◆路地裏の凶行
近くの廃墟を覗き込むと、隅の方に木枠の残骸が落ちていた。
元は窓だったのだろうそれを拾い上げて、徐ろに掲げてみる。軽く振りながら、手の中のそれに軽い評価を下す。
長さはまあまあ。太さもそこそこ。ただ断面が四角いので握ると掌に食い込む。完全な棒状ではなく、角が少し残っているせいか、重心がちょっと微妙。
でもまあ、これでいいか。
ある程度なら使えそうだ。
その後飛び道具代わりにならないかと、地面の瓦礫を拾い集めてみたけれど、ポケットに入れたときの音が気になり結局捨てた。
他に使えそうなものが見当たらない。この木枠くらいしか。
不安は残る。でも、探せば見つかるって訳でもない。何よりあまり時間が無い。
苦い顔をしながら、深くため息を吐く。
「荒事は苦手なんだけど」
仕方がない。
別にたいして仲も良くない腐れた縁だが、勝手に切れてしまっては困る。
腰に巻いたバックの中身を確認してから、エリに聞いた方へ足を踏み出した。
◆
混乱と息切れで呂律が回らなかったエリが話せたことは多くない。はやくはやくと焦りを浮かべ泣くエリから、話を聞くのは本当に苦労した。
詳細は分からない。ただその言葉を繋ぎ合わせて、簡潔に今の状況だけは分かった。
つまりはこうだ。
通り魔に襲われそうになったエリを、探しに来たジェイドが庇った。
エリ一人逃がしてジェイドは残ったが、エリを庇ったせいで利き手を負傷している。
どうかジェイドを助けて欲しい。
馬鹿か。
一人で手に負えないなら、おまえもさっさと逃げろっての。
エリが駆けてきた路地の終着は、天井の吹き飛んだ廃屋だった。
崩れた壁の間から中を覗き込む。建物の影になって、月光は手前にしか差していない。逆光で見えずらい視界の中目を凝らすと、右手の暗がりに二人分の人影が見えた。
どちらがどちらなのか分からない、と思ったが、よくよく見ると片方は頭から膝下まではありそうな布をすっぽりと被っている。ゆったりとした体の線が分かりにくい形状で、更に言うならジェイドはそんなもの着ていたことがない。
ということは、こちらに背を向けている方が例の通り魔なのだろう。
ただ、シルエットから見る限り体格は華奢だ。背も、ジェイドよりはだいぶ低い。
少し拍子抜けだった。
イースト区の殺人鬼で、ジェイドが負傷したと言うから、大柄な男だと思っていたのに。
手前に光が差し込んでいるから、ここから入ったらすぐにばれるだろう。あるいは、と思っていたけれど、奇襲は無理そうだ。
素早く視線を巡らせる。
ここから出られそうな場所は、俺が今居るここと、あとは正面奥に本来の出入口のようなものが一つ。
その光源と位置関係を見ていてふとひらめく。腰のポーチに手を伸ばして、そこから布で包んでいたものを取り出した。
左手の中にすっぽりと収まるそれを握ったまま、角度をつけて手首をくるりと回す。それを見つめたまま、頭の中で行動を試行する。
確実ではないけど、いけるかもしれない。
少なくとも、木枠振り回すよりはだいぶ現実的。
細く息を吐き出して、目を閉じる。右手の木枠を握り直す。
目を開けた時にはもう腹は決まっていた。
「何してんの」
崩れた壁を乗り越えると、足元で細かな瓦礫が音を立てた。
その音につられて飛んでくる殺気に、へらりと笑う。
「楽しそうなことしてるね。俺も混ぜてよ」
踏み出した光の中は、思った以上に明るかった。
見せつけるように右手の木枠を少し持ち上げる。思っていたより少し重い。
光の中にいるせいか、ますます相手の姿が見えにくい。
正面の影の中に目を凝らして、その一挙一動を見逃すまいと集中する。
はなから戦おうなんて思っちゃいない。
護身用にナイフを振り回すジェイドと違って、俺は戦闘の心得なんてない。殺人鬼相手に正面から挑もうなんて、無謀もいいところだ。
こういう時は、逃げるが勝ち。
つまりは、そのための隙を作ることが最優先。
背を向けたまま振り向く気配のない通り魔を見ながら、左手でさっと奥の出口の方を指さす。暗くて確認できないけど、ジェイドからは俺が見えてるはず。
隙を見て逃げるからな。これで察しろよ。
ボソリと通り魔が何かを呟いた。
でも、小さすぎて聞き取れなかった。
そのまま何をしてくるかと身構えていれば。
「え」
そのまま目の前のジェイドに斬りかかっていった。
いや、おい。
無視か。
俺は見事にガン無視か。切な。
ていうか、なんだあれ。
やけにふらふらしている。
なのに動きが素早いから、ちぐはぐに見える。
いつか、ジェイドは吸血鬼かもしれないと言っていた。でも、あれはなんというか。
「薬物中毒者?」
箍が外れてしまった人間の気がしてならない。
と言うか、聞こえているんだろうか、あれは。
いや、一度動きは止まっていたし、聞こえてはいるはず。
「ねえ、聞いてる? なんか欲しいものがあるんじゃないの?」
取り敢えず、一度注意をこちらに引き付けないと話にならない。
執拗にジェイドを追う通り魔を引き剥がさないことには、あいつを逃がせないし、俺がわざわざ来た意味が無い。
人が人を襲うのは、だいたい物取りか、単純に暴力を楽しんでいるのかの二択だ。
「欲しいのは薬?」
見た印象のまま、何となく問いかける。だけど、通り魔はなんの反応も示さなかった。
「それとも殺したいだけとか?」
続いて投げた言葉にも、やっぱり反応はない。
「っ、おい」
今まで無言だったジェイドから、焦ったような声が上がる。
悪い、もうちょい持ち堪えて。俺はこっから離れる訳にはいかない。
通り魔の攻撃を避け続けるジェイド。ただ避け続けているだけで、間に反撃をしようとする様子はない。らしくないな、と思った。
見えないけど、結構深手なんだろうか。
血の臭いがすごい。
血。……吸血鬼。
「……ねえ、血が欲しい?」
その時の反応は早かった。
突然一切の行動を止めたそいつは、ぐりんと音がしそうなほど勢いよく首を回して、俺を見た。
今まで対峙していた目の前のジェイドを放って。
あまりにも狂気じみたその動きに、息を飲む。
ジェイドに反撃されるとか思わないんだろうか、というささやかな疑問は、小さく届いた呟きに掻き消えた。
くれるの? と、吐息のような掠れた声。
深く被ったフードの下から、歪につり上がった口元が覗いている。
「ははっ」
思わず乾いた笑いが漏れた。
ああ、やべぇわこれ。
完全にイッちゃってる。
「そいつは諦めてよ。変わりに俺のをやるからさ」
これみよがしに持っていた木枠から手を離す。足元で鈍い音がした。
途端に湧いてくる不安感に蓋をして、顔に笑みを乗せる。失敗はしない。したらここで詰みだ。
右手をひらひらと振って、攻撃の意思がないことを示す。
通り魔が身体ごとこっちを向いた。その手には小さな刃物。位置は、俺から見て右側。──左利き。
「どうした? ほら」
『頸動脈がやられていることが多いな』
いつかの言葉を思い出し、首元のストールに右手をかける。するりと抜き取ると、夜風が首を撫でて肌寒い。
左手の中で、隠し持っている欠片を密かに固定した。
「どうぞ?」
言うやいなや、通り魔が地面を蹴った。
なんの捻りもなく、真っ直ぐに突っ込んでくる。
その軌道に、内心でほくそ笑む。
だらりと下げていた左腕を振り上げる。そう遠くない距離があっという間に縮まっていくけれど、こっちが仕掛ける方が早い。
待ってた。
その影から、光の中に近づいてきてくれるのを。
手首を翻す。手の中の鏡の欠片が、月光を反射して光った。
素早く角度を調整して、その光の先を、フードの下へと導く。
「ぅ」
小さく声を漏らした通り魔は、反射的にか、光を遮るように両手で顔を庇う。
反射光に目が眩み、小さく跳ねる身体。
それでも勢いを殺せず突っ込んでくるその無防備な横腹に、渾身の左蹴りを叩き込んだ。
綺麗に入った。そう思った。
それだけなら最高だった。
「──いっ、てぇ」
小柄な身体がくず折れる、結果だけなら上々だ。ただ、思った以上に俺の足に反動が来た。
というか、肉ではない固いものを蹴ったような、変な感触がした。
冷や汗が垂れる。
やばい。間になんか挟んでたのか。
「っ逃げるぞ怪我人」
すぐに起き上がってくることを危惧して踵を返す。悠長に動向を確認している暇はない。
どの道今を逃せばもうチャンスはない。
痛む足を叱咤して来た方と反対の出口に走れば、既にジェイドはそこに居た。
去り際にちらりと振り返った通り魔は、依然として地に伏したままだった。