◇とある少女の回顧録 - 瓦解
※今回残酷描写の程度が振り切っています。じわじわ進行していくので、無理と思った時点で飛ばすことをおすすめします。次話の、初めに記号(◇)が出るところから読めば飛ばしても分かるはずです。
内容は「狂気の虜囚」と「ささやかな変化」内の悪夢の掘り下げです。
※一番やばいところまでを一気に詰め込んだので、いつもよりも大分文字数が多いです。ぜひ自衛をお願いします。
※本日二話更新しています。耐えられなくなったら遠慮なく次話へどうぞ。
意識は永く虚空を揺蕩っている。
自ら何かを考えることは少ない。
見えるもの、聞こえるもの全てに現実味がない。
全てが他人事のようだ。
それでも、対して問題は感じない。
「僕の屋敷においで」
下ばかりを見ていた視界に、不意に誰かの手が差し込まれる。
緩慢に顔を上げると、知らない人が、柔和な笑みを浮かべていた。
「君は今日から僕のものだ」
◇
その日は何かが違っていた。
いつも山ほど言いつけられる雑用は全て取り上げられ、ただ動かぬようにと命ぜられた。
屋敷の空気はどこか浮き足立っているようだった。
その意味を知ろうともせず、ただ諾々と従っていた。
故意か過失かは不明だが、いつものようにどこかの一室に投げ込まれることはなかった。ならば、無断でどこかへ入るわけにもいかない。
邪魔にならないようにと庭の木陰に身を潜め、見つからないように蹲って時間を潰していた。
だから、事の経緯を、何一つ把握してはいない。
揺れの少ない馬車に揺られて、その隅で縮こまる。
対面に腰掛けた青年は、ずっと柔和な笑みを浮かべている。
対照的に、隣に腰掛けた人は、眉間に皺を寄せていた。
鈍い思考を何とか回して、耳に残る話の断片から情報を得る。
どうやらまた、買われたらしい。
目の前の貴族様の気まぐれで。
「何か喋ってみてくれる?」
静かだった車内に、突然声がこだまする。
数拍置いてから頭をあげると、目の前の新たな主人が、こちらを見ていた。
「君全然喋らないから。どの程度なのか知っておきたいんだ」
言われた言葉の意味が、すぐには分からなかった。
緩く瞬きをしながら、主人の口元を見る。
どの程度。
「あ、僕の言っていること分かる? それともやっぱり死んでいるの?」
やっぱり死んでいる。かけられたその言葉を反芻する。数秒考えても分からない答えに、内心で首を捻った。
どういう、意味なのだろう。
死体じゃないことくらい、見て分かるはずなのに。
「──い、え」
かろうじて口をついた声は、酷いものだった。
長らく出していなかったのだから、当然なのかもしれない。
喉を抑えて俯くと、へぇ、と感心したような声が聞こえた。
「なるほど。君はまだ、完全に壊れたわけじゃないんだね」
一人納得したように頷いて、再び笑みを浮かべる。
一見なんの含みも見えない、柔らかい笑顔。
ただ表情とは裏腹に、その口から出た不穏な言葉が、薄く神経を撫でていく。
居心地の悪さに、ますます隅に身体を寄せて縮こまる。
それ以上の会話はなかった。
車輪が土を踏んで回る音が、断続的に響いている。
微かに刺さった違和感は、いつまでも消えてはくれなかった。
◇
この人は何がしたいのだろう。
もう何度思ったか知れない疑問が、気づけばまた顔を出す。
移動中であるから、何も言われないのだと思っていた。でも気の休まらない馬車の旅を終えてみれば、その先には何も無かった。
雑事を用命される訳では無い。何かを要求される訳でもない。
汚れているからと身体を洗われ、怪我の治療だと包帯を替えられた。そして新しい服に着替えさせられ、遅いからとベッドに放られる。
大抵は主人の付き人の青年が行ったが、包帯だけは主人自らが替えた。
およそ奴隷への対応とは呼べない。
まるで労わっているかのようなその態度が、あまりにも未知で、理解ができない。
昨日の今頃は真新しい傷の痛みに呻きながら、倉庫の隅で蹲っていた。そう思うとこの状況が心底不思議で、不気味だった。
一体何をさせたいのだろうか。
奴隷が欲しいなら市に行くのが普通なのに、主人はわざわざ所有されている奴隷を買った。
「君は、……ああ、そういえば名前が無いんだったよね」
思い出したように呟くと、こちらを見て考える素振りを見せる。
「まぁ、題なんて後でもいいんだけど、呼称がないと何かと不便か」
題。内心で繰り返して、目を伏せる。
時々この人は、奇妙な言葉選びをする。
その度に得体の知れない不安感が、内側を覆っていくような気がする。
「メメント・モリ、かな」
「めめ……?」
「メメント・モリ。死を想え」
主人は一つ頷くと、満足そうに笑った。
「呼ぶには長いから、普段はメメでいいか」
一見穏やかなその態度に、素直に安心できないのは何故なのか。
真綿で首を閉められているような、息苦しさがある。
絶えず違和感が付きまとっていた。何かがおかしいような気がするのに、それがなんなのか分からない。
「もうこれ以上は治らないか」
数日経った朝、身体に巻かれた包帯を変えるその時に、主人は薄皮の張った皮膚を見て呟いた。
「顔と腹部、胸部は無傷。右上腕に十センチ大の傷痕。左腕にもあるがこちらはほとんど目立たない。右大腿に刺傷と火傷の痕。背中に無数……なるほど」
頭からつま先まで眺めて傷跡を数えながら、何かを考え込んでいる。それを邪魔しないように、動かないように、その場に立ち尽くす。
表皮を撫でる空気の肌寒さに、小さく震える。素足に絡む絨毯が、今は一番暖かい。
「顔の火傷も右、身体の傷も右に集中……となると、外すならやっぱり右かな」
「外す……」
何を。ぽつりと漏れ出た疑問に、応えはない。
包帯はもう巻かれなかった。
素肌の上にシュミーズを被せられて、腕を引かれる。
行こうか、メメ。主人は今までになく上機嫌に、顔を綻ばせた。
「準備は整った。案内するよ」
◇
主人が開けた扉の向こうは、たくさんの色で溢れていた。
別世界だ、と思った。
つかの間、心に巣食う憂いの何もかもを忘れた。
壁際に彫刻が置かれている。
単純に人の形をしたものもあれば、建物のようなもの、様々な形が組み合わさった、一言で説明しがたいものもある。
隅に何枚もの板が連なって立てかけられている。一番手前のものには、極彩色の絵が描かれていた。ただ、その他にちらりと見えるものは、淡い色合いのものが多い。
微かに漂う独特の匂いが、部屋いっぱいに満ちている。
「ようこそ、僕のアトリエへ」
呆然と立ち尽くすその横で、主人が言った。
その意味をゆっくり咀嚼しながら、またぐるりと室内を見渡す。アトリエ。
ここの物は全て、この人が創ったのだろうか。
気に入ったのかい? 主人が問う。その声につられて、傍らを見上げる。
でもこの人は、答えなんて期待していないようだった。
「でも残念。メメに見せたいのは、この奥の方なんだ」
主人は部屋の奥まで行くと、そこにかかっていた黒のカーテンを横に引いた。壁だと思っていたその奥には、まだ空間が広がっていた。
薄いカーテン一枚を隔てたその向こうは、何もかもがガラリと違っていた。
黒や赤を基調とした抽象画。色んな生物が掛け合わされたものの模型。どこか暗い、怖気の立つ雰囲気の作品。
何よりも真っ先に目に入るのが、目の前にずらりと並んでこちらを向く、たくさんの人。無機質な瞳。
幾対もの視線に射抜かれて、身体が固まる。
「蝋人形だよ」
かけられた声にはっとする。
「彫刻や絵画も好きだけれどね、少し前からはこれに凝っているんだ。材質が素直で加工がしやすいから、つくっていて楽しいんだよね」
人形。とても、精巧な。
本物かと、思った。
はやる心臓に手を当てて、細く息を吐き出す。
でも、そうか、人形。なら、大丈夫。
腕のないものも、半身が骨になっているものも、動物の体が移植されているものも、臓物が漏れているのものも、悪魔のような造形のものも、全部、作り物。
生き物じゃない。生きてはいない。
大丈夫。大丈夫。震えそうな身体を押し留めて、内心で言い聞かせる。
ぎこちなく首を巡らせると、こちらを見ていた主人と、目が合った。
「ねぇメメ、君はどっちが好き? 入り口の作品と、カーテンを隔てたここと」
僕はね。弧を描く口元から、目が離せない。
「美しいものほど、穢したくなる」
発せられる言葉から、意識を逸らせない。
「大抵人は完璧を好み、求めようとする。事実完璧なものはどれも美しい。シンメトリー、黄金比、均衡や調和。完璧と称されるものには大抵法則がある。目指すべき普遍的な理想がある。だけど所詮はそれだけだ。何の面白味もありはしない。時には不完全なものの方が強く惹かれ、揺さぶられることもある。僕は、そういったものの方に魅入られた」
直立する人形のひとつに指を這わせ、主人は憂うように息を吐く。
「完璧なものほど、美しいものほど、そこに一点の曇りを落としたくなるんだ。その染みは大概全てを呑み込んで駄目にする。だけど、時々予想もしなかった高みへ、全ての価値を押し上げることがある」
瞳の奥に、仄暗い熱が点っている。
「予定調和なんて退屈だ」
怖い。
「ドロドロに混ざりあった混沌の中に生まれる光の方が、ずっと輝いている」
怖い。
「だけどいくら創っても、こんな小さな部屋で出来た模造品じゃ、欲しいものには届かない」
流れてきた視線に、身体が竦む。
伸びてきた手に腕を掴まれて、喉の奥でヒュっと、息が漏れた。
「僕はね、物言わぬ作品にはもう飽きてしまったんだよ」
頭が真っ白だ。
「いくら精巧に作っても、そこに魂を吹き込もうとしても、所詮は紛い物だ。たとえ満足のいくものが出来ても、虚像じゃ意味が無い。偽物は自分では輝けない。そうじゃないんだよ。欲しいのは本物なんだ。たとえ存在する時間が短くても、不完全でも、何よりも美しい一瞬の煌めきが、僕は欲しい」
だから、行こうか。
腕を引かれた。
硬直した身体はそのまま動かず、引かれた腕だけが、前へと進む。
呆然と見上げた視線の先で、どうしたの? と、主人が微笑む。
「おいで、メメ」
足が、震えた。
◇
暗く湿った部屋だった。
天井に釣り上げられた照明が、中央のベッドを照らしていた。誰が入れたのか、部屋に入った時点で、既にそこには火が入っていた。
窓には暗いカーテンが引かれていて、外の光は漏れてこない。
ベッドの横の台にはランプがあって、その光を反射した何かが、台の上に並べられている。
後ろでカチャリと音がした。
「な、に」
振り向くと、主人が扉に鍵をかけたところだった。
鍵。なんで、鍵。
「生きた作品を作ろうと思ったんだ」
暗がりに浮かんだ微笑みに気圧されて、後退る。
「君は、その試作のつもりで買った」
しまい込んだはずの本能が顔を出して、警鐘を鳴らしている。
冷や汗が背を伝った。
「なに、を」
「奴隷市ではなく、あの商家から君を買ったのはね、既に心が壊れてしまった人の方が、加工がしやすいと思ったからなんだ。まぁ、どうせ試作だから、早く試してみたいって言うのもあったんだけど。……それにね、君を見た時にどうしても欲しくなってしまった」
じりじりと距離を詰められる度、同じだけ後ろに下がる。
見開いた目が乾燥して、痛い。
でも、瞬きさえするのが怖い。
「君はとても良い素体だ。元は美しいはずのその顏。それを損なうように残った火傷跡。身体に残る数多の傷跡も、壊れそうで壊れきれない、危うい均衡の上にある精神も」
視線の先で、主人が場違いなほど柔らかく、笑う。
「その不完全さが、どうしようもなく美しい」
後ろに下がり続けていた背が、壁に当たった。
「ねぇメメ。僕は君の上に、死を表現しようと思うんだ」
メメント・モリ。死を想え。
主人がつけた私の題名。
私の。
「だから、僕にその身体を明け渡して」
主人の手が、伸びてくる。
脳裏に先程の蝋人形が過ぎる。
「……やだ」
だめだ。
ドクンと、心臓が脈打った。
これは、だめだ。今までの比ではない。
生存本能が叫ぶ。
耳鳴りがする。鼓動が鳴る。頭の中で誰かが急き立てる。
逃げないと。早く、早く。
取り返しのつかない所へ、堕ちてしまう前に。
「っ」
必死だった。
一度膝を曲げてしゃがみこんでから、床に手を着いて身体を押し出す。
低姿勢で主人の傍からまろびでると、そのままベッドを迂回して、入り口の扉に駆けた。
そのドアノブに飛びついて、開かない扉に思い出す。
扉。扉は駄目だ。鍵が掛かっている。一人では開けられない。
あと、後はどこ。逃げられるところは。
見渡した視線が、壁のカーテンを捕捉する。
──窓からなら。
急いでカーテンを開けた所で、私は固まった。
カーテンの長さとは反して、肝心の窓ははるか上。明かりをとるための小さな窓は、どう足掻いても届かない。
一瞬惚けたその隙に、仄かな明かりを遮って、影が差す。
振り返ると、すぐ目の前に、主人が居た。
「やめ」
「怖がらないで。大丈夫」
穏やかに言葉を紡がれても、もう安心なんてできない。
咄嗟に突き出そうとした腕ごと抱え込まれて、気づけば私は、主人の腕の中にいた。
耳元に落とされる囁きが、毒のように身を苛む。
「作り替えてあげよう。外側も内側も。僕の理想とするものへ」
右腕の裏に、痛みが走る。
押さえ込まれて自由にならない頭を振って、無理やりその方向に顔を向ける。
そこに信じられないものを見た。
注射器。
薬。
押し出された最後の一滴が、無くなる。
引き抜かれた針が、無造作に捨てられて、床に落ちる。
つまり、全部、なかに。
顔が青ざめるのがわかった。
「や、はなして!」
無茶苦茶に腕を振る。
恐怖に囚われる。
なに、したの。なんの薬を。どうして。
「や、だ、やだ、やだやだやだ!」
かくりと、膝から力が抜けた。
「……あ、なに、……な、ん」
身体が重い。力が抜ける。
舌が縺れる。
感覚が遠のく。
「安心して。ちゃんと麻酔はしてあげるよ。暴れられて手元が狂うと困るからね」
瞼が重い。だめ。
だめだ。早く。
いやだ。
いやだ。
繰り返し唱える拒絶に反して、身体は動かない。
いつの間にか、視界は闇に呑まれていた。
◇
痛みはなかった。
何も感じない。
遠く、何かの音が聞こえてくる。
意識は朦朧としている。
重い瞼を持ち上げながら、瞳だけを緩慢に巡らせる。
霞んだ視界は、なかなか焦点を結ばなかった。
何をしていたんだっけ。
一体、どうなったんだっけ。
私は。
私、は?
薄暗い部屋が見える。
倒れる前の記憶が、薄く浮かんでくる。
すぐ横の台には、赤く染まった鈍色の器具が、無造作に置かれていた。
その視界に、切り離された自らの右腕が映りこんだ時。
何もかもが、ぽきりと折れた音がした。
きっと初めから、かみさまなんて、いなかった。
すくいはない。助けはない。
じぶんで抜けだす、ちからもない。
もう、なにをもっていたって、しかたない。
じゃあ、いらない。
ぜんぶ、いらない。