insane or innocent ◇2
蒼天の下の街並みは殺伐としていて、夜の静けさとは違って見える。
私はこの街を、よくは知らない。
外から前の主人に連れられて来て、その後はずっと森の古城に居た。時々訪れることはあっても、夜の間だけだった。血を求めていた、その間だけ。
ここがどの辺りにあるのか、どんな街なのか、街の名前はどうなのか、そういった基本的なことさえ、何一つ知らない。
それでも今いるこの場所が、いわゆる普通の住宅街では無いことは、さすがに分かっていた。
倒壊の目立つ廃墟の街並みは、一見して異様だ。
道には瓦礫が散乱し、見上げれば建物は大なり小なり壊れているものが多い。天井が崩れ壁がえぐれ、所々煤けている。深くヒビの入った箇所からは軋むような音がし、些細なきっかけで崩れ落ちて来そうな怖さがあった。
まるで、戦火の後かとでも言うような有様だ。
一体、どうすればこんな風になるのだろう。
ここが街の一区画にすぎないというのが更に疑問を煽る。壊れているのはこの区画だけなのだ。
かろうじて開けられた道の端を足早に歩くも、ひとけは少ない。しかし、全く居ない訳でもなかった。
こんな場所でも、人は住んでいるんだ。
よれた服装や暗い表情から、いい環境でないのは明らかだけど。
かき合わせたクロークの前を握りしめ、被ったフードの下で思案に暮れる。
市場って、どこに行けばあるんだろう。
そもそも道を知らないから、この先どこに通じているのかも分からない。こちらで合っているんだろうか。とりあえず、無難に一番広そうなところを通っているのだけど。
それとも、こういう所では横道の方が安全だったりするのだろうか。どう歩けばいいのか、いまいちよく分からない。
こんな広い場所を通っていると、むしろ目立って絡まれたりする?
近くの路地を覗き込む。道は暗いが、思っていたより狭くはない。瓦礫もそんなに落ちていないから、危険は低そう。
見た目は倒壊した建物が多いけど、元々は整備されていた街の一区画のはずだし、そこまで入り組んでは居ないはず。
少しだけ行ってみようか。
思いながら、路地の方へと足を向けた。
◇
結局、迷った。
瓦礫で行き止まりになった路地の果てで、肩を落とす。元々道は把握してないけど、自分が向かっている方向くらいは分かっていた。今はそれすら分からない。
進む道は所々瓦礫で埋まっていて、そのたび無事な道へ方向を変えた。人影を見かければ隠れて、道を変えて、そんなことを繰り返している内に、方向感覚がおかしくなってしまった。
ここ、どの辺りなんだろう。
何度目か分からないことを思いながら、知らない暗い道を歩く。そのまま進んでいると、不意に路地を抜けて開けた場所に出た。
微かに、血と硝煙のにおいがした。
とっさに口元を手で覆う。心臓の鼓動が激しい。動揺を抑えこんで、慎重に息を吸って、吐く。
大丈夫。渇いてこない。確認してから、口元から手を離す。
血自体は一度、破棄される予定だった輸血用のものを貰った。あれでどれくらい持つのか、私にも分からない。でもとりあえず今は大丈夫だ。
フードでかろうじて身体に引っかかっていたクロークが脱げそうになって、慌てて前をかき合せる。
建物の合間にできた、小さな空き地だった。
向こう側に本来の道が見えるが、道幅はそう広くない。更に向こうの建物が高いせいか妙に圧迫感があり、一見四方を壁に囲まれているような錯覚を覚える。
初めに居た場所よりも、周囲の損壊は酷くないようで、この辺りはあまり瓦礫がない。というより、初めに居たところが一番酷かった。そこから離れる程に被害は小さくなり、比例して人の気配が増えているように感じた。
少し先の地面に、弾痕と血痕が見える。
血痕は地面に染み込んでいて、近づいて確認すると、既に乾いていた。直近のものでは無いようだ。辺りには人の気配がなく、ただ不穏な空気が残り香のように漂っている。
あまり良くない場所に出てしまったのかもしれない。
そう思い腰が引けていた時、唐突に向こう側の道から、小さな足音が聞こえた。
引き返そう。
焦って振り返った瞬間、足がもつれて、血の気が引いた。
地面に倒れた音は、やけに大きく響いた気がした。
打ちつけた箇所が痛む。その痛みをやり過ごすのもそこそこに、急いで起き上がろうとすると、思った箇所に力が入らず、バランスを崩して再び沈む。視線を巡らせた右腕は、だらりと垂れ下がった白骨が嵌っていた。
そうだ。右腕、無いんだった。
本来の腕を失ったのはだいぶ前とはいえ、ここしばらくは両腕があったから、とっさの動作には未だに慣れない。
何とか左腕だけで起き上がった時には、初め遠かった足音は、すぐ近くまで来ている。とはいえ、この空き地に隠れる場所はない。
どうしよう。
少し考えても一向に改善策は見当たらず、足音は近づいて来る。苦し紛れに隅によって身体を縮める。当然、そんなもので隠れられるわけはない。
それでも、足音の主が通り過ぎるだけなら、やり過ごせるかもしれない。
そう思ったものの、その人はこの場所にこそ用があるらしかった。
視線を感じた。
距離のある場所で足音が止み、しばらく沈黙が落ちる。でも私が動かずにいると、そのうち興味は失せたようで、再び足音が響く。よく居る浮浪者の一人と思ってくれたのかもしれない。
身じろぎさえするのを躊躇い、息を詰めて去るのを待つ。
深く被ったフードの下からちらりと見たその人は、何かを探して居るようだった。
警戒はしているのか、こちらに完全に背を向けている訳では無いので、私が動けば直ぐに気付かれるだろう。
ふと、背格好に既視感を覚えた気がして、目を凝らす。よくよく見ると、その顔は数日前に見た、知っているものだった。
「あ、の」
声をかけると、彼の視線がこちらへ向く。
初めは怪訝そうな目をしていた。それが私と合った途端、明確な敵意に歪む。
服から覗く飴色の肌と、金色の瞳が印象的だった。
眼光の鋭い三白眼にばかり目がいくが、乱れて少し黒髪のかかった左の目元には、よく見ると小さな泣きぼくろが乗っている。
「なんでいんだよ」
棘のある声が開口一番に掛けられる。あの時アルテと一緒に居た、アルテの知り合い。そこまで考えて、一向に出てこない名前に気づく。
私、この人の名前知らない。
どの道嫌われているだろうから、呼ぶことは出来ないけど。
「吸血鬼には昼夜関係ねぇのか。噂もあてになんねぇな、他も試してやろうか。心臓に杭でも打ち込むか? ないからナイフでもぶっ刺してやろうか」
言った後には、いつの間にかその手にはナイフがあった。
「お前にやるもんはなんもねぇよ。さっさと消えろ。じゃなきゃ消すぞ」
私に切っ先を向けながら、彼は剣呑に吐き捨てる。
正面から向けられた剥き出しの敵意に、とっさに反応できず固まる。
「う、……えと、違、そうじゃなくて、」
間違えたかな。声はかけないほうが良かったのかもしれない。
じわじわと後悔が湧いてくる。こちらへの拒絶は明らかで、弁明も謝罪も的外れな気がした。きっと、大人しく立ち去る方が賢明だろう。
それに、この場所も。弾痕と血痕の残る空き地に、偶然訪れた訳でもないだろう。何か関わりがあるのかもしれない。
でも、それにしては違和感がある気もする。
「あの、ここ、あなたが?」
少し迷ってから尋ねると、彼は一瞬眉を寄せた。ずれた視線が地面の有様に辿り着き、ああ、と納得したような声が上がる。
間を置いて、彼は皮肉げに口の端をあげた。
「そうだっつったら?」
「銃、持ってるんですか?」
持ってるなら、なんでナイフを脅しに使ってるんだろう。
思いながらその手元を凝視すると、それに気付いた彼は小さく舌を打つ。
「…………持ってねぇよ」
その言葉に首を傾げる。ということは、今のは嘘だろうか。
少なくとも主犯ではないだろう。
その事に安堵すると同時に、どうして声をかけたのかを思い出す。迷っていたから、道を聞きたかったんだった。
「あの。ここ、どこですか」
「なんでお前に教える義理が」
「困ってます」
「勝手に困ってろよ。それか他当たれ、適任いんだろ」
「でも、アルテが」
言いかけてどこから説明するか迷い、言葉に詰まる。不自然に切った言葉を訝しんだのか、彼はふと気づいたように周囲を見渡し、そういや居ねぇな、と呟いた。
「ってこた、今お前一人か」
「はい」
「で? 血を求めてふらふらと、こんな場所まで来たと」
「違、」
言いかけるも途中で説得力がないことに気がついた。実際この間はそうだった。あれから何日経っただろう。四日か五日?
また来たと思われても仕方ないのかもしれない。血の残り香もあるし。
未だ睨まれたままだし、このままだと堂々巡りになりそう。というより、見捨てられる方が先か。
そう気づいた瞬間、引き止めるように、思ったよりも大きい声が出ていた。
「あの、 市場ってどこに行けばありますか!」
「あ? 市?」
勢い込んで尋ねると、彼は一瞬目を丸くした。脈絡がなかったせいかもしれない。眼光が少し緩んだその隙に、畳み掛ける。
「アルテが今診療所に居るんですけど、熱出たまま治らないので、何か買っていけたらと!」
「熱だ?」
おうむ返しをしてから、つーかまだあそこに居んのかよ、と小さく呟くのが聞こえた。その言葉に少し引っ掛かりを覚える。
アルテを運んだのはこの人で、直ぐに居なくなったとはいえ、怪我の状態も血が足りてないのも知っているはずなのだけど。
なんだか、アルテが抜け出したがるのを知っているように聞こえる。
「はい。あんまり寝られてないみたいで、悪化して」
「……ほんっとにめんどくせぇな、あいつ」
苦々しげに言いながら、彼はため息をついた。
「ほっとけ、いつもの事だ。あいつはたまに熱出すと大抵拗らす」
「……いつも?」
「人が居ると寝ねぇし、居ねぇとまともに飯食わねぇからな……クソめんどくせぇ。飯食ってんならそのうち治る。そうそう構ってられっか。俺は世話係じゃねぇんだよ」
「あの、でもご飯、食べてないです」
言うと、彼は怪訝そうに眉根を寄せる。
「まだ診療所居んだろ?」
「居るんですけど、食べてないです。あと、薬も飲んでくれなくて」
「はぁ? んなわけ、」
不意に、彼はそこで口を噤んだ。
見ると、何かを考えるように視線が下にいっている。
「ひとつ聞く」
「はい」
「診療所に、女は居たか」
「……私?」
「ふざけんな、お前以外だ」
女。
思い返してみるも、あそこで医者以外には会わなかった。言わずもがな医者は男だ。
「いなかっ、た?」
「あんのヤブ医者……!」
恐る恐る言った途端、目が据わった。
「~~~~あークソッ! 揃いも揃ってめんどくせぇな畜生、自分のケツぐらい自分で拭きやがれ阿呆共が!」
隠しきれない怒りを湛えて吼える様に、肩が跳ねる。驚いた。
反応が追いつかずぼんやりとその様子を見ていると、不意に矛先が私に向いた。
「だいったいお前もお前だ何日経ったと思ってやがる! さっさと気づけよつーかあいつこそ気づけよ、鈍感も大概にしろ何仲良く自分の首絞めてんだ馬鹿か!」
「え、と」
「マジで付き合いきれねぇ。なんだあいつほんっと、学習しやがれクソが!」
「……ごめんなさい?」
勢いに押されて思わず謝る。けど、これ、誰に怒ってるんだろう。
「今まで気づかないとか有り得ねぇ。自分の飯食う時くらいに気づけよ、節穴」
「私も食べてないです」
「…………は!?」
何気なく返すと、予想外に驚かれた。その反応に逆に驚く。
この人、意外と感情豊かなのだろうか。場違いに思う。思ったより無関心ではない。
「なんで食わねぇんだよ」
「忘れてました」
「……腹すかねぇのか」
「空いてるみたいで、困ってます」
正直空腹感は一周してほとんど気にならないが、あまり頭が働かないのは実感している。
「最後に食ったのは?」
聞かれて目を瞬かせる。気にしてなかった。
思い返せば古城で何かを食べた記憶はない。ということは、最後に食べたのはここに来る前ということだ。それはつまり。
「数ヶ月前?」
「法螺なら切るぞ」
「ほら? …………あ、嘘じゃないです」
「ざけんなだったらその間どうやって生きて、」
「魔法?」
薄々思っていたことを口に乗せる。
それ以外に考えつかない。だから言ってみたのだが、変なものを見たとでも言うような表情で絶句された。
「あの?」
「……信っじらんねぇなんだお前、常識ねぇで済む範囲じゃねぇぞ。頭ん中お花畑かよ」
「頭に花は咲かないんじゃ?」
「もういい喋んな頭が痛くなる」
言われて口をつぐむ。そんなにおかしなことを言っただろうか。
……あ、比喩だ。
数秒遅れてから気がつく。やっぱり頭が回ってない。
彼は難しい顔をして押し黙っていた。それを言われたまま口を挟まず、じっと見る。
しばらくして深いため息をついた彼の顔には、疲労感や煩わしさや、色々なものがない交ぜになっているような印象を受けた。
「……分かった。着いて来い。案内する」
不本意そうに発せられたその言葉に、首を傾げる。どんな心境の変化だろう。
初めあった敵意は、綺麗にとは行かないまでも、ある程度消えていた。代わりに、なんとも言えない視線を向けられている。上手く当てはまる言葉が思い浮かばない。
とりあえずなんだか、凄く微妙そうな顔をされているのは分かる。
「はい」
よく分からないけど、彼の気が変わる前に大人しく着いていこう。
空き地を出る前に、今いる場所を思い出す。
結局、ここはなんなのだろう。
迷ったものの、どの道言いたくないなら言わないだろうと、聞くだけ聞いてみることにした。
「あの、ここは?」
彼は一瞬背後を見ると、極めて投げやりに言い放った。
「俺が知るか。殺し合いでもしたんだろ」
全然答えにはなっていないけれど、なんだか本当に、他人事のようだった。