◇とある少女の回顧録 - 幻想
どこかで誰かの声が聞こえた。
近いのに遠くて、鮮明なのに、曖昧。
矛盾している。なのにそうとしか言えないような、不思議な感覚。
これは一体どっちだろう。
視界が悪い。狭くて、暗い。
「なんで」
甘い、美味しそうな匂いがする。
「なに、してんの」
これはきっと夢の中。
美味しいものがあるのなら、これは夢に違いない。
だって現実は、とてもとても痛いから。
痛いものしかないから。
「君は、城に閉じこもっていたはずだろ」
誰かがこちらを見ている。
ティア、とその口が誰かを呼ぶ。
「だあれ、それ」
そんな名前は知らない。
私じゃない。
◇
「ああ、勿体ない。顔のつくりは美しいのに。この火傷さえなけりゃ、もっと高く売れるのに」
奴隷商は、私の顔を見る度嘆いていた。
檻に差し込まれた食事を見て、重い体を動かす。
家畜かなにかのように地べたに置かれたその皿に、私はそっと手を伸ばした。
檻の内側で、もう何度夜を越えただろう。
日毎市に出されては、知らない誰かに吟味され。顔を顰められて、唾を吐かれて、他の誰かが買われていくのをぼんやりと見送る日々。
檻の中で、何人もの人を迎え入れ、何人もの人を見送った。
誰かが買われていく度に、自分ではなくて良かったと、ほっと息をつく自分がいる。
「逃げないと」
私と同じ時期に、同じ檻に入れられた少年は言った。
体のあちこちに痣を作りながらも、絶望に濁ることの無い瞳で、真っ直ぐ前を見ている人だった。
頑丈な鉄格子の内側にいて、どう逃げようと言うのだろう。
彼も、一人だけでどうにかなるとは思っていなかったらしい。
見張りの目を盗んでは、同じ檻の人達に、逃げる算段を持ちかけている。
私の所へ来た少年に、返事は返せなかった。
逃げる。
どこへ?
もう、帰る場所などありはしないのに。
「労働力として使い潰すなら大人の方が適している。若い奴隷の使い道なんて、まともであることの方が少ない」
返事をしない私に、彼は淡々と語った。
「子供の奴隷は、子供であるから買われるんだ。相当な物好きに当たらない限り、すくすく大人になれるやつなんて居ない」
強い瞳が、静かに私を見つめている。
「それでも、きみは逃げないのか」
その手を取れる勇気があったら、何かが変わっていたのだろうか。
とある日の深夜、突然檻を訪れた奴隷商が、彼と他数人を連れていった。
その後どうなったのか、檻を移された私には、何もわからなかった。
怖いのに、怖くて仕方ないはずなのに、恐怖に怯え震える前に、諦念が心を支配する。
許容量を超えた感情が、私の頭を重くする。
何も出来ない弱さに、乾いた絶望が深くなる。
全てに蓋をしてしまいたかった。
何も考えたくない。
考えても、どうすることも出来ないなら。
食事を差し込まれるその時に、奴隷商が義務的に告げる。
これ以上売れ残るようなら廃棄処分になるらしい。
ただ生かすだけにも金がかかる。
売れないのなら、もう生かしておく理由もないのだと。
解体すればどれかは売れるかもしれないしな、と奴隷商は私を見ながら呟いた。
その目線にはなんの感慨もなく、その口調には侮蔑の色はない。
おおよそ人に向けるような感情など乗せていなかった。
淡々と、商品の使い道を吟味するだけの、単なる独り言。
私は、自分がただの物に過ぎないのだと思い知った。
一体どちらがましなのだろう。
このまま檻の中で死ぬのか、素行の知れぬ主人に買われるのか。
どちらになったとしても、きっと後悔をするのだろう。
その選択権は、私にはとっくにないけれど。
「これを貰う」
その日市を訪れた青年は、私を指さして言った。
檻の扉が開いて、一人外に引きずり出される。
奴隷商が契約の取り決めを交わし、青年に簡単な説明をする。
でも、彼はある言葉に差し掛かった時、ぴくりと眉を跳ね上げた。
「名前? 奴隷に名など不要だろう。ただの奴隷で十分だ」
「左様で。しかしそれだと、他の奴隷と区別する時大変では?」
「そうか。ならば他の奴隷を名で呼べばいい。これに」
前髪を掴まれて顔をあげさせられる。
頭皮が引かれるその痛みに目をつぶると、誰かの指が右頬の火傷を強く擦った。
「こんな醜いものに、名など過ぎた代物だと思わないか」
その嘲笑を受けた時、自分の中の何かが崩れていくのを、確かに感じたのだ。
「行くぞ」
重い手枷から伸びた鎖を、新しい主人が掴んでいる。
引かれたままに従って、裸足のまま、地べたを歩く。
何日も檻の中にいたせいか、直ぐに足がふらつく。
何かに躓いて転べば、そのまま引き摺られた。
『名前はね、願いなの』
いつかの記憶が蘇る。
『イヴが健やかでありますようにって、願い。それは親が与えてくれた、貴方を示すもの。貴方が生涯共にするもの。貴方のすべて』
だから、大切にしてね。
柔らかく笑むお姉さんの顔が、弾けて消えた。
ぽたり、と、涙が垂れた。
顔を俯けて、唇を結んで、その衝動をやり過ごす。
主人に悟られたら、きっと良くない。
それでも嗚咽が漏れそうで、その度に必死に息を止めた。
足元がよろめいて、また引き摺られる。
その度に、同じことを繰り返す。
擦り傷ばかりが増えていく。
『イヴ』はあそこで死んだのだ。
あの時、あの部屋で、炎に炙られて、首を絞められた時に。
今の私は残骸。人の形をした肉塊。
だから、仕方がない。私は私のものでは無い。
私の生も死も、人格も、名前も、あらゆる権利はお金に変えられて。
この人の物になったのだから。
あのね、お姉さん。
ごめんね。
全部、無駄になっちゃったよ。
……ごめんね。
◇
顔は何もされなかった。
体の一部を損なうようなことはなかった。
逆に言えば、それ以外には何でもされた。
朝が来るのが、怖かった。
主人は商家の子息らしかった。別に特段大きな商家ではない。
捨てるほどお金が余っている訳では無いから、相応の値段で買われた私は、飽きればポイと捨てられる類のものではなかったという。
いつか壁越しに、誰かの話を聞いていた。
気軽に殺されないのなら、それが唯一の救いなのだろうか。
それとも、逆に不幸なのだろうか。
曇り空の下で、服を剥がれる。首を絞められる。身体を拓かれる。
愉悦と退屈が混ざったような目に見下ろされて、恐怖に身体が竦み上がる。
助けて。
思わず口をついてしまうと、腹を殴られた。
そこからもう、声は出なかった。
ずっと、心の中で唱え続けていた。
助けて。やめて。助けて。
本当に助けなんて来るわけが無い。知っている。
だって私は奴隷だから。
人の形をした物だから。
殴られて、犯されて、裂かれて、壊されたとしても。
咎める人なんて、いるわけが無いのだ。
夜が開けたばかりの薄暗がりで、桶いっぱいに汲まれた水を見下ろす。
瓶を満たすための水汲みは、奴隷の役割だった。
ガタガタで痣だらけの身体は、普通に動かすのも困難で、休みながら重い桶を運んでいた。
地面に下ろした桶の傍にしゃがみこみ、その揺れる水面を眺める。水を湛えたその縁は存外広く、頭一つ程度なら容易く収められそうだ。
もし、ここに頭を突っ込んだら。
ぼんやりと思考を巡らせる。
もしかして、全部から解放されるのだろうか。
これ以上、苦しまずにすむのだろうか。
湧いてでたその思いつきは、とても魅力的な考えに思えた。一度思ってしまえば、もうそれ以外に考えられない。
全てを諦めた振りをして。
現実から逃避を繰り返して。
何かを変えようと、踏み出すほどの勇気もなくて。
このままずっと、耐え続けるの?
あなたはどうして、死なないの?
庭に出歩く人影は見えない。
静まり返った明け方に独り、息もたえだえの喘鳴が響いている。
倒れた桶からは全ての水が零れ、足も、手も、服も、何もかもを濡らした。
気道に入ってきた水を激しく咳き込んで押し出しながら、耐えきれなくなって横たわる。
張りついた髪を横に流し、濡れた額に手の甲を当てて、ぼんやりと空を見上げれば、暁の空がこちらを見ていた。
──ああ、なんだ。
死ねなかったんだ。
「ふふ、あははは」
嗄れた声を上げながら、途切れ途切れに笑う。
もうちょっとだったのに。
息が出来なくなって、鼻と口から流れ込んだ水が、肺に入っていくのを感じた。
そのまま我慢していたらよかったのに。なんて、諦めが悪いんだろう。
この期に及んで、嫌だ、なんて。
「あなたは、……『私』は」
手をずらして、目元を覆う。
「思ってたより、生き汚いのね」
最後の逃げ道までも、自分で潰すのだろうか。
なんて馬鹿なんだろう。
ここで躊躇したって、何も変わらない。ずっと、同じような日々が繰り返し続くだけ。
泣きそうになるのを堪えて、きつく目を閉じる。
……そうやって、心中でいくら自分を焚き付けてみても。
それでも、もう一度死にたいとは、どうしても思えなかった。
◇
数ヶ月もすれば主人は飽きた。
代わりに、殴られ切り裂かれることが増えた。
治療だけは毎回された。
存外嬲るのに丁度よかったために長くもたせたいのか、かつての性奴を哀れんだのか、単に大枚はたいた奴隷を失うのが惜しいのか、真実は分からない。
分かったところで、何かが変わったりはしない。
傷は治る前に上書きされて、醜くその痕を残していく。
これのいくつかは、もう綺麗には治らないだろう。
月日の感覚はとうに薄れた。もうどれくらい経ったのか分からない。
だんだん自分が消えていくのを感じていた。
心は次第に麻痺していくのに、滅茶苦茶に嬲られる時の痛みは、ちっとも薄れてはくれない。
痛みを与えられる時だけ、無くしたと思った恐怖が首をもたげて、誰にともなく許しを乞う。
滑稽だ。
感情も痛覚も、全部なくなってしまえばいいと、何度思ったか知れない。
早く壊れてしまえば良いのにと、絶えず誰かが囁いている。
中身のない外側だけの嬲り者に、果たして自我など必要なのだろうか。
◇
放り込まれた倉庫は埃まみれで、物に溢れていた。
少し身体を動かすだけで、包帯に隠された蚯蚓脹れから、激痛が走る。
巻かれたばかりの包帯を汚しながら、ずるずると部屋の中を這っていく。
入口から見えない隅の方で息をつこうとしたそこに、大きな姿見はあった。
掛けられた布を引くと、綺麗に磨かれたその中に、今の自分が立っていた。
それをぼうっと見やって、目を伏せる。
なんて醜い生き物だろう。
服から覗く肌は包帯に塗れ、ところどころに血が滲んでいる。
伸びっぱなしの黒髪は、埃が絡まってぐちゃぐちゃだ。
血の気のない左頬と、変色し一部が盛り上がった右頬が、歪な対比を生んでいる。
暗く濁った目には、生気というものが欠けていた。
「ねえ、どうしてまだ、あなたは生きてるの」
鏡の表面に手を当てて、そこに映る己に問う。
ひんやりと冷たい温度が、手を通して熱を奪う。
自我なんて。
感情なんて。
もう、いらないと思っていた。
「……夢が、あるからだよ」
壊れかけの己を自覚してから、抑えていたものが、溢れ出す。
まだ『イヴ』であった頃。その時は、確かに恵まれていた。
だけどそれでも、母の心を傷つけながら生きていた事には変わりはない。
もし。もしも。
誰も傷つけずに、誰からも傷つけられずに、何も考えずに笑えたら。
そんな平穏が、ずっと変わらず続くのならば。
過ぎた幸福なんて望まない。
退屈で構わない。
ただ穏やかな日常が欲しかった。
それだけを夢見ていた。
もう、手遅れじゃないの。
脳裏で誰かが囁いた。
身体から力が抜けて、ずるりとその場に倒れ込む。
次から次へと涙が出てきて、止まらない。
埃まみれの床に、水滴が吸い込まれていく。
視線の先に、小さな絵画が落ちていた。倉庫の奥の、誰にも見られない、神様の絵。
誰に見られることも無く、しまい込まれたこの神様なら。人にすらなれないただの物にも、目を向けてくれるだろうか。
『私』を救って、くれるだろうか。
「……かみさま」
この地獄はいつか終わりますか。