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前編

「一度でいいから恋をしてみたいわ」


 アクシスウィア国王女ナディアの呟きに、彼女の側仕えが目を丸くした。


「ナディア様。そのようなことをおっしゃるものでは……」

「ええ、わかっているわ。だけど、思うだけなら自由でしょう?」


 ナディアはもうじき、隣国の王のもとに嫁ぐ。隣国の王は今年で二十五。十四歳のナディアとは十以上年が離れている。

 先王が急逝し、本来王位を継ぐはずだった王太子も不幸な事故により落命し、第二王子のもとに王位が転がりこんだ。

 だが度重なる不幸に国は揺れ、第二王子の即位を認めない派閥も現れ――事態を落ち着かせると共に後ろ盾となるべく、ナディアが王のもとに嫁ぐことが決まった。


 その知らせをナディアが知ったのは、ひと月前。

 以来ずっと、ナディアは窓の外を眺めながら憂鬱そうに「恋がしたい」とため息を落としている。


「嫁がれた先で恋をすればよろしいのでは」

「旦那様が素晴らしい人かわからないもの。もしもひどい人だったらと思うと不安でしかたないの。だから一度でいいから、恋がどんなものか知りたくなったのよ」


 恋がしてみたい。そう言ってため息を落とすナディアに、侍女が困ったように眉尻を下げた。



 それから数日後、ナディアは父王から別荘に赴くことを勧められた。

 嫁ぐ前に気分転換のひとつもしたいだろう、と。


 ナディアも父王の勧めならと頷き、城から馬車で三日の距離にある領地に移った。期間はひと月。輿入れの準備をはじめるまでという約束で。


「お待ちしておりました」


 たどり着いた別荘にいたのは、ナディアと同じ年頃の少年だった。肩にかかる長さの金色の髪をひとつに結び、緑色の目を伏せながら言う彼に、ナディアは小さく首を傾げる。


「他の人はいないの?」

「食事と着替え、湯あみを担当する者はいますが、それ以外のお世話は僕に一任されております」


 貴人の身の回りの世話は、たとえそれがどんなものであろうと同性が担当するものだ。ナディアもこれまで、女性の側仕えしかいなかった。

 王家が管理する別荘に人がいない、ということはないだろう。現に着替えや湯あみを担当する者はいる。

 ならばこれは――


(もう、お父様ったら)


 くす、とはにかむような笑みを浮かべる。きっと侍女の話を聞いて、嫁ぐ前に夢を叶えてやろうとでも思ってくれたのだろう。

 父の優しさにこそばゆさを覚えながら、ナディアは改めて少年を見る。


 淡い色合いをした金色の髪に、少女にも少年にも見える丸く大きな緑の眼。鼻筋の通った顔も少女にも少年にも見える中性的なもの。

 鍛えられた騎士やもうよい年の父に、精悍な兄しか知らないナディアの目には、その風貌は新鮮なものに映った。


「ねえ、私はナディアというの。あなたは?」

「……エル、とお呼びください」


 恭しく首を垂れるエルに、ナディアは手を指し出す。


「エスコートしてくれるかしら」

「かしこまりました」


 触れた手は思っていたよりもざらつきがあり、側仕えの滑らかな手しか知らないナディアは違和感を抱いた。

 だがその違和感も、これまで経験したことのないものだと思えば新鮮なもので、すぐに忘れてしまった。



 エルとの日々は穏やかなものだった。


「湖を散歩したいわ」

「それでは日傘をお持ちします」


 白くフリルのついた日傘を持ち、後ろを歩くエルにナディアは小さく笑みをこぼす。


「ねえ、隣を歩いてもいいのよ?」

「それでは、失礼いたします」


 エルはナディアの誘いを断らなかった。手を指し出せば取るし、隣を歩くように言えば歩き、一緒にお茶を楽しみたいと言えば同席した。

 畏れ多いとは一度も言われないことも、ナディアにはこれまで経験したことのないものだった。


 食事もお茶も、側仕えや侍女が同席することはない。側仕えは貴族の出ではあるが、彼女自身が招待を受けた場でない限り、一定の距離を保っていた。


「食べさせてくれる?」


 あ、と口を開けるとエルは小さく微笑みながら、フォークで刺した果物をナディアの口に運んだ。


「おいしいですか?」

「ええ、とっても甘いわ。エルもどうぞ」


 そう言って差し出せば、エルも同じように口を開いてナディアが運ぶのを待つ。


 本に出てくるようなひと時に、ナディアは自分の胸が高鳴るのを感じた。


(恋って、こういうものなのね。なんて穏やかで素敵なのかしら)


 ふふ、と柔らかな笑みを零せば、エルも慈しむような眼差しをナディアに向ける。


(でもこれも、あと数日でおしまい)


 与えられた期間はひと月。穏やかな時間はあっという間に過ぎ、もう二、三日もすれば終わりを迎える。

 暖かな風が吹く木漏れ日の中、ナディアがそっとエルを見上げると、どうかしたのかと問うような柔らかな笑みが返ってきた。


「ねえ、エル」

「どうかされましたか?」


 エルが小さく首を傾げるのに合わせて、金色の髪が揺れる。その髪とも、自分を見つめてくれる瞳とも、あと数日でお別れなのかと思い、ナディアは小さく息を吐いた。


「キスをしてくれる?」


 エルはこれまで一度も断ったことがない。だからこの誘いも受けてくれるはず、とナディアは顔を上に向けたまま、そっと目を閉じた。


 だけどいくら待っても思ったような感触が来ることはなく、痺れを切らしたナディアは閉じていた目を開ける。


「姫様、それはできません」


 ぎゅっと眉根を寄せ首を横に振るエルに、ナディアは小さく笑みをこぼす。


「いいの。困らせちゃってごめんなさい。エスコートしてくれる?」


 どこかほっとしたように手を差し出すエルに、キスは駄目でもこのぐらいなら、と指を絡めて握りこむ。

 エルが驚いたように目を見開くと、ナディアは悪戯が成功した子供のような笑顔を浮かべた。


「このぐらいならいいでしょう?」


 否定も肯定も返ってこなかった。代わりに、普段とは違う温かさが手に伝わってきた。互いに指を絡め、連れ立って歩くのもナディアにとっては新鮮で、少しざらつきながらも温かい手に名残惜しさを覚える。


 だがどんなに名残惜しくても、終わりはくる。

 迎えの馬車が到着し、迎えに来た騎士と共に馬車に向かう。


「姫様、お元気で」


 そう言って見送るエルに振り返り、ナディアは柔らかな笑みを浮かべた。


「エルも元気でね」


 好きだとはただの一度も言わなかった。父王が用意したひと時の夢なのだと、理解していたから。


(ねえ、エル。私はきっとあなたのことを忘れないわ)


 馬車が動きはじめる。輿入れの準備をするために、城に向けて。

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