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我が愛しの化け物へ  作者: 砂原樹
【第一部】 魔女と奴隷
24/41

◇とある少女の回顧録 - 幻想

 どこかで誰かの声が聞こえた。

 近いのに遠くて、鮮明なのに、曖昧。

 矛盾している。なのにそうとしか言えないような、不思議な感覚。

 これは一体どっちだろう。

 視界が悪い。狭くて、暗い。


「なんで」


 甘い、美味しそうな匂いがする。


「なに、してんの」


 これはきっと夢の中。

 美味しいものがあるのなら、これは夢に違いない。

 だって現実は、とてもとても痛いから。

 痛いものしかないから。


「君は、城に閉じこもっていたはずだろ」


 誰かがこちらを見ている。

 ティア、とその口が誰かを呼ぶ。


「だあれ、それ」


 そんな名前は知らない。

 私じゃない。





 ◇





「ああ、勿体ない。顔のつくりは美しいのに。この火傷さえなけりゃ、もっと高く売れるのに」


 奴隷商は、私の顔を見る度嘆いていた。

 檻に差し込まれた食事を見て、重い体を動かす。

 家畜かなにかのように地べたに置かれたその皿に、私はそっと手を伸ばした。


 檻の内側で、もう何度夜を越えただろう。


 日毎(いち)に出されては、知らない誰かに吟味され。顔を顰められて、唾を吐かれて、他の誰かが買われていくのをぼんやりと見送る日々。

 檻の中で、何人もの人を迎え入れ、何人もの人を見送った。

 誰かが買われていく度に、自分ではなくて良かったと、ほっと息をつく自分がいる。


「逃げないと」


 私と同じ時期に、同じ檻に入れられた少年は言った。

 体のあちこちに痣を作りながらも、絶望に濁ることの無い瞳で、真っ直ぐ前を見ている人だった。

 頑丈な鉄格子の内側にいて、どう逃げようと言うのだろう。

 彼も、一人だけでどうにかなるとは思っていなかったらしい。

 見張りの目を盗んでは、同じ檻の人達に、逃げる算段を持ちかけている。

 私の所へ来た少年に、返事は返せなかった。


 逃げる。

 どこへ?

 もう、帰る場所などありはしないのに。


「労働力として使い潰すなら大人の方が適している。若い奴隷の使い道なんて、まともであることの方が少ない」


 返事をしない私に、彼は淡々と語った。


「子供の奴隷は、子供であるから買われるんだ。相当な物好きに当たらない限り、すくすく大人になれるやつなんて居ない」


 強い瞳が、静かに私を見つめている。


「それでも、きみは逃げないのか」


 その手を取れる勇気があったら、何かが変わっていたのだろうか。


 とある日の深夜、突然檻を訪れた奴隷商が、彼と他数人を連れていった。

 その後どうなったのか、檻を移された私には、何もわからなかった。


 怖いのに、怖くて仕方ないはずなのに、恐怖に怯え震える前に、諦念が心を支配する。

 許容量を超えた感情が、私の頭を重くする。

 何も出来ない弱さに、乾いた絶望が深くなる。

 全てに蓋をしてしまいたかった。

 何も考えたくない。

 考えても、どうすることも出来ないなら。


 食事を差し込まれるその時に、奴隷商が義務的に告げる。

 これ以上売れ残るようなら廃棄処分になるらしい。

 ただ生かすだけにも金がかかる。

 売れないのなら、もう生かしておく理由もないのだと。

 解体すれ(バラせ)ばどれかは売れるかもしれないしな、と奴隷商は私を見ながら呟いた。

 その目線にはなんの感慨もなく、その口調には侮蔑の色はない。

 おおよそ人に向けるような感情など乗せていなかった。

 淡々と、商品の使い道を吟味するだけの、単なる独り言。

 私は、自分がただの物に過ぎないのだと思い知った。


 一体どちらがましなのだろう。

 このまま檻の中で死ぬのか、素行の知れぬ主人に買われるのか。

 どちらになったとしても、きっと後悔をするのだろう。

 その選択権は、私にはとっくにないけれど。






「これを貰う」


 その日市を訪れた青年は、私を指さして言った。

 檻の扉が開いて、一人外に引きずり出される。

 奴隷商が契約の取り決めを交わし、青年に簡単な説明をする。

 でも、彼はある言葉に差し掛かった時、ぴくりと眉を跳ね上げた。


「名前? 奴隷に名など不要だろう。ただの奴隷で十分だ」

「左様で。しかしそれだと、他の奴隷と区別する時大変では?」

「そうか。ならば他の奴隷を名で呼べばいい。これに」


 前髪を掴まれて顔をあげさせられる。

 頭皮が引かれるその痛みに目をつぶると、誰かの指が右頬の火傷を強く擦った。


「こんな醜いものに、名など過ぎた代物だと思わないか」


 その嘲笑を受けた時、自分の中の何かが崩れていくのを、確かに感じたのだ。






「行くぞ」


 重い手枷から伸びた鎖を、新しい主人が掴んでいる。

 引かれたままに従って、裸足のまま、地べたを歩く。

 何日も檻の中にいたせいか、直ぐに足がふらつく。

 何かに躓いて転べば、そのまま引き摺られた。


『名前はね、願いなの』


 いつかの記憶が蘇る。


『イヴが健やかでありますようにって、願い。それは親が与えてくれた、貴方を示すもの。貴方が生涯共にするもの。貴方のすべて』


 だから、大切にしてね。

 柔らかく笑むお姉さんの顔が、弾けて消えた。


 ぽたり、と、涙が垂れた。

 顔を俯けて、唇を結んで、その衝動をやり過ごす。

 主人に悟られたら、きっと良くない。

 それでも嗚咽が漏れそうで、その度に必死に息を止めた。

 足元がよろめいて、また引き摺られる。

 その度に、同じことを繰り返す。

 擦り傷ばかりが増えていく。


『イヴ』はあそこで死んだのだ。

 あの時、あの部屋で、炎に炙られて、首を絞められた時に。

 今の私は残骸。人の形をした肉塊。


 だから、仕方がない。私は私のものでは無い。

 私の生も死も、人格も、名前も、あらゆる権利はお金に変えられて。

 この人の物になったのだから。




 あのね、お姉さん。

 ごめんね。

 全部、無駄になっちゃったよ。


 ……ごめんね。






 ◇






 顔は何もされなかった。

 体の一部を損なうようなことはなかった。

 逆に言えば、それ以外には何でもされた。

 朝が来るのが、怖かった。


 主人は商家の子息らしかった。別に特段大きな商家ではない。

 捨てるほどお金が余っている訳では無いから、相応の値段で買われた私は、飽きればポイと捨てられる類のものではなかったという。

 いつか壁越しに、誰かの話を聞いていた。

 気軽に殺されないのなら、それが唯一の救いなのだろうか。

 それとも、逆に不幸なのだろうか。



 曇り空の下で、服を剥がれる。首を絞められる。身体を拓かれる。

 愉悦と退屈が混ざったような目に見下ろされて、恐怖に身体が竦み上がる。

 助けて。

 思わず口をついてしまうと、腹を殴られた。

 そこからもう、声は出なかった。

 ずっと、心の中で唱え続けていた。

 助けて。やめて。助けて。

 本当に助けなんて来るわけが無い。知っている。

 だって私は奴隷だから。

 人の形をした物だから。

 殴られて、犯されて、裂かれて、壊されたとしても。

 咎める人なんて、いるわけが無いのだ。



 夜が開けたばかりの薄暗がりで、桶いっぱいに汲まれた水を見下ろす。

 (かめ)を満たすための水汲みは、奴隷の役割だった。

 ガタガタで痣だらけの身体は、普通に動かすのも困難で、休みながら重い桶を運んでいた。


 地面に下ろした桶の傍にしゃがみこみ、その揺れる水面を眺める。水を湛えたその縁は存外広く、頭一つ程度なら容易く収められそうだ。

 もし、ここに頭を突っ込んだら。

 ぼんやりと思考を巡らせる。


 もしかして、全部から解放されるのだろうか。

 これ以上、苦しまずにすむのだろうか。


 湧いてでたその思いつきは、とても魅力的な考えに思えた。一度思ってしまえば、もうそれ以外に考えられない。


 全てを諦めた振りをして。

 現実から逃避を繰り返して。

 何かを変えようと、踏み出すほどの勇気もなくて。

 このままずっと、耐え続けるの?


 あなたはどうして、死なないの?






 庭に出歩く人影は見えない。

 静まり返った明け方に独り、息もたえだえの喘鳴が響いている。

 倒れた桶からは全ての水が零れ、足も、手も、服も、何もかもを濡らした。

 気道に入ってきた水を激しく咳き込んで押し出しながら、耐えきれなくなって横たわる。

 張りついた髪を横に流し、濡れた額に手の甲を当てて、ぼんやりと空を見上げれば、暁の空がこちらを見ていた。


 ──ああ、なんだ。

 死ねなかったんだ。


「ふふ、あははは」


 嗄れた声を上げながら、途切れ途切れに笑う。

 もうちょっとだったのに。

 息が出来なくなって、鼻と口から流れ込んだ水が、肺に入っていくのを感じた。

 そのまま我慢していたらよかったのに。なんて、諦めが悪いんだろう。

 この期に及んで、嫌だ、なんて。


「あなたは、……『私』は」


 手をずらして、目元を覆う。


「思ってたより、生き汚いのね」


 最後の逃げ道までも、自分で潰すのだろうか。

 なんて馬鹿なんだろう。

 ここで躊躇したって、何も変わらない。ずっと、同じような日々が繰り返し続くだけ。

 泣きそうになるのを堪えて、きつく目を閉じる。


 ……そうやって、心中でいくら自分を焚き付けてみても。

 それでも、もう一度死にたいとは、どうしても思えなかった。





 ◇





 数ヶ月もすれば主人は飽きた。

 代わりに、殴られ切り裂かれることが増えた。

 治療だけは毎回された。

 存外嬲るのに丁度よかったために長くもたせたいのか、かつての性奴を哀れんだのか、単に大枚はたいた奴隷を失うのが惜しいのか、真実は分からない。

 分かったところで、何かが変わったりはしない。

 傷は治る前に上書きされて、醜くその痕を残していく。

 これのいくつかは、もう綺麗には治らないだろう。


 月日の感覚はとうに薄れた。もうどれくらい経ったのか分からない。

 だんだん自分が消えていくのを感じていた。

 心は次第に麻痺していくのに、滅茶苦茶に嬲られる時の痛みは、ちっとも薄れてはくれない。

 痛みを与えられる時だけ、無くしたと思った恐怖が首をもたげて、誰にともなく許しを乞う。

 滑稽だ。

 感情も痛覚も、全部なくなってしまえばいいと、何度思ったか知れない。

 早く壊れてしまえば良いのにと、絶えず誰かが囁いている。


 中身のない外側だけの嬲り者に、果たして自我など必要なのだろうか。






 ◇





 放り込まれた倉庫は埃まみれで、物に溢れていた。

 少し身体を動かすだけで、包帯に隠された蚯蚓脹れから、激痛が走る。

 巻かれたばかりの包帯を汚しながら、ずるずると部屋の中を這っていく。

 入口から見えない隅の方で息をつこうとしたそこに、大きな姿見はあった。

 掛けられた布を引くと、綺麗に磨かれたその中に、今の自分が立っていた。

 それをぼうっと見やって、目を伏せる。


 なんて醜い生き物だろう。


 服から覗く肌は包帯に塗れ、ところどころに血が滲んでいる。

 伸びっぱなしの黒髪は、埃が絡まってぐちゃぐちゃだ。

 血の気のない左頬と、変色し一部が盛り上がった右頬が、歪な対比を生んでいる。

 暗く濁った目には、生気というものが欠けていた。


「ねえ、どうしてまだ、あなたは生きてるの」


 鏡の表面に手を当てて、そこに映る己に問う。

 ひんやりと冷たい温度が、手を通して熱を奪う。


 自我なんて。

 感情なんて。

 もう、いらないと思っていた。


「……夢が、あるからだよ」


 壊れかけの己を自覚してから、抑えていたものが、溢れ出す。


 まだ『イヴ』であった頃。その時は、確かに恵まれていた。

 だけどそれでも、母の心を傷つけながら生きていた事には変わりはない。


 もし。もしも。

 誰も傷つけずに、誰からも傷つけられずに、何も考えずに笑えたら。

 そんな平穏が、ずっと変わらず続くのならば。


 過ぎた幸福なんて望まない。

 退屈で構わない。

 ただ穏やかな日常が欲しかった。

 それだけを夢見ていた。


 もう、手遅れじゃないの。

 脳裏で誰かが囁いた。


 身体から力が抜けて、ずるりとその場に倒れ込む。

 次から次へと涙が出てきて、止まらない。

 埃まみれの床に、水滴が吸い込まれていく。


 視線の先に、小さな絵画が落ちていた。倉庫の奥の、誰にも見られない、神様の絵。

 誰に見られることも無く、しまい込まれたこの神様なら。人にすらなれないただの物にも、目を向けてくれるだろうか。

 『私』を救って、くれるだろうか。


「……かみさま」


 この地獄はいつか終わりますか。




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