◆熱病と創痕
緩やかに意識が浮上する。
遠くでくぐもった物音がする。
重い瞼を緩慢に上げれば、目の前に知らない天井があった。
視界に疑問を抱きながら瞬きを数度。何度繰り返しても、一向に目の前の景色は変わらない。
どこだ、ここ。
寝起きの頭はぼんやりと霞みがかっていて、いまいちうまく働かない。
身体にかかる微妙な圧迫感に気づいて視線を下ろせば、胸元まで引き上げられた薄い掛布が目に入る。そういえば横たわった場所も硬い地面ではなく、適度に弾力があるような。
いや、なんで寝てんだ、俺。
とりあえず起きようと、身じろぎして。
「────!!」
全身を駆け抜けた痛みに、ぴくりと肩が跳ねた。
「え、……はっ? な、」
動揺に小さく声が漏れる。なんだ、今の。
混乱する頭の中で、走った痛みに促されるように、バラバラだったピースがカチリと嵌る。
直前までの記憶を掘り起こし、噛み合った途端に、脱力。
「…………あー」
腑に落ちた。
でもやっぱり、状況は全く分からない。ていうかほんと、ここどこだよ。
掛布をはね上げて身体を起こす。
原因が分かってしまえば大した痛みじゃない。別に骨も折れてないし足もやられてない。あちこち切れてはいるが、大抵は避け損ねたかすり傷だし、言うほど深い訳じゃない。
でも何となく身体がだるく、暑い。
裸足のまま床を踏めば、ひんやりとした冷気が足裏から伝った。
狭くて殺風景な部屋。
中央に鎮座するベッドが大半を占め、他はベッド横にサイドテーブルがある程度。壁についた広めの窓から自然光が差し込み、かろうじて閉塞感を減らしてはいるが、それがなければ完全に独房だ。
服はいつの間にか変わっていた。
薄っぺらくてだぶだぶの布一枚が、妙に心許ない。
短い袖口から覗く両腕には、白く真新しい包帯が巻かれている。右手にだけ指先まで包帯が伸びていることを確認し、微かに覚えた違和感に、眉を寄せる。
右手の先が痺れている。長時間圧迫されて、一時的に血流が悪くなった時の感覚に似てる。指先が上手く動かない。
包帯きつく巻きすぎなんじゃないの。心中で愚痴を垂れながら窓に寄り、左手でレース地のカーテンを開けた。
部屋と格好に気づいてから、うっすらと嫌な予感はしていた。
過去数度しか通ったことの無い、遠目からなら幾度となく見た景色が、窓の外に広がっている。階上からの眺めは角度が変わり、微妙な違和感を訴えるが、間違いない。
予感が確信に変わり、眼差しが険を帯びるのを自覚する。
くそ、ジェイドめ。何でこんなとこに俺を置き去りにしやがった。
鍵を開けて窓を開け、吹き込む微風に目を眇める。運良く外に人は居ない。高さは二階程度だ。快晴のせいで見通しが良すぎるのが気になるが、この際仕方ない。
窓枠に手をかけ体重を乗せようとした。でも掌が窓枠に触れた途端、右手に耐え難い激痛が走って、喉の奥が詰まる。
全力で悲鳴を噛み殺し、悶絶していたところに、薄らと聞こえるドアノブが回る音。
首を回すと、普段やる気のなさそうな隈で縁取られた目に、僅かに驚きが混ざっていた。
「何してんだ、ガキ」
「……別に」
胡乱な目を向けられ、大人しく手を引っ込める。
舌打ちしたい気持ちを抑え、俺は何食わぬ顔でそっぽを向いた。
逃走失敗。退路は絶たれた。
「だりィな、仕事増やすなよ」
ずらされた視線がふと死んだように濁りきり、面倒くさそうに吐き捨てられる。
その視線を追って手元を見れば、未だ疼く掌の包帯に、じわりと血が滲んでいる。
「……」
「起きたんならちょうどいい、ついでに処置しとくか」
「待っ、自分でやるから寄るな動くなそこに居ろ入ってくんな!」
「病み上がりとは思えねェ程の威勢だな」
開いた扉に半身をもたれさせ、心底だるそうにあくびをひとつ。高い背を丸めた男は、半分閉じかけた目で顎をしゃくる。
「都合よく医者が居るのに自分でやるって? どうせ後で俺がやりなおす羽目になるんだよ、大人しく腕だせや」
「医者っつっても闇医者な、マッドに安心する間抜けがどこにいんだよ、いいから来んな、ヤブ」
睨み上げながら牽制すれば、ヤブはため息とともに肩を竦めた。
南区から道を数本挟んだ、東区の端っこ。比較的治安と景観がましな場所に紛れて佇む診療所。そこの主が目の前のこいつだ。
何の因果か大分前から知り合いではあるが、意地でもここには来たくなかった。
極端な猫背。よれた白衣にボサボサの天パ。濃い隈を引っさげて不摂生を地で行くこの医者は、検体が手に入りゃ嬉嬉として解剖を施す生粋のマッドサイエンティストだ。
ヤブ医者のヤブとしか呼んでないから、本名は忘れた。確かヨハンだかヨセフだかそんな感じの。
どうでもいい。ヤブだって人の名前をろくに覚えない。人間その一その二くらいの認識しかしていないのだ。
聞くところによると、裏で人をかっ捌いては、取り出した臓器を仲介業者に横流しして売りさばいているらしい。あるいは逆に買い取って何かしら生体実験しているとも言われている。
イースト区で流れる噂は大半が眉唾だとはいえ、一度うっかり生で見た身にとっちゃ、完全に後押しにしかならない。
そんなやつがいる所に誰が好き好んで来たがるものか。しかもなんだこの状況、俺が患者か、ふざけてる。
「そもそもなんで俺がここに居るのか意味不明なんだけど、どうなってんだよ」
「お前のツレの黒いのが連れてきた」
「やっぱあいつかくそ!」
ヤブは人を指すとき身体的特徴を述べる。黒いのと言えばジェイドの褐色肌だ。
適当に止血して適当に寝とけば傷なんて治るのに、何を思って放り込んだんだ、あいつ。
だいたい金もない、請求されても払えない。見返りに腹を捌かれそうで気が気じゃない。
どうにか丸め込んでさっさと出ていきたい。
「どけもう帰る、どうせそんな大事じゃないだろ、せいぜい貧血ぐらいだ」
「ああ、大分やべェ貧血だったな。輸血するぐらいの」
「は……? 輸血、したの?」
予期せぬ言葉に、俺は青ざめた。
思ったよりも出血していた事実より、ついでに人体実験でもされたんじゃないかという懸念の方が強い。
「たまたま在庫残ってたからしてみた。拒絶反応出たから少しだけだが」
「しなくても良かったんじゃねぇかよ」
「正直輸血するかしないか位のギリギリラインだったな」
「何の血……? 鼠? 羊?」
「信用無さすぎて逆にウケる」
「笑い事じゃねぇよ」
「安心しろ、ちゃんと人間由来だ。怖ェ奴に脅されてんだよ俺は。テメェを無事に帰さねェとこっちが殺られる」
「は……?」
怖い奴、脅し? 誰だそれ。
「それって、あんたの言う黒いの?」
「違ェな、別のやつだ」
全く身に覚えがない。
だいたいあの場に居たのはジェイドとティアの二人だけだった。脅すってなるとジェイドだけど、怖いかどうかは微妙。今否定されたし。
ティアも、……そもそもあんな泣きじゃくってて脅しとか出来んの?
「なに。誰」
「トップシークレット」
「あ?」
「先方からの要望だ。俺は口止めされてる。聞きたきゃ本人に直接聞いてみろや」
「……いや、だから誰だよ」
「ついでに金もそいつが払ってったから感謝しとけよ」
「ますます誰だよ……」
薄気味悪いな。大ぼら吹いてんじゃないだろうな。もう言うことなすこといちいち信用出来ない。
眉を寄せながらもない心当たりを駄目元でかき集めていると、不意に視界がくらりと歪んだ。
「……?」
なんだ?
よろめいた身体を持ち直してたたらを踏む。なんだかやけに部屋が暑い。
「なんだ、やっぱまだあんだな、熱」
「……は、熱、 なんで」
「言ったろ、輸血の拒絶反応」
「あんたのせいかよ」
「まぁまだ血も足りてねェんだから、あんま興奮すんなや」
「どの口が」
「つーかいつまでもおしゃべりしてェ訳じゃねェんだわ。起きたんなら言わなきゃいけねェことがあってだな、……あーもう全部めんどくせェや、手短に言うから黙って聞けよ」
自覚した途端、だるさが増してくるのを感じた。大人しく押し黙る。もういい、とりあえず同じ空間にいたくない。
さっさと用を済ませて一人になりたい。
「包帯は大袈裟に巻いちゃあいるが、全身の傷は言うほど深くない。両腕のはそこそこ深いがまぁ、それも縫う程じゃない。いちばん酷いのはその右手だな」
「手?」
「親指除いた指四本、きれーに神経切れてたぜ」
動かねェだろ、と気だるげに言われた言葉に、一瞬固まった。
右手の指先は相変わらず痺れている。掌はじくじくと痛みを主張していた。
言われて目の前まで持ち上げた掌を眺める。手首までは問題なく動く。痛みを押して、そのまま無理やり指先に力を込めようとした。
──痺れが邪魔して、ピクリとも動かなかった。
「安心しろよ、とりあえず神経は縫ってくっつけておいた。リハビリすればかなりの確率でまた動くさ。絶対とは言い切れねェけど」
取りなすようなヤブの言葉が、右から左へ流れていく。
「……ミスった」
暗澹たる想いをそのままに、苦々しい呟きが口から漏れ出た。
考える間もなく手が出たとはいえ、もう少し何とかならなかっただろうか。後悔しても遅い。時間は戻らない。
ため息をつく。
割かし死活問題だ。利き腕が不自由となると不便きわまるし、何より得意の盗みができない。真面目に働こうにもまともな職が期待できない。
金がない。飯が食えない。ちまちま貯めてた端金だけじゃ手が治るまでもつ気がしない。
……どうしよう。
弱りきって口を曲げる。咄嗟に打開策が浮かばない。
いっそ左利きに矯正するか。
心中でぼやくも、現実逃避であることは自覚していた。どっちみち一朝一夕には出来ない。
「あーっと、ガ、……灰被り」
ガキと言いかけたヤブは、俺の頭を見ながらそういった。
……なんでわざわざ言い直した?
思考を中断して顔を上げると、ヤブは扉の外、ここからは見えない廊下を指で指す。
「客」
見えねぇし。あんたがどけ。
反射的に心中で悪態を着いた数秒後、壁の向こうから、見慣れた黒髪が顔を出す。
合間から火傷跡を覗かせた不安げな顔は、目が合うと色濃い安堵を落とした。