◇人と物の狭間
静寂で充ちた夜のイーストエンドは、犯罪者にとって格好の狩場だ。
崩れた住居やバラックが乱立するこの区画は道が狭く、薄暗い路地が無数に存在する。通りに申し訳程度に並ぶ街灯は、随分前からその機能を果たしてはいない。夜を照らすのは、ただ月の光だけだった。
今、細い路地の一つから、くぐもった悲鳴が上がり、消えた。
切り取られた空から差し込む月光は僅かなものだった。
支えていた身体は一気に重さを増し、この手をすり抜けて地に倒れる。
それはもう動かない。
弛緩した身体に意思はない。
これは最早生き物ではなく、単なる肉の塊と成り果てた。
見開かれたこの瞳も、時を経る毎に濁っていくのだろう。
酷く喉が渇いていた。
手の甲に液体が飛んでいるのを見つけて、少し掲げる。月明かりに照らされたのは、深紅の飛沫。その跡に愛おしげに舌を這わせ、ほう、と恍惚の吐息を漏らす。
でも、足りない。
地に膝をつく。そこに転がる肉塊を慈しむように撫でてから、かつて首だった部位の、頸動脈から流れ出す雫に唇を寄せた。
ああ、まだだ。
足りない。こんなものじゃ満たされない。
もっと。
もっともっともっと。
欲しい。
欲しい。
舌先が痺れるようなあの甘さ。
脳髄が震えるようなあの快楽を。
◇
分からない。
どうして私なんかに構おうとするのだろう。
窓から覗く空は濁っていた。今にも降り出しそうなその空を見やった時、その下に先日と同じ人影を見かけた。
ここから見えるということは、あそこは既に敷地内だ。
正面の門には頑強な鍵が取り付けられており、この城を囲う塀は登るには高すぎる。毎度毎度、彼は何処からここへ入り込んでいるのだろう。
彼は忙しなく周囲を見回し、何かを探しているようだった。先日ここに来た時に、何かを落としでもしたのだろうか。それにしては足元をあまり見ていないような気もするけれど。
彼は、……彼の名は、なんだっただろうか。
しばし記憶を反芻する。普段気にもかけない過去を引き出すのには、思いのほか時間がかかった。やっと思い当たった彼の言葉を思い出し、小さく口の端に乗せる。
「……アルテ」
陽気で、気さくな少年だ。この場所にはそぐわない程に。
少しの間、その姿を見ていた。何を考えるでも感じるでもなく、ただ風景の一部を見るように、ぼんやりと。
その時ふと、アルテの顔がこちらを向いて、窓越しに目が合った。
一瞬目を見開いたアルテは、直ぐに破顔し近づいてくる。
「やぁ、ティア」
曇り空の下にあっても、彼の表情は先日と同じく明るかった。
「……、探し物ですか」
「え? なんで?」
「……何か、探しているようだったから」
「え、なんだ見てたの? いや、探し物って程でもないんだけど……いや、合ってるのか?」
首を傾げながらのアルテの返事は、やけに歯切れが悪い。その事に少し引っ掛かりを覚えるも、すぐに考えるのを止めた。
考えたところで仕方がない。
何かあったところで、所詮私には、何が出来るわけでもないのだから。
「何をお探しですか」
声をかけると、アルテは目を見開いた。
「もしかして……手伝ってくれる、とか?」
「はい。見つかったら帰ってください」
「あー、なるほど。早く帰って欲しいから手伝ってくれるわけか」
それ以外に何があるというのだろう。
小さく頷くと、アルテは頬を掻きながらうっすらと笑む。けれど、その笑顔は、先程とはどこか違うもので。
この笑顔は、なんというものだっただろうか。
ぼんやりと霞んだ思考を巡らせて、小さな疑問の答えを探す。程なくして出た答えは、実にたわいもないものだった。
苦笑。
アルテは苦笑しているのだ。それが何故なのかまでは分からないけれど。
「いや、有難いけどいいよ。別に大した物じゃないし。それに」
そこで言葉を区切ると、アルテはちらと視線をそらした。その先を辿ってみると、頭上の曇天に行き着く。
……空?
「ティアには悪いけど、俺、まだ帰りたくないし」
そう言いきったアルテに、一瞬言葉を失った。
口を開きかけて、形にする言葉を持たないまま、口を閉じることを数度繰りかえす。
あまりに屈託なく言い切るものだから、それが正しいことであると、錯覚してしまう。
でも、そうだ。駄目だ。
追い返さないといけないのだ。
「あ、やっぱり降ってきた」
再び口を開きかけた時、アルテは空を仰いでそう零した。それにつられて空を見上げる。
灰色の空からは、ぽつぽつと雨雫が落ちてきている。
「ねえティア、雨宿りしていきたいんだけど、いいよね?」
視線を戻すと、アルテは窓枠に凭れて頬杖を着いていた。
目が合うと、口の端を釣り上げて、どこか挑発的に笑う。
「それとも、この雨の中、ずぶ濡れになってでも帰れって言う?」