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我が愛しの化け物へ  作者: 砂原樹
【第一部】 魔女と奴隷
23/41

◇とある少女の回顧録 - 喪失

ここから四話の類似タイトルの間、残酷描写が図抜けてえげつないです。精神に余裕があるときにどうぞ。

 空っぽの器にはヒビが入っている。

 中身はそこから流れ出してしまって、いつも満たされることがない。

 いつもは見ないふりをしているけれど、時々耐え難い程の激情が湧いてきて、身体の自由が効かなくなる。


 欲しい。

 欲しいの。


 私に情けをくれませんか。

 あなたの幸せを、私に分けてはくれませんか。


 その温かい身体で。

 その甘やかな血液で。

 あなたというすべてで。


 どうか、私を充たして。





 ◇





「イヴ」


 呼ばれた名に振り向くと、大きな手にフードを取られた。

 途端に明るさを増す視界に目が眩む。ぎゃ、と叫んで目を抑えると、後ろからケラケラと笑う声がした。


「まぶしい……」

「まーたこんなもの被って。折角のかわいーお顔が見れないじゃないの」


 ほら、こっち向いて。慣れてきた目を擦りながら声の方へ視線を上げると、見慣れたお姉さんと目が合った。

 よくお世話になっている雑貨屋のお姉さんは、途端に破顔する。


「あらあら本当にまぁイヴは可愛いねぇ。お人形さんみたい。ああ、私もこんな妹欲しかった! 娘でも可!」


 満面の笑顔で褒めそやす言葉の数々が、開けた世界の眩しさが、なんだかそわそわと落ち着かない。

 目を泳がせながらまたフードを被れば、ああ! と非難めいた声が上がった。


「もう、どうして隠すかなぁ。だから、顔を、見せなさい、って!」

「えっ、う、ひっぱら、ない、でっ」


 フードの端を握りしめて必死で首を振るも、抵抗虚しく押し負ける。皺くちゃになった頭を抑えて恨みがましく見上げれば、お姉さんは勝ち誇ったように笑った。


「私の勝ちー。イヴは今後顔隠すの禁止ね」

「どうして」

「どうしてって、そんなの私が見たいからよ。もー本当に天使。可愛い。目の保養」

「うそ」

「嘘ついてどうするの。お姉さんはお世辞を言う理由がありません」

「だって、お母さんは私の顔きらいだもの」


 言った途端、空気が凍る。笑顔を崩したお姉さんは、一転して心配そうに私を見下ろした。


「ああ、あの母親ねぇ……。イヴ、大丈夫? あの女に酷いことされてない? 危なくなったらいつでも逃げてきなね?」

「危なく、ないよ」


 顔を隠していれば、この顔さえ晒さなければ、お母さんは普通だ。

 怒鳴られることも、叩かれることも、泣かれることもない。

 だから、あまり悪く言わないで欲しい。

 お母さんが私を嫌いでも、私はお母さんが好きだから。


「危なくなくても逃げてきていいよ。家にいても息が詰まるでしょう。ああ、でもフードはとって」

「でも、お母さんが被ってなさいって」

「あんな女のことなんて気にしなくていいの……って言いたいんだけどね。あんなのでもあんたの母親だもんね。はぁ、仕方ないか」

「うん」


 どこか不満げに唇を尖らせていたお姉さんは、不意に気づいたかのように声を上げた。


「あっと、引き留めてごめんね。そういえばイヴは何か用事だった?」

「用事は……ない」


 お母さんが私を見たくないだろうから出てきただけだ。やることも行くあてもない。


「じゃあ、またうちで勉強見てあげようか」


 思わぬ提案に、目を瞬かせる。顔を上げて表情を伺うと、お姉さんは朗らかに笑った。


「いいの?」

「ふふふ、お姉さんに任せなさい。今日は一日お休みです」

「……本当にいいの?」


 せっかくのお休みを、私なんかに使っちゃって。


「子供が遠慮なんてしなくていいの。私がやりたくてやってるんだから」

「でも」

「じゃあ、おままごとしよう。イヴは私の妹役ね。ふふ、妹に勉強を教えるなんて夢みたい」


 ねぇ、イヴ。

 呼び掛けに首を傾げる。


「知識さえあれば、一人で生きていけるようになるから。頑張ろうね」


 その言葉が、笑みが、優しさが。擽ったくて、眩しくて堪らなくて。

 服の裾を握りしめて俯きながら、小さくありがとうと呟いた。





 ◇





 夢を見ている。

 これはなんだろう。走馬燈だろうか。

 いや、分かっている。これは呪いだ。

 中和出来なかったために繰り返す、過去の光景と感覚。その時の思いと、残滓。

 忘れかけていたことも、忘れたかったことも暴かれて、掘り起こされて、記憶を追体験する。際限なく、ずっと、繰り返し。


 現実が遠い。

 誰かの目を借りているかのように、目に見えるもの全てに現実味がない。

 誰かの体に意識だけ植え付けられたかのように、考えた訳でもないのに体が動く。

 これが本当に現実なのかも分からない。

 もしかしたら、こちらの方が幻なのかもしれない。


 過去と現在が混ざり合う。

 地面を踏み締めた足の感覚は、今のものなのか、ただの記憶か。

 見上げた月が青いのは、果たしてどちらか。

 胸中に広がる寂寞は。

 引き攣れるような痛みは。

 耐え難いほどの、この渇きは。

 もう、分からない。

 境界がわからなくなる。

 全てを放り捨てるように、自分の内側にずぶずぶと沈んでいく。


 どこで道を間違ったのだろう。

 どうしていれば良かったのだろう。

 私の始まりは、ただの町娘だった筈なのに。






 場面が切り替わる。

 だんだん目線が高くなっていく。

 六歳、七歳、八歳、九歳。思えばきっと、そんなに遠くはないのだろう。

 六年か七年昔の話。少なくとも私の半生は、確かに幸せだった。

 幸せだったのだと、今なら言える。


『あらイヴちゃん。髪伸びたねぇ。おいで。結ってあげる』


 時々顔を合わせては、何かしら物をくれたり、世話を焼いてくれるおばさん。


『イヴ、何か食べたいものあるか? 食材余ってるから作ってやるよ』


 雨宿りに軒下を借りていた時、暗くなってもいつまでも動かない私を見兼ねて、そう言ってくれた料理屋のおじさん。


『苦しくなったら溜め込まずにおいで。話を聞くことはできるから』


 教会の神父様は、そう言って口を引き結ぶ私の背を、優しく摩ってくれていた。


 全ての人に受け入れられていた訳では無い。

 でも、私の周りは優しかった。

 本当に、涙が出るほど優しかった。

 救われていた。ずっと。いつまでも顧みられない寂しさを、補ってあまりあるほどに。


 本当に欲しかったたった一人の心には、ついに望まれることはなかったけれど。


「お母さん……?」


 声が聞こえた。

 幼い自分の声だった。

 見慣れたはずの自分の家は、薄暗く静まり返っている。窓の一切がカーテンをかけられ、その中でぼんやりと蝋燭の明かりだけが、不気味に浮かんでいる。

 燭台を持つ母の姿は、幼い自分にはとても大きく見えた。


 嫌だ。

 この先は見たくない。

 そう思っても身体は動かずに、身を守ることも出来ず。

 ただ棒立ちになって、無情にも起こるこの後を、ただ粛々と待つことしか出来ない。

 目を閉じても意味が無い。

 耳を塞いでも意味が無い。

 だって、今起きている出来事ではないから。

 あの時の私は、目も耳も塞いではいなかったから。


 それでも、記憶に過ぎないそれは、音も匂いも、感覚も全てが鮮明で。

 自由も効かない幼い身体の中に、確かに今の私はいた。




 床に押さえつけられた身体に、最早抜け出す術はない。

 怨嗟を瞳に宿した母の姿は、悪魔のようだった。


 揺らめく炎が近づいてくる。

 身を引こうとした身体は動かず、目に飛び込んできたその紅蓮は、耐え難い痛みとともに、皮膚を焦がした。

 堪らずあげた絶叫は、直ぐに口に布を詰められて小さくなる。

 咄嗟に閉じた目の上を、顔の右半分を、蝋燭の炎がなぞっていく。

 漏れ出た涙は火を消すには至らず、焦げた皮膚に染み渡り痛みを増しただけだった。


 痛い。

 熱い。

 怖い。

 やめて。

 ごめんなさい。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。


「どうして、貴方が」


 声に滲む涙の色に、泣いているのだと分かった。


「違う。そうよ、違うの。だって、貴方がっ……私、は」


 薄く開いた瞳に、暗がりに上塗りされた人影が写った。


「お前が」


 明かりが消えている。


「お前など」


 右目が、見えない。


「産まなければ、良かったっ」


 首が締まる。

 息ができない。


 ぱたぱたと、頬に水滴が落ちてきた。

 自分の目から流れた涙が、その水滴を押し流した。


 ごめんなさい。

 泣かせてしまってごめんなさい。


 産まれてしまって、ごめんなさい。






 ◇






 気づいた時には、見慣れない天井を見上げていた。

 消毒液の匂いが鼻に着く。

 目を開いているはずなのに視界が狭くて、持ち上げた右手で顔に手を伸ばす。

 触れた右目は、包帯に覆われていた。


 少ししてから入ってきた診療所の先生に、簡単に説明をされた。

 口を塞がれる前の悲鳴を聞いて、近隣の人が助けてくれたこと。

 気を失った私をここに運んだこと。

 かろうじて一命は取り留めたものの、顔の火傷は恐らく残るだろうこと。

 私はその全てに、そうですかと、無機質に返した。

 母の安否は知らされなかった。



 母は父に捨てられてから、おかしくなったらしい。

 そう誰かが話しているのを、いつか隠れて聞いていた。

 私の顔は、父にとても良く似ているのだという。

 もうぼんやりとした記憶しかない、その父に。

 だから母は、私の顔が嫌いだった。


 初めはそんなに、酷くはなかったのに。

 私の顔を見て顔を顰めるくらいだった母は、フードを被ることを強要するようになった。それでも顔さえ隠せばある程度は接してくれていたのに、いつからかそれすらも無くなっていった。

 私が成長していくせいなのか。母の状態が悪化していっていたのか。

 きっと、そのどちらもなのだろう。


『貴方はどんどん似ていくのね。忌々しい』


 憎悪にたぎるその声が、いつまでも耳から離れない。

 フードを被って顔を隠しても、髪を伸ばして父の印象を遠ざけようとしても、結局、意味はなかったのだろう。


 ふと横を見ると、窓の外は柔らかい日差しが差していた。

 茂った木々が光を受けて、キラキラと輝いている。

 手を伸ばし、開けた窓からは微かな風が吹き込んでくる。穏やかで優しい色をした風景が、ただそこにあった。

 それを見る私の中は、何もかもが空虚だった。






 数日後私の元を訪れた母は、泣き腫らした目とガラガラの声をしていた。

 扉を潜ってから絶えず謝り続ける母は、ずっと私を見ないように視線を逸らし続けていたけれど、呼ぶ名前は父のものではなく、私のものだった。

 それは演技ではなかった。

 紛れもなく本物だった。

 やっと、私を見てくれるようになったのだと、泣きそうになりながら手を伸ばして。

 だけど。


 包帯に塗れた私をその目に映した時に、少しだけ口元が上がったのを、よく覚えている。

 その、暗い愉悦の表情を。

 それもまた、本物だったのだ。


 分かっていた。

 母が必死に私を、自分の子だと認識しようと努めていたことも。

 それでも尚、私と父を切り離せないことも。

 ずっと不安定な母を傍で見てきたから、分かってしまった。

 一度壊れたものは、そう簡単には直せない。

 この関係も。壊れてしまった、母も。


 それでも、気づかないふりをした。

 見ないままでいたかった。

 それで、本物になるわけでもないのに。





 包帯をとっても、右目はもう見えない。

 ただぼんやりと、光だけを感じている。


 連れ帰られた家の中で、いつもより優しい母と共に、日々を送る。

 二人分の食事が、食卓の上に並ぶ。

 庭に干された洗濯物が、そよ風に吹かれて揺れている。

 眩しいくらいに晴れた青空が、時々、母の顔を暗くする。

 一見穏やかなこの日々も、全てがいつか、儚く散ってしまうことを知っている。

 それでも、受け入れることが出来ない。


 すべて無かったことにして。

 仮初の平穏に、縋って。


 だから、当然の結果だったのだろう。

 家に戻ってから程なくして、私は売られた。


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