◆2
「──っ」
何かを考える余裕なんて、なかった。
頭上に掲げられた刃の、その矛先を理解するより早く、反射的に体が動く。
血塗れの腕を突き出して、目の前の身体を思い切り突き飛ばす。
振り下ろされた刃先は軌道がそれて、頬の肉を抉っていく。
押されてバランスを崩した身体は、いとも容易く後ろに倒れた。
「……なんで」
仰向けに転がった少女は、すぐに起き上がろうと半身を起こして、一度潰れた。
不思議そうに瞬きをしたその目は、自らの右肩に向けられている。
右腕、使えないのか。
腕の代わりに収まった白骨は、義手でもなんでもないらしい。
動く気配のない骨は体に沿ってぶら下がったまま、微塵も動く気配がない。
地面に擦れてカタカタと軽い音をさせる様子は、ぞっとするものがあった。
服は前面だけ一部が破れており、覗いた左足に、ベルトで括り付けられたナイフが見える。
「なに、してんの」
思考が纏まらない。
色んなものが入り乱れて、ぶつかり合って、元の形が分からない。
何を考えればいいのか、分からない。
どうすればいいのか分からない。
頭がどうにかなりそうだ。
ただ頭の隅で生まれた疑問が、答えを吟味する過程も経ずに、口から垂れ流されている。
「君は、城に閉じこもっていたはずだろ」
いまだ起き上がろうと藻掻く少女が、声につられてこちらを向いた。
見慣れぬ火傷の跡が、見慣れた顔に乗っている。
「ティア」
遠くを見るような虚ろな瞳が、無感動に瞬いた。
「だあれ、それ」
その言葉に、口を引き結ぶ。
舌足らずな声は、囁きのように小さく、カサカサに掠れている。
だけどよく聞けば、それは確かに彼女の声だった。
唐突に、すべてが繋がる。
いつか見た夜の、濃茶のクロークを羽織った後ろ姿。
城から出る時に遠目で見た影は、やけにふらふらと覚束無い足取りをしていた。
ああ、なるほど。
『時間がかかるほど、駄目になる。狂っていく』
なるほど。
『逃げて。ここから。──私から』
一体、いつからこうだったんだろう。
『本当の意味で化け物になったんだ』
覆っていた物を取り払い、月光に晒された少女の身体は、まるでよくできた美術品のようだ。
人の腕をもぎ取られ、変わりに垂れ下がる乳白色の骨は、恐ろしくありながらも、彼女の肌と服の白にどこか調和している。背に縫い付けられた翼が、人とはかけ離れた印象を、更に強調しているようだった。
一方で、残された濃い火傷の跡は、彼女が人であることを印象付け。
理性を失い、血を求め、澱んだ瞳には、どこまでも暗い狂気が宿っている。
どうしようもなく歪んでいておぞましく、なのにどこか美しいこれは。
確かに、化け物だ。
「──っおい、アル!」
不意に至近距離から、よく知った声が聞こえた。
緩慢に顔を上げると、鋭い視線が、俺を睨みすえていた。
「ぼーっとしてんな! 逃げんぞ!」
腕を引かれて足を踏み出す。
引かれた腕に視線を落として、瞬きをする。
血で汚れたその傷が、ようやく思い出したように痛んだ。
逃げる。どこに。なんで。
逃げる。
ああ、そうか、逃げないと。
散々考えたじゃないか。エリを見つける前に。あの静かな廃墟の只中で、一人。
ティアは俺の手に負えない。
目の前の少女を見る。
狂気に呑まれた、哀れな化け物。
どうしたいんだよ。俺は、これを。
何とかできると思ってるのかよ。
本心を隠して、友人と偽って近づいて、一時期共に過ごしただけの盗人が。
全部、忘れるべきだ。
ティアなんて知らない。
元々、出会ってなんていなかった。
「知り合いか」
未だ動こうとしない俺に、ジェイドが振り返る。
「…………違う」
その問いかけに、小さく零して首を振る。
「違う」
忘れろ。
全部。
もう、いらない。
その方がいい。
このまま、知らないふりして逃げろ。
それが最善だ。
音がした。
その方向に目を向ければ、立ち上がろうとしている、少女の姿があった。
足が動かなかった。
目だけが、ずっとその動作を追っていた。
左手だけで何とか起き上がってから、その手で地面に落ちているナイフを掴む、その姿を。
腕を引かれて思い切り後ろに投げられた時に、まともに反応することも出来なかった。
身体が地面に投げ出される。
視線の先で、俺を投げたジェイドが、少女に向かって行くのが見えた。
「っ待て! ジェイ!」
思わずあげた声に、ジェイドが振ろうとしていた刃先が止まる。
少女はちらりとジェイドを見たものの、攻撃してこないのを悟ると、そのまま素通りして行った。
何、してんだ、俺は。
なんで止めた。
止める必要なんてない。
逃げるためには、俺の平穏のためには、切り捨てた方がいい。
そうするべきだ。
「──っ」
分かってんだよ、そんなことは。
地面に手を着いて立ち上がる。
すぐ側まで迫っていた少女は、虚ろな瞳で刃を振るう。
もう、首だけ狙うのはやめたらしい。
下がったタイミングが少し遅れ、切っ先は右肩を攫った。
身体の動きが、鈍い。
今までどうやって避けていたのか、思い出せない。
避けきれなかった刃が皮膚を裂いて、また薄く、血が滲む。
その度に目の前で、遮るもののなくなった少女の顔が、艶やかな笑みを浮かべる。
「アル」
少女を挟んだ向こうから、ジェイドの声がする。
視線は向けられなかった。
そんな余裕、なかった。
「そうやって、いつまでもくよくよ悩んでんなら、いっそしがらみ全部捨てちまえ」
でも、声だけは、よく届いた。
「──そ、か」
するりと入り込んできた言葉が、心の間に染みていく。
絡まりすぎて形の分からなかったものが、解けて消える。
唐突に、すべてが凪いだ気がした。
そっか。
捨てれば、いいのか。
「そう、だよな」
息を吐く。
凶刃に晒されながら、ふわりとどこかを彷徨っていた心が、自分の元に帰ってくる。
足が地面の感覚を思い出す。
五感が正常を取り戻す。
目の前の少女を見返す。
その狂気に、向き直る。
分かった。
良く、分かった。
もう、考えるのはやめだ。
「ジェイド」
ぽつりと名前を呼ぶ。
「この先、どんなことになっても──手、出すなよ」
ぐだくだ考えても答えが出ないのなら。
いつまでも未練がましく答えを出そうとしないのなら。
出た答えに納得出来ずに躊躇しているくらいなら。
そんな役に立たないもの、もう知るか。
思考も理性も正しさも冷静さも慎重さも経験則も、まとめて全部ドブに捨ててやる。
ただ、感情のままに、心のままに。
納得できるまで、限界まで、惨めったらしく喚いて足掻けばいいんだろ。