◇2
雨の中、外に留まっていれば濡れる。
体が濡れたままでは、次第に体温が奪われる。
そして、人によっては風邪をひく。
そんな当たり前の事実を思い出すのに数秒を要する程度には、頭の回転は鈍っていた。
……いや、違うか。
長らく自分とは縁遠い事実であったから、咄嗟に思いつかなかっただけだ。
そもそも、どうして私は今、こんなにも何かを考えているのだろう。
「この城って外観は酷いけど中は綺麗だよね。広いし。ティアが掃除してるの? いや、1人では無理か。魔女の城だし魔法かなんかでちゃちゃっとやってるのかな」
しっとりと濡れた髪をして辺りを見渡すアルテは、一人で喋り倒していた。そう言えば、どことなく声が弾んでいるような気もする。
「こんな時でもなければ、きっと城なんて一生入る機会なかったんだろうな。ねえティア、雨が上がるまでここ探検してていい? いいよね?」
「……駄目です」
「え、ケチ。いいじゃん。どうせ魔女は居ないんだろ?」
「居ないけど、駄目です」
「えー……。あ、壺がある。本当に金持ちの家には壺があるんだな。金持ちっていうか城か」
アルテが壺に手を伸ばす。
一瞬遅れて、どくりと、心臓が高鳴った。
「っ駄目」
気づけば、咄嗟に手を伸ばしていた。
掴んだ手首は温かくて、視界の端に目を丸くするアルテの横顔が映る。
でも、そんなことも気にならないほどに、頭の中では言葉が、記憶が回っていた。
無邪気に笑いながら、炎の中に佇むあの人。純真に呪詛を紡ぐあの人が。
見つかる。
根拠もないのに、妙な確信があった。
ここは魔女の城。
この中の物は、全て美しく残忍なあの人の持ち物。
「……死にたくないなら、無闇に触らないで」
絞り出した言葉は、奇妙に掠れていた。
呼吸が乱れている。心臓の音がする。それを自覚して、どうすればいいのか分からなくなる。
どうして、こんなに心が乱れているのか。
……心?
違う。
違う。錯覚だ。そんなものは持っていない。
要らない。必要ない。
「……了解」
もっと食い下がるかと持っていたアルテは、思いのほかあっさりと引き下がった。
それを聞いて、手から力が抜ける。いつの間にか詰めていた息が、ひとりでに抜けていく。
何故か再び力は入らず、直ぐには顔をあげられなかった。
「じゃあ、ちょっと話をしようよ。雨が止むのをただ待っているだけなのも退屈だし」
「……私は、何も話すことはありません」
「まあそう言わずに。俺もっとティアのこと知りたいんだけど」
「どうして」
「友達だから?」
思わず顔を上げると、アルテはこちらを見てにこりと笑った。
「友達はいらないと、言いました」
「うん、聞いた」
でも、と続けて悪びれなく言う。
「諦めたわけじゃないから。ティアが折れてくれるまで、引く気はないよ」
決して強く言っている訳でもないのに、その言葉からは確固たる意志を感じた。
アルテと言葉を交わしていると、心中が波立つ。
拒絶をしても、聞き入れようとしないのはどうして。
彼は何を考えて居るのだろう。
森の奥、魔女の城に居る得体の知れないものに、どうしてそこまでこだわるのか。
「この前聞いたこと、もう一度聞いてもいい?」
分からない。
どうして、私に構おうとするのか。
「君は、自分で望んでここに居るの? ここに居たいの?」
「……私の意思は問題では有りません」
「あるよ。大あり。俺が知りたいんだから」
「……どうして」
「……あー、これだと堂々巡りだね」
そう言うと、アルテは何かを考え込むかのように俯いた。
「いつまでも、ティアはここにいる訳では無いんだよね」
それは、問いかけと言うよりは独り言のようで、答えが欲しいという様子ではなく。ただ、自らの中で状況を整理しているかのような、そんな言い方をしていた。
「ある日ここに来ても、君はもう居なくなっているのかもしれない。会いたくなっても会えないのかもしれない。それがいつかは分からない。でも、君が君自身の意思を持たない限り、その時は前兆もなく訪れるんだろう。……それは、嫌だ。せめてその前兆だけでも知りたいっていうか、さ。だから」
探るように言葉を紡いでいたアルテは、ふとそこで口を噤んだ。少し眉根を寄せて、諦めたように息を吐く。
「ごめん、言葉が上手くまとまらない。とにかく、ティアの思っていることが知りたいんだ」
「……私は」
何かを言いかけて、口を噤む。
自分でも、その先に何を言いたかったのか、分からなかった。
私に意思はいらない。心もいらない。感情はいらない。
要らないのだ。
そんなものを抱えていても、何かが変わる訳でもない。望んだ結果が得られる訳でもない。
ただ諾々と主人の命令を受けるしか許されない身分で、そんなものがあったところで、ただ悪戯に苦しみを覚えるだけだと、もう知っている。
この境遇から逃れることが出来ないのなら、せめて苦しまずに居たかった。
だからずっと前に、心は捨てた。
それを再び欲しいとは思わない。
所詮私は、人の形をした物なのだから。
「どうして」
私は物でいい。物のままでいい。
私を人として、認識しないで欲しい。必要以上に興味を示さないで欲しかった。……それなのに、どうして。
「あなたは、そんなにも私に構おうとするの」
「……どうして、か」
初めて見る顔だった。
一瞬覗いたその表情に、見慣れた笑みの片鱗はなく、ただ困惑だけが色濃くあった。
「そんなの、俺にだって分かんないよ」
呟くように発せられたその言葉は、あるいは本当に独り言だったのかもしれない。
一瞬見えたその表情はすぐに塗り替えられて、アルテの顔にはまた笑みが浮かぶ。
「どうして、どうしてって、ティアはそればっかりだね」
「……、いけませんか」
「ねえティア、まだ自分が物だって思ってるの」
口を引き結ぶ。そのまま黙っていると、アルテは続けて口を開いた。
「自覚してる? 物は意思も思考もないんだ。良くも悪くも、ただ受け入れることしか出来ない。持ち主がどんなに非道でも、乱暴に扱われても、壊されても文句も言えない。だから、『どうして』なんて言葉、物からは出るはずがない」
真っ直ぐな視線に射抜かれて、息が詰まる。この間と同じ言葉が、どうしようもなく私を揺さぶる。
「君は人だろ、ティア」
「やめて」
耳を塞いでしまいたかった。
これ以上、『私』を掻き乱さないで。
分かっている。そんなことは、言われるまでもなく分かっている。
それでも、私は物なのだ。
物と思っていたかったのだ。
何があっても、どんな扱いを受けても、何にも心動かすことがないように。
「……私は物です。人であったことなんて、ない」
人が自由に物事を考え、行動出来るものならば、私の存在は、常にその下位にある。
この世に生を受けてから、私の所有権は、いつも私以外の誰かが握っている。
私はいつも誰かの物だ。
私が私のものであったことは、ない。
「そう、分かった」
やけに静かな声だった。
私を見るアルテの目は真っ直ぐで、でも口元に笑みはもうない。
纏う雰囲気がどこか違っているような気がした。今まで見せていた明るいものは、なりを潜めている。
「ティアは望んでここに居る訳じゃない。そんな問題以前に、選択する自由もないこの状況を受け入れているってことだね? 何されても抵抗せず、何を命じられても黙って従う、そんな意志なき物でいるのを望んでいるんだね?」
ひとつ呼吸を置いて、吐き捨てるように言う。
「そんなに奴隷でいたいのかよ」
怒っているのかもしれない。漠然とそう思った。
けれど、どうしてアルテが怒るのか分からない。だから間違いかもしれない。
「そんなに自分が物だって言い張るんなら」
不意に、アルテが距離を詰めてきた。腕を掴まれて、それに反応する間もなく、ぐいと引かれる。
「俺が君をここから盗み出したら、魔女じゃなく俺を新しい主と認識して、黙って着いてきてくれんの」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
思考が白く塗りつぶされたまま、呆然とアルテを見上げる。交差した視線は、今までの彼とは別人のように強いものだった。
それはそれ程長い時間ではなかった。ほんの数秒でしかなかったのかもしれない。
アルテの力が抜ける。その顔に見慣れた笑みを張りつけて、アルテは私から目をそらす。
「……冗談だよ」
その声音は、どこか乾いているような気がした。