insane or innocent ◇5
「一緒に来る?」
上の階を指しながらケイシーさんに言われたのは、それからさらに二日経った頃だった。
ケイシーさんが来てから、医者は彼女にアルテのことを丸投げしている。曰く、「あっちの方が懐かれてるからオレはお役御免」らしい。そういいながらも、顔には心底だるいと書かれているのがわかった。
兄妹だと言うことを聞かされたが、あまり似ているようには見えない。歳も一回りほど違いそうだし、容姿にも共通点は少ない。何より雰囲気が正反対だ。
でも、よく見れば目元は似ているのかもしれない。医者の方は隈が目立つのでわかりづらいけれど。
「さっきアルちゃんにご飯あげてきたんだけど、今日は食べれてますかね」
階段を上がりながらぼやく、ケイシーさんの後ろに続く。ケイシーさんから医者への評価は、「人として手遅れ。超絶怠惰な不摂生野郎」だった。
結構な頻度で一方的に怒っているのを目にするが、かと思えば愚痴を言いながらご飯を作ってあげたりしている。仲がいいのか悪いのか、いまいちよくわからない。
ケイシーさんが扉を開けた瞬間、ぶわりと中から風が吹き込んで来るのを、肌で感じた。
部屋のカーテンが緩くはためいていた。窓が開いている。
外の雲行きが怪しいせいだろうか。循環する空気はやや冷たく、室内は肌寒かった。
アルテは片膝を抱えるようにしてベッドに座り、ただぼうっと窓の外を眺めていた。
扉が開いた一瞬だけこちらを見たものの、すぐに視線は窓の外へと戻る。目は合わなかった。私の身体のほとんどが、ケイシーさんに隠れるような位置だったからかもしれない。
ふと見上げれば、ケイシーさんが苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「なーアルちゃんや。いい加減にせんと、四肢ベッドに括り付けんぞ」
「……おとなしくしてんだろ」
数日ぶりに聞いたアルテの声は、少しだけ掠れている。
ケイシーさんは窓に近寄ると、やや乱暴な手つきでそこを閉めた。
「曇天なんに窓開けんな、寒いし身体に障る。雨降ってきたらどーするん。ぶり返すぞ」
「そんな病弱じゃねぇし」
「病人がどの口で言ってんだ……また窓から抜け出そうとか、企んでねーよな?」
窓を曲げた指の背で叩きながら、ケイシーさんは目をつり上げる。それを見てアルテは数度瞬いたあと、薄く笑った。
「さすがに、片手じゃ無理だって」
「本当にね。てか両手が無事でも窓から出ようとすんなよ。危ないから普通に下から行け」
やっぱりまだ、本調子ではないのかもしれない。
アルテの横顔には確かに笑みが浮かんでいるのに、元気がないというか、気だるげというか。
声にはどことなく覇気がなく、瞬きひとつとっても、動作がひどく緩やかだった。
「ったく、せっかく人が時間に余裕持たせてやったんに……」
それで、とケイシーさんが何かを言いかけて、ふと言葉が止まった。
アルテから目線をずらしたケイシーさんが、眉尻を下げる。その視線の先を追ってみると、ベッドサイドのテーブルの上に、トレーが置かれているのが見えた。
上に乗っているのは半分ほど中身の残った深皿と、手をつけた様子のない薬包だけ。
「お薬、無理だった?」
柔らかく問われた言葉に、アルテは少しだけ目を伏せる。
「後で飲むから」
「まぁ、時間経ちすぎなきゃいいですけど。いけそう?」
「ん……いける」
頷くアルテの声音が、やけに静かで。
なんだろう。うまく言えないけど、なんだか、少し。
床に落とされた眼差しに、妙に胸騒ぎがした。
「大丈夫……?」
私が声をかけると、一瞬室内が静まり返ったような気がした。
アルテの肩が少しだけ揺れる。
緩慢に巡らせた頭がこちらを向き、ここに来て初めて目が合う。少しの間を置いて、アルテはああ、と声を上げた。
「居たんだ?」
「……うん」
そんな気はしていたけれど、やはり気づいていなかったらしい。
この病室はあまり広くない。少し視線をずらすだけで、私の姿など簡単に目に入るはずだ。いや、位置からすれば、既に視界の隅にはいたのかもしれない。
それでも気づかないほど、いったい何を見て、考えていたのだろう。
どうしてあなたはそんなにも、外に焦がれているの。
「身体、つらい?」
「別に。大丈夫だよ、熱下がったし」
「でも」
こちらを向いたアルテの右頬には、相変わらずガーゼが張り付いている。そこ以外から伺える顔色は。
「まだ少し、顔赤いよ」
最後に見た時は、真っ青だった。
血色が戻ってきているから、良くはなっているのだろう。そうは言っても少し、赤みが強いような気がする。
アルテは自分の頬に手を押し当てると、少し間を置いて首を傾げた。
「こんなもんじゃない?」
不思議そうに言われて、言葉に詰まる。
そう、なのかな。
どうなんだろう。自信がない。
蒼白だった顔色が脳裏に焼き付いていて、いつもがどの程度だったのか、上手く思い出せない。
目の前のアルテを改めて見る。声は掠れているけれど、頭痛はもうないようで、先程から顔を顰める様子はない。意識も正常だ。声を掛ければ問題なく言葉が返ってくる。
確かに数日前と比べれば、格段に良くはなっているのだろうけど。
「……何?」
近寄ると、アルテが怪訝そうな顔をする。
『天邪鬼の嘘つき』
この前聞いた言葉が、脳裏を過ぎった。
確かめるだけだ。それだけなら、別にいいはず。
「え、ちょ近、ほんとなに」
手を伸ばすと、アルテは表情に困惑を浮かべた。
わずかにその身を引いたのは、きっと、私の手を避けようとしたのだろう。
だけど、そうはならなかった。正しくは、それで留まらなかった。
アルテの身体が後ろに下がったその瞬間、彼の顔から、さあっと血の気が引いていくのを見た。
「いっ──~~~!」
短く殺した悲鳴と共に、突然崩れ、沈む身体。
ベッドの上に仰向けに倒れ込む姿を見て、私はしばし呆然とした。
無意識だったのだろう、アルテが後ろ手に着いた、……着こうとした右手の力が、抜けたのだ。
掌を怪我している右手が。
「え、あっ、どうしよう、ごめんなさ、」
眉をひそめて息を詰める彼に、慌てて助け起こそうと身を乗り出す。その途中で気がついた。
……右腕、今ないんだった。
「っ、わ」
「……!」
すっかり失念していた事実にバランスが上手く取れず、軽い衝撃と共にアルテの上に倒れ込む。その直後、すぐ下から苦しげに咳き込む音が聞こえ、固まった。
完全に追い討ちのような形になってしまった。
「ごめんなさいっ」
かばっと頭をあげると、すぐ間近で、微かに水の膜が張った、アルテの瞳と目が合う。
その一瞬、わずかに彼の身体が強ばったような気がした。
覗き込んだダークグリーンの瞳が、その奥が、ほんの少しだけ揺れている。
それが、なんだか、すごく綺麗に見えて。気づけば、誘われるように手を伸ばしていた。
「やっぱりちょっと、熱あるよ」
「……」
額に押し当てた手に伝う体温は、少し高い。
ゆらりと揺れた瞳が少し長い瞬きに隠されて、次に瞼が開くと同時に、視線が横に逸らされる。
「………………そーですね」
長い沈黙の後、不貞腐れたように言い捨てたアルテは、額に当てた私の手ごとそっぽを向いた。
思ってもいなかった反応に、思わず瞬く。
認めた。
「っふ、あっははははは! ヤバっ、最ッ高! っはははは! っ、げほ、ッごほ」
突然背後でおこったケイシーさんの爆笑に、思わず肩が跳ねる。
なに。どうしたんだろう。どこか笑うところ、あっただろうか。首を傾げていると、それを聞いたアルテが顔を顰めているのに気が付いた。
ケイシーさんが笑いすぎて咳き込んでいる音が聞こえてくるたび、下にいるアルテの眉間に皺が寄り、口元がへの字に曲がっていく。
「……満足ですか」
「あ、はい」
「そう。じゃあどいて」
言われるままに身体を起こそうとして、ハッとした。
どこに手を着いたらいいのだろう。
というより、そもそも完全にアルテに乗り上げている体勢のため、下手に身体に力を入れるだけで負担をかけそうだ。
「あの、起きられません……」
目線をさ迷わせながら申告すると、素っ気なく返された。
「じゃあ最初からやるなよ」
返す言葉がない。
「ふふっ、はー、仮にも病人なんだから、もうちょい加減してやんなね」
笑みを含んだ声が、すぐ後ろからしたかと思えば、不意にお腹の辺りに圧がかかり、私の上体が浮き上がる。
驚いて肩越しに振り返れば、私を抱き起こすケイシーさんと目が合った。
「ありがとうございます?」
「いーえ。……ってかティアちゃん軽すぎん? 大丈夫? 生きてる?」
「生きてます」
「いや、マジで疑ったわけじゃないですけど。まーご飯ちゃんと食べなね」
言いながらケイシーさんは私を下ろすと、さて、とアルテの方に向き直る。
肘を着いて器用に身体を起こしていたアルテは、視線に晒されて嫌そうな顔をした。
「そんでアルちゃんもさー、女の子に押し倒されたんだから、ちょっとは嬉しそうにしたら?」
「……は? この状況で?」
「いや関係ないだろ男の子。もっと動じろよ。照れろよ、つまらんな」
「うっせぇ、見せもんじゃねぇよばーか」
ムスッとしながら悪態をつくアルテに対して、ケイシーさんはとてもにこやかだ。
「おーおーへそ曲げてんなよ、かわいーな」
「るせぇ茶化すな鬱陶しい」
「にしても天然強いな。最強か。さすがにどうしていいかわからんかった?」
「だからしつっこい絡んでくんな、寝るから出てけよ!」
忌々しそうに顔を歪めながら、アルテがケイシーさんを睨みつける。どうやら本格的に怒らせてしまったらしい。
どうしよう、そんなに痛かっただろうか。思いながら先程のことを振り返って納得する。あれは確かに、痛そうだった。怒っても仕方ない。本当に申し訳ない。
「はは、なんだ超元気じゃん」
「ごめんなさい、あの、大丈夫? 手痛い?」
恐る恐る尋ねる。アルテはケイシーさんを睨みつけながら、別に平気、と返事をした。
全く平気そうではない。どうしよう。
「じゃーアルちゃん元気になったし、あたしは一足先に退散しますね」
なんか刺されそ、怖、と言いながら全く思ってなさそうな笑みを浮かべて、ケイシーさんはテーブルから深皿だけを回収する。
そのまま扉に手をかけながら、一度だけ振り返った。
「あ、お薬無理だったらいいよ」
「飲むっつってんだろ」
「じゃ、おやすみ」
ひらひらと振られた手が引っ込み、代わりに扉がパタンと閉まった。