◆月が見ていた夜のこと
「いいからもうさっさと逃げろよ……」
「……お前戦えんのかよ」
「逃げるしか能のない小心者ですけど?」
「じゃあ行かねぇ」
「じゃあじゃねーよいい加減にしろ」
もう言い返す言葉にも覇気がない。
口論とかしてる場合じゃなかった。
口から漏れ出る特大のため息を、止める理由はもうない。というか、ため息ばっかりついている気がする。もうどのくらいの幸せが逃げていったのか分からない。
しょうがない。なるようになれ。心中で呟いてから、目の前の現実に向き直る。
とりあえず時間稼ぎだっけ。
さっきの廃屋と違って、ここは大通り。逃げる場所には困らない。見渡せば逃げ込めそうな路地なんて無数にある。
いつまでやるんだ、と傍らに聞こうとして違和感に気がついた。
「ジェイド、いつものナイフどうした」
「…………落とした」
気まずそうに目をそらすと明後日の方向にぽつりと漏らす。
それを聞いて、ひくりと口の端が引き攣った。
おまえ、それでよく残るとかほざけたな。
「間抜け」
「んだと」
「もういい。分かった。これ貸す」
腰から手探りで抜き取った細長い物をジェイドに放る。
左手でそれを受け取ったジェイドは、手首を返してその切っ先を出した。
手の中に収まるぐらいの折り畳みナイフ。
「言っとくけどそれ作業用だし折り畳み式だからな、切れ味も耐久性も期待すんなよ。変に使うとすぐ壊れんぞ」
ひとしきり手の中で回して感触を確かめたジェイドは、怪訝な顔をして俺を見る。
「お前はどうすんだよ」
「言ったろ、俺は逃げるのにしか自信が無い。避けるのはいいけど攻撃までは無理」
せめて柄の長い武器か飛び道具でもあれば、まだいけるかもしれないけど。
そんな小さいもの片手に殺人鬼の懐に飛び込むなんて、ますます無理。
「使えねぇな……」
苦い顔をしながら吐き捨てるジェイドに、眉が寄る。
「はぁ? だから逃げようっつったんだろ。おまえ善良な一般市民に何期待してんの」
「善良? 一般市民? また面白い冗談だな盗人」
「揚げ足とってる場合か状況考えろ怪我人。で、何。どれくらい逃げ回ってればいいわけ」
「……無駄に引き伸ばす余裕はねぇ。なら次に二人揃って逃げられそうなタイミングができるまで、だろ」
「上等」
言い終わったくらいで通り魔が向かってきた。
振り上がった刃を横に跳んで避ける。そのまま距離を置いて様子見を、と思っていたのに、通り魔は俺の方に身体を向けた。
ジェイドの方が血みどろだからあっちに行くと思ったのに。
「はは、さっきの言葉覚えてんだ」
俺が血をやるからジェイドは諦めろって言葉。
全く微塵も嬉しくないけど。
首を狙って突き出された小さな刃を、斜め後ろに下がって避ける。
元々反射神経と動体視力には自信がある。
更にちょくちょくジェイドに刺されかけてたから、ナイフを避けるのには慣れている。
ことごとく攻撃を避け続けていると、通り魔が首を傾げた。
どうして?
この距離で、こちらに向き直られていると、夜に溶けそうなその呟きも、かろうじて聞き取れる。
深く被ったフードのせいで、流石に顔は見えないけど。
どうして、って何が?
俺からやるって言ったのに避けたこと?
なんで大人しく突っ立って殺されないのかって?
そんなの、死にたくないからに決まってんだろ。
「……俺はね、楽しみたいの」
正直に言って通り魔の顰蹙を買うのも、逆に興味を失わせるのもなんなので、本心と違う言葉を舌に乗せる。
口から出まかせ。
嘘をつくのは得意だ。
「ただこの首差し出すだけなんてつまんないだろ。俺は逃げるから、追いかけてみなよ」
未だ首を傾げる通り魔に、優しく微笑む。
「俺を捕まえられたらあんたの勝ち。ね?」
だから、ずっと俺だけ見てろ。
目の前にのめり込めば、それだけ隙になる。そうしたら、その隙をついて。
通り魔越しに近寄ってくる影を見て、俺は笑みを深めた。
──そう、ジェイドが攻撃に転じてくれるはず。
「ちっ、妙なのに当たった」
通り魔の背後からナイフを翻したジェイドは、素早く飛び退ると舌打ちをした。
後ろに振り上げられた通り魔の刃が空を切る。
半分だけ振り向いたその背中の布は、横薙ぎに切れ込みが入っていた。それは思っていたよりもずっと浅く、その下にある肌が特に負傷している様子はない。
ジェイドに渡したナイフは、思ったより切れ味が良くないらしい。
間近でその背を見て気がついた。何かが、背中側の布を盛り上げている。
切れ込みの隙間からうっすらと覗く白い何か。
……背中にも何か仕込んでるのか。
通り魔が背後を気にしている間に、じりじりと距離をとる。
どうせ逃げ回るなら、と近くの路地に目をつけて駆け出そうとした時、声が聞こえた。
「背中向けると投擲される可能性あんぞ」
それで右手使えなくなったしな、と離れた場所からジェイドが言う。
逃げの算段をぶち壊すかのようなタイミングに、一瞬足が止まった。
その鼻先を、何かが掠めていく。
その先から、高い音が響いた。
嫌な予感がしながらもその方向に目を向けると、壁からからポロリと凶器が落ちるところだった。
背筋が凍る。
いや、本当に投げてきやがった。
「遅い忠告を、どうもっ」
ささやかな嫌味を返しながら振り向く。通り魔は、既に違うナイフをその手に持っていた。
武器はあれ一本だけじゃないってことか。一体何本隠し持っているんだか。
廃屋で投げられなくて心底良かった。
あれは運が良かっただけか。逃げる時は、不意打ちに成功したから。
繰り出される刃を避けながら考える。
背中向けられないって、本当に避け続けることしか出来ないじゃん。
下手に路地に逃げ込めば、狭い通路だと格好の的だ。
この大通りの周りの建物は、同じような廃墟でも、あまり損傷が酷くない。だから下に落ちている瓦礫も多くなかった。
歩き回って足を取られる心配がないのはいいけど、拾えるものがないのが辛い。
沢山転がってたら投げつけて牽制とか出来てたかもしれないのに。
次第に息が上がってくる。
俺は速さには自信がある。でも、持久力はあんまりない。
額から垂れてきた汗が、睫毛の上に乗るのを感じた。
駄目だ。避けるだけとか甘く見てたわ。
一瞬でも気を抜くと首が飛ぶから、相当集中力を使ってる。これ、結構長引くとやばい。
通り魔の後ろに影が迫っている。
ジェイドが手にしているのは俺が貸した物ではなく、さっき通り魔が投げた物だった。
ただ、切りつけた感触は思う手応えではなかったようで、また舌打ちを零している。
……あそこ、廃屋で俺が蹴った方か。
「こいつ、右側何か仕込んでるよ」
「早く言えよ!」
「言うような暇なかったろ」
多分、通り魔は特別強いって訳じゃない。
頭がイってるせいか、注意力が散漫だ。
死角からの不意打ちは結構当たる。
ジェイドが攻撃して暫くは背後を警戒するみたいだけど、少し経つと目の前しか見えなくなる。
ふらふらしつつ素早い動きは、読みにくくてやりづらいけど、避けられない程じゃない。
何とかなるのかもしれない。
しれない、けど。そろそろしんどい。
背中側が駄目で、右も駄目。
もう全身何かを仕込んでいても不思議じゃない。
いっそ先に着ている布を取り払ってしまった方が、攻めようがあるんじゃないか。
何も見えないから余計厄介なんだし。
「ジェイド」
反対の位置にいるジェイドに声をかける。
返事はすぐに来た。
「んだよ」
「布」
指示は端的に。
本人を挟んだやり取りだ。
「切って」
付き合いだけは長いから、きっと理解してくれる。
流石に瞬間的には分からなかったようだが、数秒言葉を咀嚼したジェイドは、何かを察したらしい。
通り魔の注意がまだ逸れていないまま、再び前に出てきた。
ぽつりと通り魔が何かを呟く。
俺に背を向けたその言葉を、今度は聞き取れない。
でも、それほど意味のあることは言ってないだろう。
何回かの切り合いの後、大振りに振られた通り魔の腕が、左に振り切れたその時に。
隙をついて切り上げられた切っ先が、通り魔の、前で合わされた留め具を弾き飛ばした。それを見て、ほっと息をつく。
その一瞬、これでどうにかなると思った。
でも、多分暴かない方が、良かったのかもしれない。
世界が、止まったような気がした。
留め具の意味をなくしたクロークが、その身体からずるりと滑り落ちる。
ナイフで切り上げたジェイドが、目を丸くしたのがちらりと見えた。
下から現れたのは、所々絡まった長い黒髪。
袖の短い、薄手の白い服。
でも、驚いたのはそこじゃない。
月光の下、浮かび上がったその身体は。
本来右腕があるべきところにすげ替えられた、白骨の腕。
大きく開いた背中には、作り物じみた一対の翼が、執拗に糸で縫い付けられている。
こちらを振り返った、ぼさぼさの黒髪の合間から覗く右顔面は、酷い火傷の跡を残していて。
左側の人形じみて整った顔面は、よく知っているものだった。
「アル!」
切羽詰まった声にはっとする。
すぐに後ろに跳んだけれど、駄目だ。
間に合わない。
目の前で、白刃が煌めく。
咄嗟に首を庇い、間に挟んだ両腕から、血が吹き出した。
息を詰めたすぐ後に、滑り込んで来たその顔が、目の前で呟いた。
「つかまえた」
いつも無表情を貼り付けていた少女の顔は、その瞬間、とても嬉しそうに微笑んでいた。