◆仮面の下の本心
イースト区は他区に比べて著しく治安が悪い。
軽犯罪程度なら日常茶飯事のこの場所は、半ば以上無法地帯と化しているせいか、警備隊の動きが鈍い。余程の大事件が起きない限りは、その重い腰を上げようとはしない。
それ故に、何かと対応が後手に回る傾向にある。
特にイーストエンドはその最たるものだ。
不衛生な環境や、不潔な人間が多い点にはこの際目を瞑ろう。
探せばマシな人間はいくらでもいる。
そうじゃない人間の方が、圧倒的に多いが。
慣れた道順を通り、寂れた廃墟の一つへと足を踏み入れる。崩れかけた石階段を上へ上へと登っていけば、見晴らしのいい屋上へと行き着く。
壊れて無くなった屋上への扉を潜ると、そこに見慣れた背中を見つけた。
「ジェイド」
声をかけた途端に振り返った金色の目には、剣呑な光が宿っている。
羽織った外套のポケットから出した褐色の手には、既にナイフが握られていた。
「待て、ストップ。俺だよ」
「……お前か」
たまらずホールドアップした俺を見てから、ジェイドはナイフを戻した。危ない危ない。こいつのこれは反射のようなものだ。いちいち相手が誰かを気にしている訳じゃない。
だから仕掛けた相手の判別が遅れると、勢いを殺せずそのままブスリといくことも珍しくない。実際今までにも何度か刺されかけた。
「毎度言うが、気配殺して背後に立つな。敵襲かと思うだろ」
「いや、癖でつい」
「知るか。余計な労力使わせんなよ。次は刺すぞ」
「わー、横暴。つーか次があるの優しいな」
「……死にたいらしいな」
「いや、うそうそ。本気にすんなって軽い冗句だろおい待て危なっ!」
眉間に深い皺を刻んだかと思えば、ジェイドは手首を翻した。
それはもう見事な早業だった。
その手元に銀色の煌めきが見えた瞬間、考える前に右に一歩ズレる。その瞬間横を通り抜けた風に、冷や汗が垂れた。
甲高い音につられて恐る恐る背後を見ると、屋上への階段のあった扉の横に、小さなナイフが落ちていた。
まじかよ。
「おっま、危ねぇだろ死んだらどうする!」
「よく生きてたな、褒めてやる」
「ふざけんなよ!」
「ふざけてんのはお前だろ」
「………………、たしかに」
「そこ納得すんのかよ」
ジェイドは呆れ顔をした。その顔を見てはっとする。いや、いくらなんでもこれはやりすぎだろ。何納得してんだ俺。
だが、一度納得する素振りを見せた以上、その感情のやり場が見当たらない。掘り返すのも負けな気がして小さく唸る。
いや、待て落ち着け俺。別に喧嘩しに来た訳ではないんだ。
それに、こいつの性格知っててからかったのは俺の方だし。
よし落ち着け。俺は大人。こいつは子供。すぐ手が出る短気な子供。むしろベイビー。
脳内でよちよち歩きのジェイドを想像して、ふぅと息をつく。
なんだか少し溜飲が下がった。
「で? なんの用だよ」
とんできた質問に投げやりに返す。
「冷たいな、用がなきゃ友人に会いに来ちゃ行けないのか」
それにジェイドは心底嫌そうな顔をした。
「友人? 腐れ縁の間違いだろ。お前と友情ごっこなんざした覚えがねぇ」
「まぁ否定はしない。てか実際今のは自分で言ってて薄ら寒くなった」
「お前のくだらない御託なんぞどうでもいい。単刀直入に言え。何か聞きたいことあって来たんだろ」
返答に詰まる。
目の前の鋭い目を凝視しながら、思わず数度瞬きをした。
「え、何でわかんの」
まだ何も言っていないのに。
「顔に書いてある」
「うそ。やだなぁ、俺ってそんなにわかりやすい?」
「分かりにくい」
「わかっ──」
りにくいのかよ。なんだそれ。
唐突にぶった斬られた流れに思わず閉口。
二の句が告げずにいると、ジェイドはお構い無しに俺への批評を口にした。
「いっつもへらへらしてやがるし、口を開けば軽口しか出ねぇ。嘘はつくわ誤魔化しはするわ、隠し事はするわで、言ってること全部本心か建前か分かりゃしねぇ。素直じゃねぇし顔は取り繕う。クッソ分かりにくい奴だよお前は」
「……悪口がとどまることを知らない」
「事実だろ」
「淡々と言うなよ。割と傷ついてんだぞ」
「そんなタマかよ」
「おまえ俺をなんだと思ってんの」
「心臓に剛毛が生えた道化」
「例えすら辛辣」
はぁ、と息をついて首を振る。好き勝手言うよな、本当。
遠慮の概念をどこかに置き忘れて来たんじゃないか、こいつ。俺に遠慮をしているところなんて想像出来ないけど。
立って話をするのにも疲れてきて、ジェイドに断りもせず、勝手にその傍らに腰を下ろした。
損壊したこの廃墟の屋上に、景色を遮る無粋なものは一切ない。
気軽に縁から身を投げられるそのざまじゃ、座っていたって眼下の風景は良く見えた。
遠くに歓楽街を望む街並みは、上から見てもその有様がよくわかる。手前に来るほど明らかに寂れていくのは、その建物がボロボロになっているからだろう。
一度放棄された廃墟ばかりが並ぶ景色は、知らない人から見たらゴーストタウンにでも見えるのだろうか。
煤けて崩れた建物と埃っぽい空気。すっかり魂に馴染んでしまった、俺の故郷。
俺だって、別に。
こんな風になりたかったわけじゃないんだけど。
「……珍しく弱ってんな」
不意に、声が降ってきた。
傍らに立ったままのジェイドを、横目で見上げる。
「そう見えんの?」
「見える」
「俺は分かりにくいんだろ」
「顔に書いてあんだよ」
「……はは、なんだそれ」
分かりにくいのに書いてあるのか。ほんと、なんだそれ。
……参ったな。
いつも通りにしているつもりなんだけど。
でも、ノルには別になにも言われなかった。単に相手がこいつだからか。
腐れ縁であるこいつの。
息を吸う。汚れた空気を肺いっぱいに吸い込んで満たせば、今いる場所を実感できる。
そうすると、帰ってきたという感じがする。
やっぱり、俺も所詮はイーストエンドの住人だ。綺麗に飾られた蒼空の下より、剥き出しの汚い街の方が安心出来る。
友人と言えるほど好感も馴れ合いもないが、知り合いと切り捨てるには近すぎる。遠慮も容赦もないが、隣に居ると妙に落ち着く。
ジェイドは俺にとって、そんな存在だった。
思えば随分長い付き合いだ。物心着いた時には既に隣に居たかもしれない。それは言い過ぎだとしても、少なくとも出会った瞬間が思い出せない位には、昔から一緒に居る。
だから不本意ながら、俺はジェイドのことをよく知っている。
その性格も思考も弱点も、大切なものも苦手なものも、本人が気づいているかも怪しい癖さえも、全部。
それはこいつだって同じだろう。
ジェイドは俺のことをよく知っている。
その事を思い出すと、気が抜けた。
張り付いた笑みが解けて落ちる。
こいつと二人でいる時は気が楽だ。
何一つ、自分を取り繕わなくてもいいから。
「こんなの柄じゃないし、本当はおまえになんて頼りたくないし、滅茶苦茶嫌だし、不本意極まりないんだけど」
「前置き長ぇよ。さっさと言え」
「………ジェイド、あのさ」
言いかけて口篭る。本当は直接聞くつもりなんてなかった。
ただジェイドとたわいもない話をして、一息つければいいと思って足を運んだだけだ。
こんな悩み相談なんてのは柄じゃない。
「おまえ、俺が何考えてるか分かる?」
だけど、いいか、もう。
自分で考えてもわからないんだから。
ジェイドだったら、もしかしたら、代わりに俺をわかってくれるのかもしれない。
「……めんどくせぇ女みたいなこと言い出したな」
ジェイドはあからさまに顔を顰めた。
「そういうのいいから。早くイエスかノーで答えて」
「分かってたらわざわざ聞きゃしねぇよ」
「じゃあさ。おまえ、今自分が何を考えてるか、分かる?」
「? 当たり前だろ」
「……だよな」
乾いた笑いが口から出た。
「俺はさ、最近自分が何を考えてるのか、よく分からなくなってきたよ」
最近の俺はおかしい。
関わるべきではないと分かっているものに、自ら関わりに行っている。
「頭ではこうしようと思ってるのに、反対のことをしていたり。気づいたら変なことを口走っていたり。言い訳みたいに後から理由をつけて、それが正しい言動だったんだと思い込もうとしてるけど、その理由も根拠が薄いもんばっかりで。分からないんだよ。あの時どうしてそんなことをしたのか、今でもわからない」
自分のやっていることが、理解できない。
なのに身体は勝手に動くのだから、どうしようもない。
「自分のことなのに、他人の行動を見ているみたいだ」
分かりきっていた。
魔女の城になど関わるべきではない。
そこに居る得体の知れない少女になど、尚更。
だからおかしくなったのかもしれない。
俺はイーストエンドの出身だ。
法の届かないこの地区は、圧倒的な自由と引き換えに、ありとあらゆる悪意に塗れている。
生き抜く上で一番の脅威は、飢餓と病気だった。更にはガキだったから、ほんの些細なことでも死にかけた。
周りなんか頼れず、見える範囲の大人というものは性根が腐っていた。隠れてこそこそ生きるしか無かった。だから慎重さばかり磨かれて、それはいくらあっても足りなくて。
そんな世界が日常だった。
俺がスリや盗みが上手くならなかったら、きっと男娼にでもなって早々使い潰されていただろう。
盗品商の店主に告げた理由は嘘じゃない。
あの城にはお宝があるだろう。ティアは魔女は居ないと言った。それは多分本当だ。ティアと友達になった。盗み出すための勝算は低くはない。
リスクを取ってでも、盗み出す価値はある。
あの時点では、確かにそう思っていたはずだった。
でも、よくよく考えてみれば、相手は得体の知れない魔女なのだ。
もし少し前までの俺なら、迷わず避けていたはずだ。
命を張るほどのリスクをおかすほど、俺は無謀じゃないはずだった。
初めて出会ったあの時。森の古城と少女を見て、眉唾だと思っていた魔女の噂が薄く形を持った時に、二度と関わらないと決めるべきだった。
いつもなら、それで済ませたはずだ。「友達」なんて言わずに。他人であるうちに。
いや、百歩譲ってそれがいつも通りで、その後雨に降られて城に入った所までも、いつも通りだったとしても。
こんな、わけのわからない情を自覚した時に、見切りをつけられるはずだった。
あの時、俺はティアに苛ついていた。でも、それだけじゃなかった。違う何かも、確かにあった。
それが何か分からないから、関わりたくない。よく分からない情に振り回されるなんてごめんだ。
なら、関わらなければいい。
友達なんて言ってないで、さっさと終わりにすればいいだけ。それだけの、簡単な話だったのに。
今朝、城に行っても、何も盗む気になれなかった。
理由なんて分からない。だけど、何も盗めないのならもうあそこに行く必要は無い。
無い、はず、なのに。
もう、分からない。
過去の自分の思考ですら、どこまでが本当で、どこからが言い訳なのか。
分かっている。
もう、関わるべきじゃないことは。
……分かっているけど。
何故か無理やり捻り出した薄っぺらの理由を掲げて、そうすることが正しいのだと言い訳して、またあの城に、足が向きそうになる。