1話 よくある話……?
これは割とよくある話だと思う……
アニメにはまった学生が自分もアニメ制作の仕事がしたいと思い、憧れのアニメ制作会社に就職して現実に絶望する。
どこにでもある、アニメ業界に限った話ではないだろう。
だからあの日、彼女に出会ったのも多分よくある話なのだ……
「お往復3時間かけて1カットだけかよ……」
帰りの駅のホームで思わず一人で愚痴る。
俺、西賀亮はアニメ制作会社で働いている、今年で社会人3年目だ。役職は制作進行。数年前に流行った某テレビアニメの主人公の役職と同じなのでわかる人にはわかるだろう。
今は所沢に住んでいるアニメーターの所まで荻窪から電車で回収に行って戻っているところである。
このアニメーターが中々の曲者で、作品の作画監督(通称:作監)を担ってくれているのだが、とにかく上がりは出ないしすぐキレる。今日も回収に行く前に電話した時も、上がりが悪いだの、手が痛いから書けないだの、この時間には電話かけてくるだの、文句が止まらなかった……
電話でとりあえず謝り倒し、これから向かうからカットを出しておいてほしい旨を伝えて会社を出て、いざ来てみれば上がった数は1カットだけだったという事だ。
まあ、数に期待していたわけではないし、どちらかと言えばいつも通りなのだ。ただ、こんなやり取りをもう1ヶ月は行っている。肉体的にも精神的にも正直もう疲れた……。駅のホームのベンチに座りながらふと考える。こんな思いまでしてこの仕事を続ける意味はあるのだろうかと……。手に待っているこのカットをここに置いてこのまま逃げればどれだけ楽だろうか。そんな考えがよぎった瞬間、気がつけば有言実行していた。カットをベンチの上に置きそのままその場から離れる。もうどうでもいいか……、この作品の放送が落ちようが、カットが誰かに拾われてSNSで拡散されようが、知った事ではない。制作として、社会人として責任感を問われる勝手な行動だが、これ以上頑張るのがもう馬鹿らしくなっているのだから仕方ないだろう。
そんな思いが止まらなく溢れ出る……が、それは唐突に終わりを告げる。
「あの! 忘れ物してますよ!」
すごく綺麗で、その上可愛い声だった。駅の喧騒の中、突如聞こえたその声は耳にはっきりと聞こえ、自分に向けられているかもわからないのに、俺は振り返ってその声の聞こえた先を見る。
先程まで俺が座っていたベンチの近くに女の子が立っている。声に負けないその容姿に、普通に見惚れた。
そして気が付く。その人は有名な声優さんということに。
それも、俺が大ファンな声優さんだということに……
「ベンチに置き忘れてましたよ」
綺麗なセミロングの黒い髪をなびかせて彼女はそのまま俺の方までやって来た。その手には、さっき俺が置いたカット袋が持たれていて俺に差しだされている。正確には置いたって言うより、捨てたって方が正解か……
「……あの~?」
俺がなかなか反応しないので困った様に首をかしげる。だがいきなり有名人を目の前にして反応なんてできるはずもなく、俺は未だに動揺を隠し切れない顔で彼女の顔に見惚れたままフリーズしている。
「えっと……もしかして違いました? すみません、私てっきり――」
「いっいえ! 俺のです! すみません、ちょっとぼうっとしてて……」
なんとか思考を戻して相手に反応するも、緊張して最後の方は声が自分でもビビる位小さかった。まずお礼から言うべきなのだが、思考が追いついていない。
「よかった~人違いじゃなて……」
はい、どうぞ! と言わんばかりに俺に向けて差し出されているカット袋をとりあえず受け取る。
「ありがとうございます……拾っていただいて」
わざと置いていった物を拾ってもらった身分としてはかなり気まずい……
「その袋って、カット袋ですよね? もしかして……アニメ関係のお仕事の方だったりしますか?」
「えっ――」
「間違ってたらごめんなさい。表紙に私が参加している作品のタイトルが書いてあったので、もしかしたらそうなのかなって……」
意外だった。声優さんは基本的にカット袋を見る機会はほとんどない。だから彼女の口からカット袋という単語を聞くことがあるとは……
「……あーえっと、そうですね……一応アニメ作っています……」
「――やっぱり! 私本物のカット袋って初めて見ました! カット袋もっている人も!」
ただ、彼女は一つ勘違いをしている。アニメ制作会社あるあるなのだが、素材の入れ物の袋としてカット袋を使うことが多く、時には他社の作品のカット袋を使うこともあるのだ。
「カット袋を持っているって事はアニメーターさんですか!? 私アニメの仕事しているのにアフレコ以外の工程全然知らなくて、色々知りたいなって思ってたんです!」
彼女はすっかりテンション上がっている様子で、目がキラキラしている。今更勘違いしているとは言いずらい……
「いや……僕アニメーターではないです……制作進行って役職で――」
「制作さん! 聞いたことあります! でも具体的に何しているのかはよく知らないかも……」
「まあ……なにやっているかと聞かれれば色々って感じですね」
「なるほど、あっいけない電車の時間が……もっとその色々のお話を聞きたいのに」
いや、電車乗ってください……
「――まあでも、同じ作品携わっているならその内アフレコで会えますよね」
「えっ?」
「じゃあまた現場でお会いしましょう。あっ――」
振り返って電車に向かおうとした彼女が改めて一度こちらに向き直る。
「今更ですが……私、声優の大倉初です! お仕事頑張ってください!」
っと元気よく自己紹介された。俺も自己紹介を返すべきなのだが、彼女はそのまま行ってしまう。
色々勘違いさせたまま別れてしまったな……
俺は大倉さんの出ているアニメに関わっていない。カット袋の表紙がたまたま、次クール放送予定の彼女がメインキャラで参加しているアニメ作品「陰キャの僕をからかう陽キャの君」(通称:ボクキミ)だったのだ。アニメ業界は以外と狭いので、フリーのアニメーターが色々な会社のカット袋を持っている事が多い。多分俺が回収しに行った作監のそれが俺の所に回って来たのだ
他社の作品で俺は全くの無関係である。
まあ……どちらにしてもアフレコに制作が行くことは殆ど無いし、行ってもただ見ているだけで声優さんと話すなんて皆無なんだけどな。率先して話しかけに行ける空気でもないのだ。アフレコって普通に仕事だし。
「……やっぱめっちゃ可愛いな初ちゃん」
思わす気持ち悪い独り言が漏れる。ただ、それも仕方ない。大倉初は俺がファンクラブに入っているほど好きな声優さんなのだから。
――いや、マジでビビったわ、マジで! いきなり目の前に推しの声優が現れるとかどんな展開だよ! まだ心臓ドクドクしとる! 俺一生分の運使い切ったんじゃないか……
しばらく心の中で狂喜乱舞してから何とか現実に戻る――
はぁ……彼女から受けとったカット袋を改めて見る。
「――お仕事頑張ってください!」
最後に彼女から言われた言葉と笑顔が蘇る。
オタクとは単純である、推しからのそんな一言でやる気が戻るのだから。今の俺にカット袋を放置して逃げる選択は無くなっていた。
この話数だけは最後までやり切るか……
そう胸に決意して会社に戻るのだった