8話 トイレによっただけなのに……
Bパートのダビングも無事に終わった。帰る前にトイレによっていたら、監督も演出も既に居なくて、いつの間にか夏目さんも姿を消していた。まあ、各々が現地集合で来たら解散するのも各々の自由なのでよくある事ではあるが。
思えば……もしこの時トイレに寄ることなく会社に戻っていたら、もしかしたら俺の人生は全く別物になっていたかもしれない。
荷物を持って地下のスタジオから上に出ようと、エレベーターに乗って1階に出た時だった。
扉が空いたら目の前にまさに昨日、駅で出会った彼女が立っていた。
「――えっ?」
言い忘れていたが、俺はオタクである。アニメ好きでこの業界に入っただけあってそれなりに重度のオタクだと思っている。もちろん声優さんも好きだし、推しに関してはファンクラブまで入るレベルである。
「あっ!」
だから、この至近距離なら例えマスクをつけていても見間違えはしない。アイドル顔負けの綺麗な両目とガッツリ目が合い昨日と同様にフリーズする。彼女のライブやイベントでもここまでちゃんと目が合ったことは無い。故に動けない、衝撃的過ぎて頭が追いつかない。オタクあるあるだと思う、こう言う時とっさに動けないし喋れないと言う事は。
そんな中余りにも呆然としていたら、エレベーターのドアが閉まってしまった。そこで現実に戻ってきた俺は慌てて開くのボタンを押す。
「お疲れ様です……昨日はありがとうございました」
さすがにこれ以上戸惑っているわけにはいかないので、一旦エレベーターから出て挨拶をする。
「お疲れ様です! 気にしないでください! 私もよくスマホ落としちゃうので……困った時はお互い様です」
えっ? スマホ落とすの? それもよく落とすの?
「それよりも! 昨日聞けなかったお話聞きたいです!」
昨日と同様に目がキラキラしている。いつもラジオや動画配信を見ているが、その時以上に声のトーンが大きい様な気がする。
そして、やっぱめっちゃ可愛い。
「えっでも、今からアフレコじゃあ……?」
「そうなんですよね……休憩時間とかでもいいんですけど、あんまり話している余裕もないし……」
うーんどしよう……って感じで一人で悩みだす大倉さん。
この感じだとやっぱ俺のことを、「ボクキミ」の制作だと勘違いしているみたいだな。実際は無関係者もいいところなのだが。このまま正直に無関係だと話してこの場を立ち去るべきなのだが、オタク根性と言うか何と言うか、とにかくまだ話していたいという思いが強く出てきている。全く我ながら欲望に忠実過ぎて呆れる。
「大倉さん、先にしたに降りていて……ってどちら様ですか?」
そんな思いを悟られたのか、その二人きりの夢みたいな時間はあっという間におわりを告げた。
ビルの入り口から女の人っが入ってきて、俺に気づくとそう聞いてきた。恐らく大倉さんのマネージャーだと思う。
「えっと初めまして、私株式会社――」
明らかに警戒しているな……まあ当然と言えば当然か。大倉さんは声優業以外にもアーティストとして活躍されてる。見た目の要旨の良さもあり、男性ファンが多いのだ。マネージャーとしてはほんの些細なスキャンダルの種も生みたくないだろう。
「――この人は制作進行さんだよ町田さん」
俺が慌てて名乗ろうとした時、大倉さんがそう答えていた。
んー間違ってない、間違ってないけど違うんだよな……
「えっ? 制作ってボクキミのですか? 4話の制作さんは女性って聞いてたんですけど」
このままだと一向に誤解が解けそうなにない上に、制作進行と言う関係者を装って大倉さんに近づこうとしたヤバいファンみたいなレッテルまで張られそうだ。
「いや、違うんです、僕は――」
「大倉さん町田さん、お疲れ様です~」
再度慌てて名乗ろうとしたところを遮られる。
声の先を見ると女の人が二人こちらに近づいていた。片方は恐らく声の主と思われる背の高い女性で、仕事出来る雰囲気がひしひしと伝わってくる感じの大人な女性だ。
もう片方の人は背が低く、見た感じ大人しい感じで、ぱっと見ると子供かと思ってしまいそうだが、手に持っているタブレットと佇まいから現場慣れしている業界人だと分かる。
この2人もしかして……
「あっお疲れ様です、冬海さん秋山さん」
あっやっぱそうだわ、この2人「ボクキミ」の監督とプロデューサだわ。
「お話し中すみません……今日もよろしくお願いします!」
「こちらこそ! よろしくお願いします!」
大倉さんが元気よく挨拶をする。
俺だけ明らかな場違いである。かと言って隙を見て逃げ出せる感じでもないし、どうしようか……
「こちらの方は?」
「制作進行さんです、この間ボクキミのカット袋を駅のベンチに置き忘れていた所を偶然私が拾ったんです。それでちょっとお話しをしたんですけど電車が来ちゃって――」
大倉さんが一人で説明を始める。そして細かく説明をして頂いたおかげで、俺が進行として絶対にしてはいけない、カット袋を置き忘れると言う大罪を犯してしまったことがバレてしまった……
「――カット袋を置き忘れた?」
背の高い女性……恐らくこの人がプロヂューサーの秋山さんか。その人がいち早くそこに食いついた。
「あっ……」
大倉さんはここで初めて、その事は言わない方が良かったかもしないということに気づいたらしい。悪気がないのはわかってますから、そんな申し訳なさそうな顔しなくても大丈夫ですよ?
「初ちゃんこの方と二人で喋ったの?」
「えっ、うんしゃべりましたけど……」
マネージャーの町田さんは、そんな話聞いてないみたいな顔で大倉さんに問い詰めている。
「どこの駅で何時位? 誰にも見られてない?」
「えっと……」
急に問い詰められて、大倉さん明らかに困っている。凄いな、売れてる女性声優ってここまでいちいち把握されてないといけないのか……
「ねえ、ここでする話でもないし、とりあえず下行きましょう」
そこで背の引く女性……恐らく監督の冬海さんが、いつの間にか到着していたエレベーターに乗ってそう言う。小さい見た目とは裏腹に、意外とはっきり物を言う人なんだな……
明らかな正論に町田さんも言い返さず大倉さんと二人でエレベーターに乗り込む。
「あたしは後から行くよ」
「分かったわ。時間が来たらとりあえず始めておくから」
そう言って秋山さんはエレベーターに乗らずその場に残った。何故残っているか考えている場合ではない、とりあえず今が退散のチャンス――
「では、お疲れ様で――」
「――あのさ、ちょっと時間あるかな?」
はい、そんなチャンスは一ミリもありませんでした……
目が笑ってない笑顔でそんな事言われれば従うしかあるまい。俺は無言で頷いた。