我が愛しの化け物へ
真っ暗な空間にいた。
見渡す限りの闇が、どこまでも続いている。
音はない。
見下ろせば自分の身体だけが、淡く光っている。
夢なのだと思った。
最後に眠りに落ちたのを、ぼんやりと覚えている。
「魔法って、なんだと思う?」
不意に、後ろから声がした。
振り向くと、何も無い宙空に腰掛けるように、真っ赤な人が座っていた。
足を組み、何も無い場所に頬杖を着いて、目を眇めてこちらを見る。
「魔女っていっても、何もかもできるわけじゃないのよ。個人の素質によって、出来ることは決まっているの」
白くたおやかな腕が上げられ、立てた指先が私を捉える。
「あなたの呪いは消せない、消えない。私が死ぬまで、ずっとそのまま」
ねぇ、ブルネット。私を呼んだその口が、緩く弧を描いていく。
「私を殺したい?」
愉悦を含んで細まった瞳が、強い光を湛えている。
声をあげようと口を開く。でも、その口からは何も出なかった。声帯が震えない。喉の奥に力を込めても、何も。
喉を抑えて、目を伏せる。代わりに小さく首を振る。
「……つまらないのね」
彼女は笑みを引っ込めると、退屈そうにそっぽを向いた。
かつてその横顔に、私は恐怖以外の感情を抱けなかった。
炎に巻かれた古城で出会った、残忍と名高い畏怖の象徴。
生も死も投げ捨てて、何も無かった私の心を一番初めに動かしたのは、彼女への恐れだった。
ずっと、聞きたかったことがある。
あの日、あの炎のただ中で、私を生かしたその意図を。
喉を抑えながら、もう一度声を出そうと試みる。でも何度やっても無駄だった。喉からは息が漏れ出るばかりで、意味のある音は出てこない。
いや、関係ないか。この人は、心だって読めるのだから。
魔女様。心の中で呼びかける。
あなたはそんなに恐ろしいことを言うくせに、どうして私を救ってくれたの。
「どうだと思うの?」
私の心を拾い上げた彼女は、目線だけで流し見る。
言葉に詰まる。
何度考えてみても、私にはその答えを出せなかったから。
未だによく分からない。彼女の行動も、その理由も。彼女があの時否定をした同情くらいしか、私の発想では出てこない。
そう思った直後、彼女は淡々と否定の言葉を紡いだ。
「違うわ。同情なんてしていない。だって、そういった類の感情を、私はそもそも持っていないの。献身も慈愛も、同情も憐憫も、何も」
人は魔女に堕ちる際に、代償に感情を支払う。
いつか聞いた言葉が、頭をよぎる。
「私は、憎み壊すことしか知らないの。だから、私はあなたを救ってなんかいない。私に救えるわけがない。──いったい、何を勘違いしているのかしら」
空いていたはずの距離は、気づけばすぐ傍まで詰まっていた。
伸びてきた指が私の頤を掬い、そのまま顔を上向かされる。
「私があなたにあげたのは、呪いなのよ?」
口元に笑みを湛えた彼女の瞳の奥は、どこか悲しげで、ちぐはぐな印象を受けた。
無意識に動いた左手が、彼女の手にそっと添う。彼女の表情は変わらなかったものの、掌の表面から、僅かに強ばる気配が伝った。
「……興が削がれたわ。だからもう、あなたはいらない」
不意に表情が削げ落ちて、彼女は振り払うように私を放った。
予想外の動作に一瞬バランスを崩したその間に、私に背を向けて吐き捨てる。
「早くどこかへ行って。もう顔も見たくないわ」
遠ざかろうとする彼女の服の端に、反射的に縋り付く。
横目で向けられた視線の冷たさに、身体が強ばる。
「──私、は」
声が、出た。
「あなたが、怖くて」
カラカラに乾いた口内を潤すように、唾を飲み下す。
「一度は殺されかけて。そのまま死ぬのかと思ったら生かされて。放心している間に呪われるし、そのくせあなたは直ぐにどこかに行ってしまうし、何を考えているのか分からなかった。心の奥底まで見透かされているようなその目が、言葉が、ずっと怖くてたまらなかったんです。……だけど」
彼女が居なかったら、彼女に出会わなかったら、私はとっくに死んでいた。
あの古城へ行かなければ、私は今頃蝋で固められていただろう。
抜け出すことすら諦めた状況から、私を生かしてくれたのは彼女だった。
選択を迫ることで、意志を投げ出した『作品』から、『私』を引きずり出したのは彼女だった。
「いくらあなたが否定をしても、それでもあの日、私は、あなたに。魔女様に確かに救われたんです」
初めから恐怖は感じていても、憎んだことはなかった。感情に乏しい状態でも、わかっていたのだ。
今の私がいるのは、紛れもなく、彼女のおかげなのだと。
「ありがとうございました」
ずっと、ずっと言いたかった。
「あなたに会えて、本当に良かった」
顔を上げて微笑むと、彼女は僅かに目を見張った。
少し皺のよった服を離して、深く頭を下げる。
彼女は黙ったまま背を向けて、それ以上の言葉を発しなかった。
もっと早く、気づけば良かった。
出会ったあの日以降、危害を加えられたことは無い。古城内は常に暖かかった。無気力に茫洋と過ごしていても、病気にかかることも無く、脅威に晒されることも無かった。
あの古城は、揺りかごに似ていた。
私はいつでも守られていた。
もしかしたら、姿を表さなかったのも、怯える私を慮ったがためなのかもしれない。
そう考えるのは、さすがに都合がよすぎるだろうか。
何も無い暗闇の中、歩を進めていると、暗闇ばかりだった空間の一点に、不意に小さな白が浮び出る。
初め小指の先程の大きさだったそれはどんどん大きくなって、人の通れる程の白が、すぐ目の前に現れた。
黒の世界は彼女の空間。
私に干渉する術はない。
それが終わるということは、彼女が出口を用意したということ。それを彼女が望んだということ。
……だからもう、ここでお別れ。
踏み出すことを躊躇った足が、束の間止まる。
視線を落として、足元の黒と白の境界を、意味もなく眺める。
ふわり、と何かが香った気がした。
直後、後ろから手が伸びてくる。
肩の上から回された手が胸の前で組まれて、柔く引き寄せられた背中に、温かな体温が伝わる。
なんだか少し、目頭が熱くなった。
優しい、穏やかな声が、私の上に降ってくる。
「さようなら。可愛くて愛しい、私の化け物」
その声を聞きながら、彼女の手に左手を重ねる。唇を引き結び、その温度を感じて、目を閉じた。
さようなら。不器用で優しい、私の魔女様。
「あなたの未来に祝いあれ」
あの日、私を生かした古城の魔女は、そっと髪に口付けた。