◇ささやかな変化
揺らめく炎が近づいてくる。
身を引こうとした身体は動かず、目に飛び込んできたその紅蓮は、耐え難い痛みとともに、皮膚を焦がした。
痛い。
痛い。
引きずられる。
打たれる。裂かれる。暴かれる。壊される。
痛い。苦しい。怖い。嫌だ。やめて。ごめんなさい。許してください。お願いします。
暗い。
暗がりの見慣れた部屋の中に、好きだった顔がある。歪ませた顔に、濃い怨嗟が浮かんでいる。お前など。口が動く。
曇り空の下で、服を剥がれる。首を絞められる。身体を拓かれる。声は出ない。愉悦と退屈が混ざったような目に見下ろされる。
助けて。誰か助けて。
『前の持ち主とは、趣味が合いそうだ』
暗く湿った部屋だった。
緑がかった照明が、中央のベッドを照らしていた。
ベッドの傍の机には、小さな銀色の器具がずらりと並んでいて、あの人はそこからメスを手に取った。
『美しいものほど、穢したくなるものだよ』
それから。
それから。
──肩から先の、感覚がない。
◇
「……っ!」
目を開けると、高い天井が見えた。落ち着いた色で塗装されたそこからは、繊細な細工のシャンデリアがぶら下がっている。
此処は、何処だ。
荒い息を吐きながら、気だるい体を起こすと、広いエントランスが見えた。床には赤い絨毯。すぐ側の扉には豪華な意匠が彫られている。
見慣れた場所を認識して、強ばった身体から力が抜ける。汗をかいたせいか、どことなく気持ちが悪い。
夢、だ。
自覚した途端、深く息をついた。まだ、心臓が早鐘を打っている。
恐怖の感情だけが色濃く残って居るものの、肝心の内容は思い出せなかった。
睡眠は嫌いだ。
寝ている間は無防備で、私は夢の中で、昔のように感情を表出させる事がある。そうなると、いつも起きた時が辛くなる。
目覚めた直後は、奴隷になりたての頃のように、朝が来ることに怯える子供に戻っている。
両手を胸に押し付けて、恐怖の残滓を押し込めるように、両手に力を込めた。
目を閉じる。暗く閉ざされた視界で、深く息を吸い込む。
早く、感情など、消えて無くなってしまえ。
そうすれば、もう自分の心に左右されることは無い。
今よりもっと、楽に息が出来るはずなのだから。
「あれ、起きた?」
予期しなかった声が聞こえてきて、咄嗟に目を開ける。肩越しに声の方向に振り向くと、ここ最近で見慣れた少年が、目を丸くして立っていた。
「あ……」
突然の登場に、思わず身体が固まる。声が喉につっかえた様に出てこない。
アルテは一瞬目を眇めると、自らの手元に視線を落とした。その視線を辿ると、どこから持ってきたのか、そこには毛布が握られている。
少し考えるように無言だったアルテは、結局毛布を広げると、私の肩にそれを掛けた。
「こんなところで倒れてるから、どうしようかと思った」
こんな、ところ。
この城の玄関口。広いエントランス。私がいるところは、外へと続く大扉の前だった。
もっともこの扉には鍵がかかっているから、ここから外に出ることは出来ない。
「どっか具合でも悪いの」
胸を抑える私の手元を見咎めたアルテは、膝を折って目線を合わせてくる。その視線の先に気づいて、私は胸から手を離した。
「い、え」
「本当に? 無理してんじゃないの。凄い汗だよ」
「大丈夫、です。あの、寝てただけなので」
「は?」
素直に答えると、アルテはぽかんと口を開けた。
「寝てた?」
「……はい」
「ここで?」
「はい」
「……なんで」
「夜になった、から?」
「いや、違うし。なんでこんなとこで寝てんの。普通にベッドで寝なよ」
思いもよらなかった言葉に、目を瞬かせる。
「私なんかが、勝手に主人のベッドを使うわけにはいかないので」
「馬鹿なの?」
突然自然にかけられた罵倒に、思わず固まった。
呆れ顔で見下ろしてくるアルテに悪意は無さそうだが、いきなりの暴言に、どう反応していいのかわからない。
「魔女は居ないんだろ? 居ないやつのこと気にしてどうすんの。てか何。寝床すらないってどういう扱い? 寝るなとでも言われてんの?」
「え、う、いえ、ただここに放り込まれただけで、そんな命令は受けてないです」
「じゃあ遠慮なく使えばいいじゃん。こんなに広いんだからベッドなんてたくさんあるでしょ」
「でも私なんかが、そんな資格は」
「じゃあ何、今までもそこら辺で寝てたの?」
「……はい」
アルテは大きくため息を吐いた。その様子に肩が跳ねる。
目を据わらせたアルテは、地を這うような低音で、ぼそりと呟いた。
「奴隷根性染み付いてんな……」
首を竦める。アルテの目に晒されているのが居心地悪くて、俯いて視線をさ迷わせた。
そもそも、どうしてアルテがここに居るのだろう。
最後に来てから、六日ほど日が空いただろうか。あの時に怒らせてしまった様だったから、もう来ないものだと思っていた。そう思って、安心していたのに。
アルテの顔を盗み見る。そこにいつもあった笑みは見えない。
やっぱり、怒っているのだろう。言葉遣いも前より荒い気がする。
でも、それならどうして、またここに来たのだろうか。
「あなたは私に、怒っていたのではないのですか」
「怒ってるよ」
恐る恐るかけた言葉に、すぐに答えが返ってくる。
その答えは予想通りだったが、次に続く言葉は、予期しないものだった。
「だからもう、君に遠慮するのはやめた」
え、と短く声を漏らす。
「それは、どういう」
「君が何を思ってどう行動した所でどうでもいい。知ったことじゃない。俺は俺のやりたいようにやらせてもらう」
やりたいように。内心で言葉を反芻して首を傾げた。
今までも十分勝手に行動していたような気がするのだけど、気のせいだろうか。
そう思った矢先のことだった。
突然、アルテの腕が伸びてきて、驚きに固まる。
そうしているうちに、不意に掛けられていた毛布ごと、抱き寄せられた。
「……軽」
呟きが彼の口から漏れる。
その声が、酷く近い。
足が浮いている。身体が地に着いていない。
抱き上げられている。
そう認識するのに数秒かかった。
「あ、の」
アルテ。
呼びかけようとして口を噤む。
私は、誰かの名前を口にするべきではない。
名前は願いであり呪いだ。その人を構成する要素だ。物風情が、軽々しく呼んでいいものではない。
身体を強ばらせたまま、アルテの腕に揺られて、自分ではない足によって前に進む。
不安定な体制が所在無い。
どこに向かって居るのだろう。
この行為に、なんの意図があるのだろう。