しい装飾品に過ぎないのだろう。装飾品に意思は要らない。
「……そろそろダーリアが戻ってきます。どうかお戻りくださいませ」
対話は成立しない。なら、彼にこれ以上踏み込ませてはならない。彼が何かする前に、〈勇者〉を旅立たせてしまおう。
「アディサ、それはやめておくんだ。彼らがここのことを黙っておく保証はないからな」
一転、声音を低くして告げたハサンにアディサの心臓が跳ねた。
ここは密輸拠点だ。ハサンは秘密が漏れることを何よりも恐れている。それはアディサも同じだ。
「幸い、脅威になりそうなのは金髪の少年と戦斧使いとかいう大男のみだ。心配せずとも〈勇者〉には手出ししないさ」
最後にそう言い残して、ハサンの気配が遠のいていく。
(なんてこと……)
心臓がドクドクと暴れている。ひたひたと迫る予感に、アディサは日記を抱える腕を震わせた。




