◇2
──衝撃は、何故だか肩に来た。
何かに強く押された身体が、体勢を崩して後ろへ傾く。かくりと膝から力が抜け、驚く間もなく腰を強打。勢いのまま背中から倒れ込み、痺れるような鈍痛が響く。
耳元で大きな音がした。
煩いくらいの心臓の音と息づかいは、一体誰のものだろう。
なにか温かいものが、手を伝って濡れていくようだった。
瞑っていた目を緩慢に開ける。手が動かない。刃は首には届いていない。
死んでいない。
死んでいない、のに。
何故か、ふわりと傍で血が香っている。
「……っざ、けんなよ!」
燃えるような、怒りに滾る瞳が、すぐ頭上で輝いていた。
「っ、勝手に終わらそうとしてんじゃねぇよ! ざけんなおまえ、俺がどんな思いでこんなことしてると……っ」
覆い被さるような体勢で、月光を遮ったアルテの顔が、すぐ目の前にあった。
呆然とその瞳を見返す。
ぴくと動いた私の身体に連動するように息を詰め、顔を顰めたアルテは、忌々しげに舌を打つ。
「ああもうくっそいってぇな! いいから手ぇ離せ今すぐ捨てろそんなもん!」
間近で怒鳴りつけられて、真っ白だった頭が、かろうじて回り出す。
言われるままに、視線を左手へ向けて。
そこに映ったものに、血の気が引いた。
「あ」
手。
手が。
「あ……あ、……ぅあ」
意味もない声が、口から漏れた。
目が逸らせなかった。
胸中に、ゆっくり絶望が満ちていくのを感じた。
手中のナイフは首に届かなかった。
当たり前だ。止められたのだから。
喉元にかざしていたナイフは、位置をずらされて、私の手と共に少し上の方へよけられている。
刃を握りこんだアルテの手が、それ以上の進行を拒んでいた。
くい込んだ刃先が皮膚を抉って、合間からとめどなく血が溢れている。
それがナイフを伝って、私の手を濡らしている。
「ごめ、なさ」
舌が縺れて、言葉が出ない。
手から力が抜けていく。ぱたりと地面に手が落ちた後で、アルテは手の中のものを横に放った。
痛みを堪えるような息遣いが聞こえた。
そのせいか大して飛ばなかったそのナイフは、すぐ側で地面に擦れて音を立てた。
身体が震える。息が、うまく吸えない。
傷つけた。
私が。私の、せいで。
「う……」
もう、何も考えられない。考えたくない。
いっそ消えてしまいたい。
なのに身体は、目の前でいっそう濃くなった匂いを嗅ぎ分ける。
無意識にそのズタズタの掌を目で追っている自分に、愕然とする。
「っも、や」
ぐちゃぐちゃだ。何もかも。
薄い皮膚の内側には、どす黒く濁った混沌が蔓延っている。
心は張り裂けそうな程の絶望で曇っているのに、身体は、すぐ側で強まった血の匂いに歓喜していた。
息が詰まる。頭が痛い。
目の奥が、熱い。
「ころ、して。ころしてっ、はやく、殺して!」
もう、いやだ。
たくさんだ。
溢れた涙が、まなじりを伝って耳に流れた。
「はやく! はやく、しないと」
どうしてこんな思いをしなければならないの。
「たべちゃう、」
どうしてアルテを殺そうとするの。
「っ、ふ」
どうして、この衝動は消えてはくれないんだ。
きつく目を閉じて、腕で目元を覆う。
隙間から、噛み殺せない嗚咽が、溢れて落ちた。
全ての衝動を、切り刻んで捨ててしまいたい。腹を裂いて、中に詰まった反吐を残らず掻き出して、水の中にでも沈めてそのまま凍らせてやりたい。
そうでもしないと、おさまらない。止まってくれない。
この醜悪な化け物は。
「まだ、正気?」
「正気じゃ、ないっ」
腕の向こうからかけられた問に、噛み付くように返す。
正気なわけがない。
この期に及んで、すぐ近くで溢れる血の匂いが、すごく芳しくて、美味しそうで、気づくと理性がドロドロに溶けてしまいそうになる。
こんな、歪な精神が。
「分かってる、わかってるの。私は、人殺しで、化け物で、無価値で、誰にも、必要となんかされてないって!」
きっと初めから、全部間違いだったんだ。
誰にも望まれてなんか居なかった。
生まれ落ちた時点で、既に手遅れだった。
「なのに性懲りも無く、生を求めてっ、縋って! 諦めが悪くて、浅ましくて身勝手でっ! 全部わかってた、わかった上で選んだの、意識が朦朧としてたなんて言い訳だ、人の命より自分を選んだのは私の意思だっ、あの人は時間をくれた、私が自分で選んだんだ! 肉を裂いて血を啜って、罪もない人を殺して打ち捨ててっ、そうして命を永らえて、得られるものなんてない、化け物は人になんかなれない、この先には何も無い、夢も希望も枯れ果てた、救われたいなんて烏滸がましいっ! 」
こんな無価値な存在が、人並みの幸せを願うこと自体、分不相応だった。
だから間違えるんだ。何もかも。
救いなんてあるわけない。そんな資格はどこにもない。
これはきっと罰だ。
人の命を摘んでおいて、身の程知らずに求めたから。
私は勝手だ。最低だ。だから、こんなことになるんだ。
「いらない、いらないんだ! もう何もかもいらない! 全部無意味だ、なくなってしまえばいい!!」
だからもう、終わらせて。
これ以上、何も望まないから、せめて一思いに壊して。
狂気に堕ちてしまう前に。
「殺、して」
涙腺が決壊したように、涙が止まらない。押さえていた腕がふやけて、顔中を濡らしていく。
「殺して。もう、いやだ」
不意に、腕が掴まれた。
ぐいと力を込められて、顔の上から腕がずれる。
涙で霞んだ視界に、歪んだ輪郭がゆらゆらと揺れている。
「君の境遇なんて、俺は知らない」
ひとつ瞬いて流れた涙に、一瞬クリアになった視界に、アルテが映った。
射抜くように鋭い視線で、押し殺したような硬質な声で、だからなんだよ、と吐き捨てる。
「生きたいんだろ、だったら構うな」
唇が戦慄く。
涙が、また溢れる。
「周りなんて捨ておけ、周囲の意見で自分を決めんなよ。目ぇ開け、逃げんな。どうせ君が居ようと居まいと、死ぬやつは死ぬし生きるやつは生きる。はなっからこの世は弱肉強食で通ってんだ」
強い瞳が、目前で苛烈に煌めいている。
「価値がないからなんだ。初めからそんなの持ってるやつなんかいない。価値がないなら死ねってんなら周り一帯死人だらけだ。ぐだくだ御託ばっか並べてんなよ、生きたいんだろ! 尊厳踏みにじられても、泥水啜っても、誰かを犠牲にしても、何もかも捨てても、それでも生きたかったら今ここに居るんだろ!」
嗚咽はかみ殺せずに端から漏れ出て、周囲に無様に響いた。
顔を歪めて、横に背けて、涙の膜に蓋をするように、ぎゅっと目を閉じる。
「それ、で」
息苦しさを感じながら、必死に息を吸う。
しゃくりあげながらの言葉は、蚊の鳴くように小さい。
「それで、あなたを殺すくらいなら」
もう、いい。十分だ。
「死んだ方が、いい」
その言葉だけで、満足だ。
生きたかった。それだけが、ただ一つの願いだった。
でも、もういい。耐えられない。
何より穏やかな日々だったんだ。
アルテに初めて出会って、ここに至るまでの時間が。
初めは拒んで、突き放していたせいで、本当にちゃんと話したのは、短い時間にすぎなかったけれど。
私が願った平穏が、誰も傷つかない幸せが、確かにそこにあった。
その思い出を壊してまで、生きる意味なんかない。
「アルテを殺してまで、生きたくない」
視覚を遮断した体内に、己の言葉が落ちていく。
アルテの顔は見えない。とても見られない。
それからどれくらい経ったのか分からない。
沈黙が、痛いほど肌に刺さった。
「………………ああそう」
静かな声だった。
その声につられて、目を開ける。
涙は、ようやく止まっていた。
「わかった」
ぽつりと呟いたアルテが、右手を横に伸ばす。
傍に落ちたナイフを拾おうとして、傷に顔を顰めたアルテは、引き寄せるだけ引き寄せて、それを左手で拾い上げる。
逆手に持ち替えたその刃を、目線の高さまで持ち上げて、その刃先が、私の喉元へ向けられた。
硬質なそれはアルテの影になって微塵も光らず、どことなく現実味がない。
ああでも、良かった。
これで、やっと。
身体から力が抜ける。薄目を開けたまま、ぼんやりとその行く末を見守る。
処刑を待つ罪人は、こんな気分なのだろうか。場違いな考えが、頭をよぎった。
振り上げられたそのナイフは、風を切って、眼前に迫って、そして。
耳元で甲高い金属音が鳴った。
響く余韻を肌で感じながら、緩く瞬きをする。
ひとつ間をおいて、視線だけを動かす。
痛みは、ない。
視界に映る手は、位置が少しズレている。
振り下ろされたナイフは、首元を切ることなく、その真横に突き立てられていた。
「……満足かよ」
つまらなそうに、淡々と呟いて、アルテは今度こそナイフを遠くへ放る。
思考が追いつかない。
疑問だけが、頭の中を回っている。
「アル、」
「忘れてんなら教えてやるよ」
私の声を遮って、アルテは吐き捨てる。
「素直に人の頼みをきいてやるほど、俺はいい人間じゃない」
かち合った目の奥には、静かな炎が燃えていた。
「前に言ったろ、君の意見なんてどうでもいい。俺は俺のやりたいようにやる」
「でも、」
「何」
「たべちゃ、」
「食いたきゃ勝手に食えよ」
事も無げに言われて、返す言葉を失う。
私を見下ろすアルテが、はぁ、とため息を吐き出した。
「ただ、俺だってまだ死ぬ気は無いんだ」
アルテの手が動く。
ナイフでズタズタに裂けた、傷だらけの右手が。
持ち上げた掌が目の前に掲げられて、未だ止まらない血が、ぽたぽたと頬に垂れる。
すぐ鼻先に落ちた濃密な血の匂いに、心臓が鳴った。
息が浅くなる。意識が遠のきかける。目が逸らせない。喉が鳴る。
一度止まった涙が、僅かに湧き上がってきて、一筋流れ出た。
欲しい。食べたい。
「や、だ、はな、れて」
「ねえ、ティア」
朦朧としながら見上げた先で、私を呼ぶその口許が、緩く持ち上がっていく。
血塗れの指をそっと落として、私の唇をなぞりあげたアルテは。
「俺を殺すくらいなら死ねるっていうんならさ」
焚きつけるように、不敵に、笑った。
「……死ぬ気で俺を生かしてみろよ」