◇とある少女の回顧録 - 喪失
ここから四話の類似タイトルの間、残酷描写が図抜けてえげつないです。精神に余裕があるときにどうぞ。
空っぽの器にはヒビが入っている。
中身はそこから流れ出してしまって、いつも満たされることがない。
いつもは見ないふりをしているけれど、時々耐え難い程の激情が湧いてきて、身体の自由が効かなくなる。
欲しい。
欲しいの。
私に情けをくれませんか。
あなたの幸せを、私に分けてはくれませんか。
その温かい身体で。
その甘やかな血液で。
あなたというすべてで。
どうか、私を充たして。
◇
「イヴ」
呼ばれた名に振り向くと、大きな手にフードを取られた。
途端に明るさを増す視界に目が眩む。ぎゃ、と叫んで目を抑えると、後ろからケラケラと笑う声がした。
「まぶしい……」
「まーたこんなもの被って。折角のかわいーお顔が見れないじゃないの」
ほら、こっち向いて。慣れてきた目を擦りながら声の方へ視線を上げると、見慣れたお姉さんと目が合った。
よくお世話になっている雑貨屋のお姉さんは、途端に破顔する。
「あらあら本当にまぁイヴは可愛いねぇ。お人形さんみたい。ああ、私もこんな妹欲しかった! 娘でも可!」
満面の笑顔で褒めそやす言葉の数々が、開けた世界の眩しさが、なんだかそわそわと落ち着かない。
目を泳がせながらまたフードを被れば、ああ! と非難めいた声が上がった。
「もう、どうして隠すかなぁ。だから、顔を、見せなさい、って!」
「えっ、う、ひっぱら、ない、でっ」
フードの端を握りしめて必死で首を振るも、抵抗虚しく押し負ける。皺くちゃになった頭を抑えて恨みがましく見上げれば、お姉さんは勝ち誇ったように笑った。
「私の勝ちー。イヴは今後顔隠すの禁止ね」
「どうして」
「どうしてって、そんなの私が見たいからよ。もー本当に天使。可愛い。目の保養」
「うそ」
「嘘ついてどうするの。お姉さんはお世辞を言う理由がありません」
「だって、お母さんは私の顔きらいだもの」
言った途端、空気が凍る。笑顔を崩したお姉さんは、一転して心配そうに私を見下ろした。
「ああ、あの母親ねぇ……。イヴ、大丈夫? あの女に酷いことされてない? 危なくなったらいつでも逃げてきなね?」
「危なく、ないよ」
顔を隠していれば、この顔さえ晒さなければ、お母さんは普通だ。
怒鳴られることも、叩かれることも、泣かれることもない。
だから、あまり悪く言わないで欲しい。
お母さんが私を嫌いでも、私はお母さんが好きだから。
「危なくなくても逃げてきていいよ。家にいても息が詰まるでしょう。ああ、でもフードはとって」
「でも、お母さんが被ってなさいって」
「あんな女のことなんて気にしなくていいの……って言いたいんだけどね。あんなのでもあんたの母親だもんね。はぁ、仕方ないか」
「うん」
どこか不満げに唇を尖らせていたお姉さんは、不意に気づいたかのように声を上げた。
「あっと、引き留めてごめんね。そういえばイヴは何か用事だった?」
「用事は……ない」
お母さんが私を見たくないだろうから出てきただけだ。やることも行くあてもない。
「じゃあ、またうちで勉強見てあげようか」
思わぬ提案に、目を瞬かせる。顔を上げて表情を伺うと、お姉さんは朗らかに笑った。
「いいの?」
「ふふふ、お姉さんに任せなさい。今日は一日お休みです」
「……本当にいいの?」
せっかくのお休みを、私なんかに使っちゃって。
「子供が遠慮なんてしなくていいの。私がやりたくてやってるんだから」
「でも」
「じゃあ、おままごとしよう。イヴは私の妹役ね。ふふ、妹に勉強を教えるなんて夢みたい」
ねぇ、イヴ。
呼び掛けに首を傾げる。
「知識さえあれば、一人で生きていけるようになるから。頑張ろうね」
その言葉が、笑みが、優しさが。擽ったくて、眩しくて堪らなくて。
服の裾を握りしめて俯きながら、小さくありがとうと呟いた。
◇
夢を見ている。
これはなんだろう。走馬燈だろうか。
いや、分かっている。これは呪いだ。
中和出来なかったために繰り返す、過去の光景と感覚。その時の思いと、残滓。
忘れかけていたことも、忘れたかったことも暴かれて、掘り起こされて、記憶を追体験する。際限なく、ずっと、繰り返し。
現実が遠い。
誰かの目を借りているかのように、目に見えるもの全てに現実味がない。
誰かの体に意識だけ植え付けられたかのように、考えた訳でもないのに体が動く。
これが本当に現実なのかも分からない。
もしかしたら、こちらの方が幻なのかもしれない。
過去と現在が混ざり合う。
地面を踏み締めた足の感覚は、今のものなのか、ただの記憶か。
見上げた月が青いのは、果たしてどちらか。
胸中に広がる寂寞は。
引き攣れるような痛みは。
耐え難いほどの、この渇きは。
もう、分からない。
境界がわからなくなる。
全てを放り捨てるように、自分の内側にずぶずぶと沈んでいく。
どこで道を間違ったのだろう。
どうしていれば良かったのだろう。
私の始まりは、ただの町娘だった筈なのに。
場面が切り替わる。
だんだん目線が高くなっていく。
六歳、七歳、八歳、九歳。思えばきっと、そんなに遠くはないのだろう。
六年か七年昔の話。少なくとも私の半生は、確かに幸せだった。
幸せだったのだと、今なら言える。
『あらイヴちゃん。髪伸びたねぇ。おいで。結ってあげる』
時々顔を合わせては、何かしら物をくれたり、世話を焼いてくれるおばさん。
『イヴ、何か食べたいものあるか? 食材余ってるから作ってやるよ』
雨宿りに軒下を借りていた時、暗くなってもいつまでも動かない私を見兼ねて、そう言ってくれた料理屋のおじさん。
『苦しくなったら溜め込まずにおいで。話を聞くことはできるから』
教会の神父様は、そう言って口を引き結ぶ私の背を、優しく摩ってくれていた。
全ての人に受け入れられていた訳では無い。
でも、私の周りは優しかった。
本当に、涙が出るほど優しかった。
救われていた。ずっと。いつまでも顧みられない寂しさを、補ってあまりあるほどに。
本当に欲しかったたった一人の心には、ついに望まれることはなかったけれど。
「お母さん……?」
声が聞こえた。
幼い自分の声だった。
見慣れたはずの自分の家は、薄暗く静まり返っている。窓の一切がカーテンをかけられ、その中でぼんやりと蝋燭の明かりだけが、不気味に浮かんでいる。
燭台を持つ母の姿は、幼い自分にはとても大きく見えた。
嫌だ。
この先は見たくない。
そう思っても身体は動かずに、身を守ることも出来ず。
ただ棒立ちになって、無情にも起こるこの後を、ただ粛々と待つことしか出来ない。
目を閉じても意味が無い。
耳を塞いでも意味が無い。
だって、今起きている出来事ではないから。
あの時の私は、目も耳も塞いではいなかったから。
それでも、記憶に過ぎないそれは、音も匂いも、感覚も全てが鮮明で。
自由も効かない幼い身体の中に、確かに今の私はいた。
床に押さえつけられた身体に、最早抜け出す術はない。
怨嗟を瞳に宿した母の姿は、悪魔のようだった。
揺らめく炎が近づいてくる。
身を引こうとした身体は動かず、目に飛び込んできたその紅蓮は、耐え難い痛みとともに、皮膚を焦がした。
堪らずあげた絶叫は、直ぐに口に布を詰められて小さくなる。
咄嗟に閉じた目の上を、顔の右半分を、蝋燭の炎がなぞっていく。
漏れ出た涙は火を消すには至らず、焦げた皮膚に染み渡り痛みを増しただけだった。
痛い。
熱い。
怖い。
やめて。
ごめんなさい。
ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。
「どうして、貴方が」
声に滲む涙の色に、泣いているのだと分かった。
「違う。そうよ、違うの。だって、貴方がっ……私、は」
薄く開いた瞳に、暗がりに上塗りされた人影が写った。
「お前が」
明かりが消えている。
「お前など」
右目が、見えない。
「産まなければ、良かったっ」
首が締まる。
息ができない。
ぱたぱたと、頬に水滴が落ちてきた。
自分の目から流れた涙が、その水滴を押し流した。
ごめんなさい。
泣かせてしまってごめんなさい。
産まれてしまって、ごめんなさい。
◇
気づいた時には、見慣れない天井を見上げていた。
消毒液の匂いが鼻に着く。
目を開いているはずなのに視界が狭くて、持ち上げた右手で顔に手を伸ばす。
触れた右目は、包帯に覆われていた。
少ししてから入ってきた診療所の先生に、簡単に説明をされた。
口を塞がれる前の悲鳴を聞いて、近隣の人が助けてくれたこと。
気を失った私をここに運んだこと。
かろうじて一命は取り留めたものの、顔の火傷は恐らく残るだろうこと。
私はその全てに、そうですかと、無機質に返した。
母の安否は知らされなかった。
母は父に捨てられてから、おかしくなったらしい。
そう誰かが話しているのを、いつか隠れて聞いていた。
私の顔は、父にとても良く似ているのだという。
もうぼんやりとした記憶しかない、その父に。
だから母は、私の顔が嫌いだった。
初めはそんなに、酷くはなかったのに。
私の顔を見て顔を顰めるくらいだった母は、フードを被ることを強要するようになった。それでも顔さえ隠せばある程度は接してくれていたのに、いつからかそれすらも無くなっていった。
私が成長していくせいなのか。母の状態が悪化していっていたのか。
きっと、そのどちらもなのだろう。
『貴方はどんどん似ていくのね。忌々しい』
憎悪にたぎるその声が、いつまでも耳から離れない。
フードを被って顔を隠しても、髪を伸ばして父の印象を遠ざけようとしても、結局、意味はなかったのだろう。
ふと横を見ると、窓の外は柔らかい日差しが差していた。
茂った木々が光を受けて、キラキラと輝いている。
手を伸ばし、開けた窓からは微かな風が吹き込んでくる。穏やかで優しい色をした風景が、ただそこにあった。
それを見る私の中は、何もかもが空虚だった。
数日後私の元を訪れた母は、泣き腫らした目とガラガラの声をしていた。
扉を潜ってから絶えず謝り続ける母は、ずっと私を見ないように視線を逸らし続けていたけれど、呼ぶ名前は父のものではなく、私のものだった。
それは演技ではなかった。
紛れもなく本物だった。
やっと、私を見てくれるようになったのだと、泣きそうになりながら手を伸ばして。
だけど。
包帯に塗れた私をその目に映した時に、少しだけ口元が上がったのを、よく覚えている。
その、暗い愉悦の表情を。
それもまた、本物だったのだ。
分かっていた。
母が必死に私を、自分の子だと認識しようと努めていたことも。
それでも尚、私と父を切り離せないことも。
ずっと不安定な母を傍で見てきたから、分かってしまった。
一度壊れたものは、そう簡単には直せない。
この関係も。壊れてしまった、母も。
それでも、気づかないふりをした。
見ないままでいたかった。
それで、本物になるわけでもないのに。
包帯をとっても、右目はもう見えない。
ただぼんやりと、光だけを感じている。
連れ帰られた家の中で、いつもより優しい母と共に、日々を送る。
二人分の食事が、食卓の上に並ぶ。
庭に干された洗濯物が、そよ風に吹かれて揺れている。
眩しいくらいに晴れた青空が、時々、母の顔を暗くする。
一見穏やかなこの日々も、全てがいつか、儚く散ってしまうことを知っている。
それでも、受け入れることが出来ない。
すべて無かったことにして。
仮初の平穏に、縋って。
だから、当然の結果だったのだろう。
家に戻ってから程なくして、私は売られた。