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我が愛しの化け物へ  作者: 砂原樹
【第一部】 魔女と奴隷
28/41

◇2

 ──衝撃は、何故だか肩に来た。

 何かに強く押された身体が、体勢を崩して後ろへ傾く。かくりと膝から力が抜け、驚く間もなく腰を強打。勢いのまま背中から倒れ込み、痺れるような鈍痛が響く。

 耳元で大きな音がした。

 煩いくらいの心臓の音と息づかいは、一体誰のものだろう。


 なにか温かいものが、手を伝って濡れていくようだった。

 瞑っていた目を緩慢に開ける。手が動かない。刃は首には届いていない。

 死んでいない。

 死んでいない、のに。


 何故か、ふわりと傍で血が香っている。


「……っざ、けんなよ!」


 燃えるような、怒りに滾る瞳が、すぐ頭上で輝いていた。


「っ、勝手に終わらそうとしてんじゃねぇよ! ざけんなおまえ、俺がどんな思いでこんなことしてると……っ」


 覆い被さるような体勢で、月光を遮ったアルテの顔が、すぐ目の前にあった。

 呆然とその瞳を見返す。

 ぴくと動いた私の身体に連動するように息を詰め、顔を顰めたアルテは、忌々しげに舌を打つ。


「ああもうくっそいってぇな! いいから手ぇ離せ今すぐ捨てろそんなもん!」


 間近で怒鳴りつけられて、真っ白だった頭が、かろうじて回り出す。

 言われるままに、視線を左手へ向けて。

 そこに映ったものに、血の気が引いた。


「あ」


 手。

 手が。


「あ……あ、……ぅあ」


 意味もない声が、口から漏れた。

 目が逸らせなかった。

 胸中に、ゆっくり絶望が満ちていくのを感じた。


 手中のナイフは首に届かなかった。

 当たり前だ。止められたのだから。

 喉元にかざしていたナイフは、位置をずらされて、私の手と共に少し上の方へよけられている。

 刃を握りこんだアルテの手が、それ以上の進行を拒んでいた。

 くい込んだ刃先が皮膚を抉って、合間からとめどなく血が溢れている。

 それがナイフを伝って、私の手を濡らしている。


「ごめ、なさ」


 舌が縺れて、言葉が出ない。

 手から力が抜けていく。ぱたりと地面に手が落ちた後で、アルテは手の中のものを横に放った。

 痛みを堪えるような息遣いが聞こえた。

 そのせいか大して飛ばなかったそのナイフは、すぐ側で地面に擦れて音を立てた。


 身体が震える。息が、うまく吸えない。

 傷つけた。

 私が。私の、せいで。


「う……」


 もう、何も考えられない。考えたくない。

 いっそ消えてしまいたい。

 なのに身体は、目の前でいっそう濃くなった匂いを嗅ぎ分ける。

 無意識にそのズタズタの掌を目で追っている自分に、愕然とする。


「っも、や」


 ぐちゃぐちゃだ。何もかも。

 薄い皮膚の内側には、どす黒く濁った混沌が蔓延っている。

 心は張り裂けそうな程の絶望で曇っているのに、身体は、すぐ側で強まった血の匂いに歓喜していた。


 息が詰まる。頭が痛い。

 目の奥が、熱い。


「ころ、して。ころしてっ、はやく、殺して!」


 もう、いやだ。

 たくさんだ。

 溢れた涙が、まなじりを伝って耳に流れた。


「はやく! はやく、しないと」


 どうしてこんな思いをしなければならないの。


「たべちゃう、」


 どうしてアルテを殺そうとするの。


「っ、ふ」


 どうして、この衝動は消えてはくれないんだ。


 きつく目を閉じて、腕で目元を覆う。

 隙間から、噛み殺せない嗚咽が、溢れて落ちた。

 全ての衝動を、切り刻んで捨ててしまいたい。腹を裂いて、中に詰まった反吐を残らず掻き出して、水の中にでも沈めてそのまま凍らせてやりたい。

 そうでもしないと、おさまらない。止まってくれない。

 この醜悪な化け物は。


「まだ、正気?」

「正気じゃ、ないっ」


 腕の向こうからかけられた問に、噛み付くように返す。

 正気なわけがない。

 この期に及んで、すぐ近くで溢れる血の匂いが、すごく芳しくて、美味しそうで、気づくと理性がドロドロに溶けてしまいそうになる。

 こんな、歪な精神が。


「分かってる、わかってるの。私は、人殺しで、化け物で、無価値で、誰にも、必要となんかされてないって!」


 きっと初めから、全部間違いだったんだ。

 誰にも望まれてなんか居なかった。

 生まれ落ちた時点で、既に手遅れだった。


「なのに性懲りも無く、生を求めてっ、縋って! 諦めが悪くて、浅ましくて身勝手でっ! 全部わかってた、わかった上で選んだの、意識が朦朧としてたなんて言い訳だ、人の命より自分を選んだのは私の意思だっ、あの人は時間をくれた、私が自分で選んだんだ! 肉を裂いて血を啜って、罪もない人を殺して打ち捨ててっ、そうして命を永らえて、得られるものなんてない、化け物は人になんかなれない、この先には何も無い、夢も希望も枯れ果てた、救われたいなんて烏滸がましいっ! 」


 こんな無価値な存在が、人並みの幸せを願うこと自体、分不相応だった。

 だから間違えるんだ。何もかも。

 救いなんてあるわけない。そんな資格はどこにもない。


 これはきっと罰だ。

 人の命を摘んでおいて、身の程知らずに求めたから。

 私は勝手だ。最低だ。だから、こんなことになるんだ。


「いらない、いらないんだ! もう何もかもいらない! 全部無意味だ、なくなってしまえばいい!!」


 だからもう、終わらせて。

 これ以上、何も望まないから、せめて一思いに壊して。

 狂気に堕ちてしまう前に。


「殺、して」


 涙腺が決壊したように、涙が止まらない。押さえていた腕がふやけて、顔中を濡らしていく。


「殺して。もう、いやだ」


 不意に、腕が掴まれた。

 ぐいと力を込められて、顔の上から腕がずれる。

 涙で霞んだ視界に、歪んだ輪郭がゆらゆらと揺れている。


「君の境遇なんて、俺は知らない」


 ひとつ瞬いて流れた涙に、一瞬クリアになった視界に、アルテが映った。

 射抜くように鋭い視線で、押し殺したような硬質な声で、だからなんだよ、と吐き捨てる。


「生きたいんだろ、だったら構うな」


 唇が戦慄く。

 涙が、また溢れる。


「周りなんて捨ておけ、周囲の意見で自分を決めんなよ。目ぇ開け、逃げんな。どうせ君が居ようと居まいと、死ぬやつは死ぬし生きるやつは生きる。はなっからこの世は弱肉強食で通ってんだ」


 強い瞳が、目前で苛烈に煌めいている。


「価値がないからなんだ。初めからそんなの持ってるやつなんかいない。価値がないなら死ねってんなら周り一帯死人だらけだ。ぐだくだ御託ばっか並べてんなよ、生きたいんだろ! 尊厳踏みにじられても、泥水啜っても、誰かを犠牲にしても、何もかも捨てても、それでも生きたかったら今ここに居るんだろ!」


 嗚咽はかみ殺せずに端から漏れ出て、周囲に無様に響いた。

 顔を歪めて、横に背けて、涙の膜に蓋をするように、ぎゅっと目を閉じる。


「それ、で」


 息苦しさを感じながら、必死に息を吸う。

 しゃくりあげながらの言葉は、蚊の鳴くように小さい。


「それで、あなたを殺すくらいなら」


 もう、いい。十分だ。


「死んだ方が、いい」


 その言葉だけで、満足だ。


 生きたかった。それだけが、ただ一つの願いだった。

 でも、もういい。耐えられない。


 何より穏やかな日々だったんだ。

 アルテに初めて出会って、ここに至るまでの時間が。

 初めは拒んで、突き放していたせいで、本当にちゃんと話したのは、短い時間にすぎなかったけれど。

 私が願った平穏が、誰も傷つかない幸せが、確かにそこにあった。


 その思い出を壊してまで、生きる意味なんかない。


「アルテを殺してまで、生きたくない」


 視覚を遮断した体内に、己の言葉が落ちていく。

 アルテの顔は見えない。とても見られない。

 それからどれくらい経ったのか分からない。

 沈黙が、痛いほど肌に刺さった。


「………………ああそう」


 静かな声だった。

 その声につられて、目を開ける。

 涙は、ようやく止まっていた。


「わかった」


 ぽつりと呟いたアルテが、右手を横に伸ばす。

 傍に落ちたナイフを拾おうとして、傷に顔を顰めたアルテは、引き寄せるだけ引き寄せて、それを左手で拾い上げる。

 逆手に持ち替えたその刃を、目線の高さまで持ち上げて、その刃先が、私の喉元へ向けられた。

 硬質なそれはアルテの影になって微塵も光らず、どことなく現実味がない。


 ああでも、良かった。

 これで、やっと。


 身体から力が抜ける。薄目を開けたまま、ぼんやりとその行く末を見守る。

 処刑を待つ罪人は、こんな気分なのだろうか。場違いな考えが、頭をよぎった。

 振り上げられたそのナイフは、風を切って、眼前に迫って、そして。








 耳元で甲高い金属音が鳴った。

 響く余韻を肌で感じながら、緩く瞬きをする。

 ひとつ間をおいて、視線だけを動かす。

 痛みは、ない。

 視界に映る手は、位置が少しズレている。

 振り下ろされたナイフは、首元を切ることなく、その真横に突き立てられていた。


「……満足かよ」


 つまらなそうに、淡々と呟いて、アルテは今度こそナイフを遠くへ放る。

 思考が追いつかない。

 疑問だけが、頭の中を回っている。


「アル、」

「忘れてんなら教えてやるよ」


 私の声を遮って、アルテは吐き捨てる。


「素直に人の頼みをきいてやるほど、俺はいい人間じゃない」


 かち合った目の奥には、静かな炎が燃えていた。


「前に言ったろ、君の意見なんてどうでもいい。俺は俺のやりたいようにやる」

「でも、」

「何」

「たべちゃ、」

「食いたきゃ勝手に食えよ」


 事も無げに言われて、返す言葉を失う。

 私を見下ろすアルテが、はぁ、とため息を吐き出した。


「ただ、俺だってまだ死ぬ気は無いんだ」


 アルテの手が動く。

 ナイフでズタズタに裂けた、傷だらけの右手が。

 持ち上げた掌が目の前に掲げられて、未だ止まらない血が、ぽたぽたと頬に垂れる。


 すぐ鼻先に落ちた濃密な血の匂いに、心臓が鳴った。

 息が浅くなる。意識が遠のきかける。目が逸らせない。喉が鳴る。

 一度止まった涙が、僅かに湧き上がってきて、一筋流れ出た。

 欲しい。食べたい。


「や、だ、はな、れて」

「ねえ、ティア」


 朦朧としながら見上げた先で、私を呼ぶその口許が、緩く持ち上がっていく。

 血塗れの指をそっと落として、私の唇をなぞりあげたアルテは。


「俺を殺すくらいなら死ねるっていうんならさ」


 焚きつけるように、不敵に、笑った。


「……死ぬ気で俺を生かしてみろよ」


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