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我が愛しの化け物へ  作者: 砂原樹
【第一部】 魔女と奴隷
29/41

◆熱情と冷感

 どうしてそうしたのかなんて分からない。

 考えたって、答えなんて出ない。

 死なせたくないと思った。ただ、それだけ。





 ◆





 押し付けた掌に、舌が這う感覚がする。

 涙でぐちゃぐちゃになった顔で、薄目を開けたティアの瞳は、虚無と熱が混ざりあっていた。

 時々傷口の縁をなぞられて唾液が染みる。溢れたそばから舐めとって、その度こくりと喉を鳴らす。

 口に収まらなかった血は横に流れ、頬には既に幾筋もの線を残していた。


 視線を落とせば、自由になっているティアの左手は、身体の横できつく握りこまれている。

 白くなるほど力を込めて、爪を立てた皮膚から薄く血が滲んでいるのが見えた。

 爪が傷口を抉る度、小さく身体が揺れて、一瞬瞳に正気が戻る。でもそれも、直ぐに熱に紛れて掻き消える。


 無性に腹が立ったのは否定しない。

 感情の溢れた生きた顔で、死を願われるのが癪に障った。自分一人悪いような態度で、自己完結して投げ出されるのが嫌だった。

 意地でも生かしてやると思ったのは本心だ。見捨てられるなら、もうとっくに見捨ててる。

 命を懸けてやろうと思った。その程度で収まるのなら。殺してしまう前に死ぬと泣くのなら、そうならないと証明すればいい。


 だから絶対に死なせないし、死ぬ訳にはいかないんだ。


 末端から熱が引くような感覚がした。

 僅かに目眩を感じながら深呼吸して、逸る鼓動を努めて宥める。


 時間が経つにつれ駄目になると、いつかティアは言っていた。

 食べたくないといいながら泣いて、尚も引き剥がせない狂気が、瞳の奥で燻っていた。

 長い軟禁の末に渇いた心が暴走しているのなら、ティアが欲してやまない血を与えれば、少しは余裕が出てくるのかと思ったけど。

 ……見通しが甘すぎたかもしれない。

 終わりが見えない。戻ってくる気配がない。


「……ティア、終わり」


 言いながらその目を見てみるが、未だそこには狂気の色が濃い。

 指先が痺れてくる。右だけでなく、左も。どこか息苦しさを感じている。空気を吸っても吸えている気がしない。

 暑くもないのに汗が出る。額から滑る不快な冷や汗を感じながら、俺は目を眇めた。


 初めは確か、頭突きで正気に戻った。こんなでも、痛みは感じているのかもしれない。


 ただそれより前、廃屋で横腹蹴った時はなんともなかった。いや、あれは間に骨挟まってたから衝撃弱かったのか。それともあの時も一度戻ってた? 確認してないから分からない。

 真に正気に戻したいなら、どこかしらにダメージを入れて試すべきなのだろうか。


「……」


 一度瞬きして、思考を散らす。

 手を口元から離そうと動かすと、すかさずティアの手が伸びてきた。今まで横で握られていた手が、俺の手首を掴んでいる。


「駄目、終わり。……できる?」


 引き止めるような仕草だが、その力は弱々しい。

 伺うように、請うように、こちらを見上げる瞳は、未だに正気と狂気の狭間にある。


「まだ欲しいの?」

「……だめ?」

「全部飲みたい? さすがに死ぬけど」


 言うと、僅かに瞳が揺れた。

 手の力を緩めては強めて。明らかに迷っているような様子を見せては、その視線を俺の手に移す。

 流れる赤を凝視しても、舌を伸ばすことはなく。緩やかに垂れた血が、胸元に染みていく。


「また今度、餌になってやるから。今日は勘弁してくれる?」

「……ほん、と?」

「我慢、できる?」


 少し間があった。

 口を引き結んで斜め下に視線を逸らしたティアは、やがて躊躇いがちに手を離す。

 そのまま自身の左手を口元に持ってくると、その甲をかぷりと噛んだ。


「…………ん」


 小さく頷くその素直な反応に、薄く笑む。


「……いーこ」


 開放された右手は、一気に脱力して、地面に落ちた。


 血、止まんねぇな。


 じわじわ傷口からと滲み出てくる血を見下ろして、心の中で独りごちる。

 指先が痺れて、そこの感覚だけが鈍く、妙に冷たい。なのに裂けた傷口は熱く、鼓動に合わせて少しずつ中身が漏れてくる。


 ……止血って、どうやるんだっけ。


 回らない思考に問うてみるも、答えは出なかった。気づけば目の前が霞んでいる。瞬いても変わらない。輪郭がぼやけて、まともに見えない。

 それに酷く、寒い。

 浅く呼吸をした一瞬、力が抜けた。

 平衡感覚が狂っていた。世界が傾いでいるのを見てから、ようやく倒れ込みそうになっているのを自覚する。

 僅かに覚えた危機感を、纏めて何かが塗りつぶしていく。





 ──気づいたら、頭が何かに引っかかって、上体はそれ以上の動きを止めていた。

 どうやら数秒、意識が飛んだらしい。

 力を無くして垂れた頭。知らず閉じていた目を開ければ、目線は真下に向いている。視線の先に、見慣れた粗末な靴がある。

 一瞬、なんだか分からなかった。数秒かけて記憶を探り、その持ち主を突き止める。

 そうか。そういや、居たんだっけ。


「……手、出すな、つったろ」


 下を見ながら呟く。顔をあげるのすら億劫だった。


「お前、死ぬぞ」

「死なねぇし……こんなんで」


 はぁ、と息を吐き出す。右肩に伝うのは体温だろうか。そこだけ少し温かい。それが妙に落ち着かない。

 いつまでも寄りかかっては居られない。身体を起こさなければとは思うのに、思うように動かなかった。

 全身に鉛でも溶かしこまれたようだ。


「……だるい」

「やっぱろくなことにならねぇな」


 身じろぎしてずり落ちそうになると、前から左肩に手がかかって押し返される。

 視線だけを上げれば、腐れ縁が眉を寄せて俺を見下ろしていた。


「顔色最悪だな。お得意の猫被りはどうした」

「……るせぇ、茶化すな」

「悪態吐くだけの余裕はあんのか」


 あるように見えんのか。出そうになった言葉を飲み込む。愚問だ。

 余計なことに体力を使いたくない。

 無視を決め込み視線を落とすと、代わりに落ちていた右手を拾われた。掌に押し付けられた布は裂いたような跡があって、手の甲できつく結ばれるのが目ではわかるのに、そんなふうには感じない。

 感覚が、だいぶやられてる。


「アルテ……?」


 下から聞こえたか細い声に、目を向ける。

 零れそうなほど開いた青が、表面に涙の膜を張って、ゆらゆらと揺れている。そこにはもう、あの異様な熱は欠けらも無い。

 知らずついた安堵の息に、また力が抜けそうになって、耐える。


「……もう、意地でも、呑まれんなよ」


 声に力はない。

 周囲が静かなせいで小さくても通るのが、唯一の救いだ。


「呑まれても、これ以上、俺はやれない」


 透き通った青色から零れ落ちる雫は、雨上がりの葉から流れ出る白露に、よく似ている。

 それをぼんやりと目で追いながら、どことなくいたたまれない気持ちになる。

 ああ、また泣いた。

 一度感情が溢れてから、ティアは結構泣き虫だ。


「や、ごめ、なさっ、しなない、で」

「……死なねぇし」


 なんでおまえら、そんなに俺を殺したいの。


「言いたい事は沢山あるがとりあえず後だ。腕伸ばせ。背負う」

「……冗談」

「どうせお前自力で立てないだろ。さっさとしろ。こんな時に強情張んな」

「……」

「死にたくねぇなら躊躇うな。利用しろ。使われてやるから」


 尚も動かずにいると、舌打ちが聞こえた。

 腕を引かれて、重心が傾く。視界からくる情報に、頭が追いつかない。前に倒れたと思えば、突然高くなった視界に目が回る。

 肺が圧迫されて、ただでさえしにくい呼吸が、数秒詰まった。

 咳き込む度に痛みが走って、散々だ。


「すげぇ、屈辱……」

「文句ならてめぇに言え阿呆」


 ぼそっと呟くと、間髪入れず罵倒が返ってくる。阿呆はおまえだ。心中だけで吐き捨てた。怪我人のくせに。傷開いたって知らねぇぞ。

 力が入らない。もたれ掛かっているのをいいことに、そのまま脱力する。僅かにたった鳥肌は、それを維持する気力もなく萎む。

 瞼が重い。


「……俺は許した訳じゃねぇぞ」


 暗闇の中で、ジェイドの声が聞こえた。


「お前は人殺しだ。お前のせいでたくさん死んだ。許しても認めてもねぇ。……でもいい、今は休戦だ。さっさと立て。こいつを殺したくないんなら」


 言葉が右から左に流れていく。内容は頭に入ってこない。

 遠くに聞こえる衣擦れの音を耳にして。

 そこで、プツリと意識が途切れた。



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