後編
「ひと月ほど、恋のお相手をしてほしい」
そう依頼されたのは、もうすぐ十五を迎えようとしている頃だった。
思わぬ申し出にぱちくりと目を瞬かせ、目の前に座る青年を頭のてっぺんから爪先まで見る。身なりはよく、年は二十から三十。その年で仕立のよい服を着ているのなら、どこぞの貴族か成功者。
「あー、悪いけど俺、男の客は取ってないんだ」
だがどんなに身なりがよくて金払いがよさそうでも、相手をするつもりはなかった。
ミハエルは女性とだけ、と決めている。男女どちらも相手にできるほうが稼ぎはよいが、どうしても受け入れられなかったからだ。
ミハエルは見栄えのよさとある程度の教養があることが幸いして、高級娼館で働いている。だが高級だろうとなんだろうと、普通はそんなわがままは通らない。
ミハエルのわがままが許されたのはひとえに、借金から身を落としたわけではないからだった。
「違う。お相手は俺ではなく、とある高貴なお方で、女性だ。……詳しくは、受けると約束してから話そう」
そう言って、青年はひと月ほど拘束する代償として、ミハエルがこれまで見たこともないような金額を提示した。
男娼の寿命は短い。男相手だろうと女相手だろうと、求められるのは若いうちだけ。幸いミハエルは体の成長がゆっくりなのでまだなんとやっていけているが、十五を超えればさすがに何かしら変化が起きる。
なら最後のひと稼ぎには悪くないのでは。
そう考えたミハエルは、青年の依頼を受けることにした。
改めて告げられた依頼の内容は、お姫様の恋のお相手。
夢見るお姫様にふさわしい恋を与えること。期間はひと月。
「どうして俺に?」
とても簡単な依頼だ。ミハエルでなくとも、そこらの貴族に頼めばいいだけの話なのに、わざわざ男娼である自分に話を持ちかけたのは何故か。
そんなミハエルの疑問に、青年は隠すことなく答えた。
女性の扱いに長けていて、万が一にも溺れることはなく、間違っても結ばれることのない身分の者を探していたこと。
そしてミハエルは女性しか相手にしない高級男妾で、どうにかなろうと考えることのない境遇で、お姫様がどうしてもと願っても結ばれることのない身分。そしてなんの後ろ盾もなければ、裏から操る者もいない。
すべてに合致した、都合のよい人物だったということを。
「それでいつから? ひと月も家を空けるんだから、もちろん前金はあるよな?」
青年の目に侮蔑が浮かぶ。卑しいとでも思っているのだろう。
だが守りたい矜持などすでになく、ミハエルは再度前金を要求した。
ため息を落とされながらも受け取った革袋を手に帰路に着く。
そうして王家の別荘のある地で、お姫様を待った。
(甘やかされて育った姫の相手なんて面倒だけど、まああれだけ入るなら)
提示された金額に口止め料も含まれていることは、言われなくてもわかった。もうじき輿入れするお姫様が男娼と過ごしていたなんて、醜聞にもほどがある。
だから別荘に配置した使用人も口が堅く王家に逆らえないものばかりといった徹底振り。
それは、平民一人なら遊んでも暮らせるほどの金額を支払うだけの価値を、王様がお姫様に見出していることを意味する。
「お待ちしておりました」
馬車が到着するのを確認して、首を垂れる。誰かが出て来た気配を察知して、用意しておいた言葉を紡ぐ。
そうしてナディアと名乗ったお姫様を見て、ミハエルは一瞬だが言葉を失った。
陽の光に照らされた銀色の髪は神秘的に輝き、紫色の瞳は透き通っていて、とある貴婦人が身に着けていた紫水晶を思い出す。
そしてすぐ、柔らかな笑みの中に嫌悪がないことに気がつく。
「……エルと申します」
依頼を受けるにあたって、いくつかの条件がかせられた。
ひとつは、決して本名を名乗らないこと。
ナディアの顔に嫌悪がないことから、彼女が自分の身分も何も知らないことを察する。
それはきっと、もしもナディアが本気になってもミハエルを探せないようにだろう。
「エスコートしてくれるかしら」
「かしこまりました」
そして条件のもうひとつは、決して手以外には触れないこと。
ミハエルが軽々しく触れてよい相手ではないと耳が痛くなるほど言われた。
それから、上記二つに反しない限り、ナディアの命令は厳守すること。
この三つを破れば、相応の代償を支払ってもらうという忠告付きで。
ミハエルはそのぐらい楽な仕事だと思っていた。命令厳守は引っかかったが、とんでもない性癖でない限り、恋の相手という依頼で命が危うくなるようなことはないだろうと了承した。
そしてその予想通り、ナディアはすぐに懐いてきたし、無理な要求はされなかった。
楽勝すぎて、時間がゆっくりに感じてしまうほど穏やかだった。
(ああ、本当に、なんていうか……苦労を知らないんだろうなぁ)
差し出したフォークの先についた果物を、なんの迷いもなく食べるナディアを見て、心の中で苦笑を浮かべる。
毒見はすでにしてあるので安全ではあるが、どこの誰とも知らない相手が差し出したものを普通食べるだろうか。
ちらとナディアを見ると、何やら期待しているかのように目を輝かせながら果物が刺さったフォークを持っている。
ミハエルはそれに応えるように口を開け、中に果物が入ってくるのを待った。
(甘ったるい)
口の中に放り込まれた果物は瑞々しく、噛むだけで甘い果汁が広がる。
慣れない味に、ミハエルは柔らかな笑みをナディアに向けた。
果物もそうだが、打算も何もない穏やかな眼差しも、厭うことのない笑みも、滑らかで柔らかい少女の手も、家族以外でそんなものをミハエルに与える者はいなかった。
だがそれに、焦がれることはない。
「キスをしてくれる?」
そっと目を瞑るナディアを前に、手を伸ばすことすらしなかった。
白くきめ細やかな頬は触れなくてもなめらかなのがわかる。
風になびく髪は見ただけで柔らかだとわかる。
こちらを陰ながら護衛し、監視している者がいなければ、その肌に、髪に触れただろうか。
(いや、ないな)
触れたいと思うには、失うものが大きすぎる。
触れたいと願うには、失ったものが多すぎた。
「姫様、それはできません」
目を開けた彼女にそう言うと、ナディアの口元に少し寂しそうな笑みが浮かぶ。
そしてエスコートを頼まれてほっとしたのも束の間、手を握られる。指を絡めてのそれは、まるで親しい人がするもののようで。
(甘ったるい)
だがそれを彼女が望んでいるのなら。そう思って、握り返した。
ナディアの乗る馬車が完全に見えなくなって少ししてから、みすぼらしい荷馬車が裏から到着した。これに乗って帰れ、ということなのだろう。
御者席に人はいるが、それ以外には誰もいない。ミハエルは固い床に座りながら、ひと月を過ごした別荘を眺めた。
「お帰りなさい」
そうして帰り着いた我が家で、待っていた母と妹がミハエルを出迎える。
「ただいま。ほら、これ凄いだろ」
荷馬車を降りるのと同時に放られた革袋。その中にはぎっしりと金貨が詰まっている。
「あなたこれ、どうしたの? 何か悪いことでも」
「だから違うって。俺の腕を見込んで、なんていうか、とある貴人の教師みたいなのを頼まれたんだよ」
ミハエルは家族に自分の生業を話していない。
ミハエルの父は学者で、亡くなるまでは教えを受けていた。
そのときに学んだ知識で、本を読んだり、代筆の仕事をしてあるのだと説明していた。
「そう、なの? それならいいけど」
ごほ、と母が咳き込むのを見て、ミハエルは「俺のことはいいから寝てきなよ」と促した。
父が亡くなり、たくさんあった本を売っても当面の生活費にしかならず、幼い子供二人を食わせるために母は働き詰めになり、病を患った。
「わー、お兄ちゃんすごいね」
ぴょんぴょんと跳ねるように言うのは、今年で七つになる妹。
「これでお前を学校にやれるかもしれないからな。今からでもしっかり学ぶんだぞ」
病気の母に幼い妹。そしてそれを支える少年。
絵に描いたような、よくある話だ。
「お兄ちゃん、どうしたの? どこか痛いの? 大丈夫?」
だがそれでも、彼女に触れるにはあまりにも代償が大きすぎた。
それに淡く消える泡沫の夢だからこそ綺麗に思えるだけだ。
ミハエルが触れることはおろか、見ることも名前を呼ぶことすら許されない身だと知れば、ナディアは騙されたと蔑んだだろう。
(俺のことなんて忘れればいい)
甘ったるい世界で、甘ったるいまま、愛して愛されて幸せになればいい。
エル、と柔らかく呼ぶ彼女の姿を思いながら、大切な家族を、失うには大きすぎる代償を抱きしめた。
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