Chapter01-1 幸せなひととき
オクトヴィア王国、王都トリクローヌ。
貴族の邸宅が建ち並ぶ区域から、商店が軒を連ねる区域へ続く道を、一組の男女が並んで歩いていく。
教会の前に植えられたクチナシが、白い花をたくさんつけ、甘い香りを漂わせている。その脇を通り抜けて二人が立ったのは、
「わぁ。緑のトンネル!」
まるで妖精の小径。連続する白いパーゴラに、小さな葉を繁らせた植物の蔓が絡みつき、植物のトンネルが作られている。
「馬車だと、ここは通れないからな」
男性――バルテルミ伯爵子息のマクシミリアンが、傍らの女性に手を差し出した。
柔らかなカナリア色の髪に、垂れ目がゆえに甘やかな印象の顔には優しげな笑みが浮かぶ。
「疲れていないかい? リディア」
「大丈夫」
そんな彼に、女性―――コンコーネ男爵令嬢リディアはガーネットのような澄んだ茜色の瞳を細め、レースの手袋をはめた手を彼に預けた。
葉が繁る中に、小さくて可愛らしい黄色い花がたくさん咲いている。トンネルの中は甘くて爽やかな香りが満ちていた。
「歩いてきてよかったわ。こんな素敵な所があるなんて」
ありがとう、の気持ちをこめてキュッと繫いだ彼の手を握れば、応えるように彼は指を絡めてきて――。トクン、とリディアの胸が鳴った。
緑のトンネルを抜けた先は、小さな噴水広場となっていた。噴水を取り巻くように扇形の花壇があり、オベリスクやアーチに這わせた黄色のモッコウバラや赤いつる薔薇が見頃を迎えていた。
「きれい……」
薄紅色の大輪を見つめるリディアのこっくりと深いローズブラウンの髪を、湿気を含んだ風がふわりと撫でていった。
「あ……ああ。でも、さすがに降りそうだな」
しかし、リディアをここに連れてきた当人は不安そうに灰色の空を見上げている。彼には申し訳ないが、目を泳がせている様子がなんとも滑稽だ。リディアはクスクスと肩をふるわせた。
今日の目的地は、王都に新しくできたカフェ。そこの看板メニューたるパルフェを食べに行くのだ。
隣を歩くマクシミリアン――マックスはリディアの幼馴染みで、たぶん、もう少ししたらリディアの婚約者になる。
◆◆◆
石畳の道をしばらく歩くと、視界が開け、大きな広場が見えてきた。広場から続く通りには、カフェや気軽に入れる服飾雑貨の店が軒を連ねている。
マカロンのようにカラフルな三角屋根の家々、白木のテーブルとモスグリーンのパラソルを並べたカフェ、くつろぐ人々。楽士でもいるのか、軽快なヴァイオリンの音も聞こえる。
たとえ天気がいまいちでも、楽しげな雰囲気にリディアの心も浮きたった。
彼と眺める世界はまるでレモングレーズ。
甘くて、ほんの少し酸っぱくて。
何もかもがキラキラ輝いて、ふんわり夢見心地――。
広場を半ばまで歩いたところで、マックスがハッと何かを思い出したように立ち止まった。
「ごめん、リディア。ちょっと用を済ませてきたい。すぐに終わるから、そこで待っていてくれるかい?」
広場の真ん中にある噴水の前でマックスは困ったようにリディアを見た。近くのベンチにリディアを座らせると、
「そうだ、喉が渇いたろ? 坂道だったし、疲れたよな? 何か飲み物を買ってくるよ」
「あ」
「いいのに」とリディアが引き留める前に、マックスはせかせかと近くの店に走っていってしまった。そしてすぐにグラスを手に、せかせかと戻ってくる。
(変わってないなぁ)
子供の頃からとても律儀で、気づかい屋で。兄のように何やかやと面倒をみてくれて。リディアはフフッと微笑む。
「そ、そうだ。ここだともし降ってきたときに濡れてしまうじゃないか……バカだな俺は。リディア、あの木の下で待っていてくれないか? すぐ戻るから」
「わかったわ」
広場の端、プラタナスの一本を指して、何度もふり返りながら離れていくマックスを、リディアは手を振って見送った。
マックスと知り合ったのは、彼の家で開かれたお茶会。そこでリディアが転んで怪我をした――ほんの些細な事故に、律儀なマックスはひどく罪悪感を抱いたらしい。
「僕のせいでリディアが怪我をした」
それ以来、彼はリディア、リディアと気を遣うようになった。
(あなたのせいじゃないのに……)
リディアとしては、彼からいろいろな選択肢を奪ってしまったようで、むしろ申し訳ないのだけど。
リディアの家の爵位は男爵、マックスの家は伯爵。身分差もあるし、リディアは身体も弱い。何より〈黒魔法使い〉だから。
それに。
(転んだのは、私じゃなくてメリルだし)
リディアにはメリルという腹違いの妹がいる。母はちがうのに鏡合わせのようにそっくりな妹は、陽の下を歩くことができない体質で。
その日、お茶会用におめかしをした姉を見て、妹は「私も着たい! 私も行きたい!」と言いだした。家に籠もってばかりの妹にとって、昼間のお出かけはとても魅力的なイベントだったのだ。
だから、リディアは妹の願いを叶えるべく。
こっそり〈黒魔法〉――〈生き物を隠す魔法〉を使って、自分と同じ衣装を着たメリルを隠して、お茶会に連れていった。
◆◆◆
この世界には魔法が存在している。
一般にそれは属性魔法――例えば、コップ一杯ほどの水を出したり、指先に火を灯したり、そよ風を吹かせたりする程度のものを指す。人によって得手不得手、魔力の個人差はあるが、大多数の人間は属性魔法を扱える。
それが、『標準』。
そして、貴族となるとさらに魔力が強いことが、血筋と並んで重視される。
しかし、リディアたち姉妹は属性魔法を一切使えなかった。代わりに使える唯一の魔法が、リディアは〈生き物を隠す魔法〉――俗に〈黒魔法〉と呼ばれる忌み嫌われるものだった。
◆◆◆
話をお茶会に戻す。
お茶会が始まって、テーブルに並ぶ色とりどりのお菓子を見たメリルがポツリと「おいしそう」と漏らしたから。子供らしい思考で、リディアは妹にもお菓子を食べさせようと考えた。
「少しだけなら平気だよ」
ぐずぐず渋るメリルを説得して、リディアは妹を外に出しテーブルにつかせた。途端、妹はパニックになって椅子から転げ落ち……。
その後、親に見つかり回収された妹は案の定熱を出して寝込んでしまった。
幼さゆえに、当時のリディアは妹の体質を理解できていなかった。陽に当たると妹がどうなるかも知らなかった。
無知がために起きた事故――そのことが、マックスの罪悪感を大きくした。彼もまた幼く、事実を正確に知ることはできなかったから。
もちろん、罪悪感から婚約に向かったわけではない。きちんと理解できる年になってから、マックスには事情を説明したし、その上で彼から婚約を申し込まれた。
「俺はリディアだから好きなんだ。魔法のこともメリルのことも、何の瑕疵でもないよ。〈黒魔法使い〉でも、傷があっても病気にかかっても。俺の気持ちは揺らがないから」
そう、告げられたのが五年前。そのときはリディアがまだ子供だったために、婚約の返事は先延ばしにされた。それでも彼は、
「リディアに好きになってもらえるよう、頑張るから。リディアの気持ちが追いつくまで、待っているから」
菫色の瞳を優しく細め、そう、言ってくれた。
あのときは、フワッとした嬉しさをほんのりと感じた以上のことは、なかったのだけど。
今は、そこに温かな熱が加わった気がする。