insane or innocent ◇3
良かったのだろうか。
ぼうと目の前の景色を見ながら、頭の隅に引っかかるものがあった。
円形に開けた広場では、多くの人々が行き交っている。中央に鎮座する大きな噴水が水を吹き上げ、端ではたくさんの露店たちが連なっていた。
飛び交う声は活気に満ちていて、周囲は一段と賑やかだ。
こうして見ると、普通の街だな。
ずっと昔に見た景色と、どこか通じるものがある気がする。もっとも、私が育った町はここより断然小さかったけれど。
それでも今までに通ってきた場所とは、明らかに一線を画していた。
あの、薄暗く殺伐とした空気とは。
「これでいいだろ」
聞こえた声に顔を上げると、ジェイドが渋面を浮かべているのが見えた。
彼の名は直接聞いた訳ではない。ここに来るより前に寄った場所で、人に名乗ったのを耳にしただけだ。
直接名乗りたくないほどに嫌われているのなら、私はやはり、その名を呼ばない方が良いのだろうとは思うけど。
「中央広場だ。ここと西の道に露店が出てる。出来合い食うんならここが一番楽」
そう言われて示された視線を辿ると、確かに一方向に露店が伸びているのが見えた。辺りにはいい匂いが漂っていて、忘れていた空腹感が再び顔を出してくる。
だけど。
「いい、のかな」
少し前の出来事を思い出し、声が漏れる。
「何がだ」
「……私も、早く戻った方がいいんじゃないでしょうか。こんな所で一人呑気にご飯なんて、」
「お前が行っても邪魔なだけだ。大人しく時間潰してろ」
ぞんざいに言い放つジェイドの言がもっともで、返す言葉が見当たらない。なのに開き直ることも出来ず、ただ焦燥感だけが胸の奥で燻っていた。
脳裏に蘇るのは、今よりも前の情景。
廃墟の街並みを抜けてしばらく。退廃の余韻がすっかり消えた、静かな住宅街の一角。
寄るところがある。そう言って集合住宅の一つに立ち寄った彼は、その扉を叩いたのだった。
それがここに来る、少し前のこと。
◇
『ケイシー』
扉越しの呼び掛けに反応が返るまでには、思ったよりも間が空いた。
少しして出てきたのは、二十代くらいの女性だった。
赤錆色の髪は短く、同色の目はつり目がち。背は私よりも高く、切れ長の眼差しは一見冷たそうな印象を受ける。こちらを伺う視線にはどことなく不審感が混ざっていて、だからこそ尚更そう見えたのかもしれない。
ケイシーと呼ばれた女性は手を扉にかけたまま、前に立っている彼を見ると、数秒置いて首を傾げた。
『……どちら様でしたっけ?』
『ジェイド』
訝しむ視線を気にもとめず、彼はぞんざいに言い捨てる。その言葉を聞いて、私は初めて彼の名前を知ったのだ。
だけどそれよりも、目の前の変化の方が劇的だった。
ケイシーさんは少し目を見開くと、彼──ジェイドをしげしげと見やる。その後浮かべた表情は、一瞬にして印象の冷たさを霧散させた、朗らかな笑みだ。
しばらく見てないから分からなかった、と言うケイシーさんは、よく笑う人だった。
話し方はあけすけで、表情は話す内容で忙しなく変わる。元からアルテやジェイドと知り合いであるらしく、私の知らない話題を挟みながら、端々にアルテの名が混ざる。
『診療所に女は居たか』と、少し前に言っていた言葉は、おそらく彼女を指していたのだろう。
このタイミングで会いに行くには、話の共通点が多すぎたから。
私の認識は間違ってはいないらしく、ジェイドは簡単にアルテのことを説明した後で、だから呼びに来た、と告げた。
ケイシーさんは一度ぽかんとしてから、確認のようにいくつか質問をすると、やがてそれを承諾した。やれやれとでも言いたげな、大して珍しくもないというような仕草で。
少し前のジェイドの話しぶりを思い出し、彼女がいれば大丈夫ということだろうかと、少しだけ安心したのだけれど。
『えっ嘘』
意図せず零した私の言葉に返ってきたのは、予想外の動揺だった。
驚かせるようなことを言ったつもりはなかった。ただ、彼女に私がここに居る理由、外に出てきた理由を。
アルテに『人が居るとまともに寝れない』と言われたことを、口にしただけだったのだけど。
それを聞いて少し考え込んだケイシーさんは、それまでのんびりとしていた支度を早めた。
『ティアちゃんご飯食べてないでしょ? 食べてからゆっくりおいで。あたしはすまん、ちょっと先行ってる』
一体どうしたのだろう。
不安に駆られながら理由を問うと、ケイシーさんは苦笑する。
あの子たぶん、そろそろ限界だから、と。
◇
あの後、ジェイドの後について行って、この広場に辿り着いた。初めに頼み込んだ通り、食べ物がある場所に。だけど、いざ着いてみたら別のことが気になって仕方がない。
ケイシーさんが去り際に残した一言が、いつまでも頭の中を回っている。
アルテは、大丈夫だろうか。
「あとは勝手にしてろ。案内してやったんだから文句ねぇだろ」
かけられた声に我に返る。その方向を見ると、今まで先導していたジェイドが、引き返そうとしているところだった。
その行動が予想外で、反応するのが少し遅れる。
勝手に一緒に行くものだと思っていたのだけど、違うのだろうか。
「あの、あなたはこの後、アルテのところ行かないんですか?」
「ぜってぇ行かねぇ」
即答だった。
眉間に皺を寄せて目を眇めるその表情は、不機嫌さが滲み出ている。
「俺は子守り役じゃねぇ。代わり一人寄越してやったんだからもういいだろ」
「……心配じゃないんですか?」
ケイシーさんは動揺していたのに、ジェイドはあまり態度が変わらない。不思議に思い尋ねた問にも、特に表情を変えないまま言い切った。
「あいつに限っちゃ、心配するだけ無駄だ」
それは、どういう意味だろう。
「でも、あの」
正直に言うと、帰られると困る。私はこの街のことを知らない。アルテのいる診療所が何処かも正確に把握してなくて、一人だと帰路につけるかすら怪しい。
けれど一瞬口ごもったのは、私の事情など彼には瑣末なことだと、わかっていたからだ。
彼が私に合わせる義理なんて、一片たりともありはしない。
「……ごめんなさい。帰り道だけ教えてください」
悩んだ末に最低限を請うと、訝しげな顔をされた。
「は? 別にこっからなら楽に、」
何かを言いかけたジェイドの言葉が、途中で止まる。考えるように眉間に刻まれる皺が深くなり、少しして何かに気がついたように、ひくりとその口の端が引きつった。
「嘘だろ」
「えっと、……私、この街の道も場所も建物も、よく分からなくて」
「マジかお前……」
ただの迷子じゃねぇのかよ。呟かれた言葉と明らかに呆れと思われるその表情に、なんだか申し訳なくなってくる。さっきからこんなことばかりだ。
「まるっきり知らないってこたねぇだろ。今までどこに住んでたんだよ」
「森に」
「……お前と話してると頭痛くなってくる」
「ごめんなさい」
反射的に謝ると、深いため息が落とされた。
「そんなんでよく出歩こうと思ったな」
「……とっさだったから」
そんなことまでいちいち気にしてられなかった。
だって、本当に具合が悪そうだった。
焦点の合わない視線も、血の気のない肌も、今にも倒れてしまいそうで。……一度目覚めたはずなのに、まだ死がちらついているようで。
だから、アルテの希望通りにして良くなるのなら、そうしてあげたくて。
私は、間違えたのだろうか。
ケイシーさんはそろそろ限界と言っていた。
どうすればよかった? あのまま一人にしておいて、本当に良かったの?
離れている間に、取り返しのつかないことになっていたりしない?
「あの、やっぱり私、すぐ戻ります」
心がはやる。何の役にも立たないことはわかっていた。
それでも、じっとしていられない。
「お前、俺が言ったこともう忘れたのかよ」
「邪魔には、ならないから」
「……俺は子守り役でも案内人でもねぇぞ」
渋面のままに言われ、言葉に詰まる。
そう、だよね。
「どうせ飯食ってないから、まともに頭回ってねぇんだろ」
「……」
「これ以上お前の間抜けな言動に付き合わされんのはまっぴらだ」
その通りだ。
思えば、ずいぶんと振り回している気がする。
どの道今一緒に行動しているのは、ジェイドの気まぐれのおかげだった。彼は元から私を嫌っている。その上これまでに迷惑かけて謝ってばかりだから、いい加減嫌になったのかもしれない。
ここまで連れてきて貰ったことに感謝こそすれ、責める筋合いはない。
「……わかりました」
ここから、どうすればいいだろう。私一人で戻れる気がしない。
ジェイドはさっき、この広場からなら楽に行けると言いかけた、のだと思う。なら、周りにいる誰かに聞いてみようか。
取り合ってくれるだろうか。
顔の火傷のせいでフードも脱げない、明らかに怪しい風貌の私に。
「わかったら早く腹ごしらえして頭回してこい。それまでここにいてやるから」
「え」
完全に諦めていたのに、予期していなかった言葉に思考が止まった。驚いて顔を上げると、こちらを見下ろすジェイドと目が合う。
いい、のだろうか。
一瞬私を見て眉間に皺を寄せたジェイドは、少ししてはっとした顔をした。
「……まさか金もねぇとか言わねぇよな」
「あ、えっと、あります」
「じゃさっさと行けよ」
追い払うように手を振られて、慌てて足を踏み出す。
「あの、ありがとうございます」
離れる前に頭を下げると、ジェイドは少し目を丸めた後、目を逸らした。
私が踵を返そうとした直前。それと、とジェイドが言葉を紡ぐ。
「本当に心配なら、あいつの前では極力表には出すなよ」
「……?」
「あいつ、」
そっぽを向いたその顔は、どことなく苦々しい面持ちをしていた。
「そういうの、一番嫌がるからな」