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我が愛しの化け物へ  作者: 砂原樹
【第一部】 魔女と奴隷
18/41

◆闇間の足音

 音がない。

 空に光る月は随分と上に昇っていて、地面を燦然と照らしていた。

 やけに丸いその月は、何だかいつもよりも大きく見える気がる。


 辺りはしんと静まり返って、物音一つ聞こえない。

 当たり前だ。ここは街から遠く離れた森の中。外と行き来することの出来ない、魔女の手による檻の中。ここに居るのは二人だけ。その内の片方は、更に奥に閉じこもって出てこない。


 白い月光だけが、世界をモノクロに染め上げている。

 思考が鈍る。感覚が狂う。

 ここに来てから、一体何日経っただろう。

 それほど遠くない昔の筈なのに、何だか思い出すのが億劫だ。

 日が落ちてからどのくらい経った。

 今がどれくらいの時間なのか、それすらもう分からない。


 いつまでこれが続くのか。

 いつになったら出られるのか。

 そもそも本当に、出口はあるのか。


 ぼうと月を見上げていた夜の中、静寂に慣れた耳が、微かな異音を拾い上げた。

 その音に、ふと我に返る。

 この音は何だ。

 何か、草が擦れるような。

 ……足音?


 僅かに聞こえた音を頼りに歩を進めると、長い雑草の合間に、隠れるようにして備え付けられた格子扉が、遠くに見えた。

 高い石塀が影になって、暗がりの情景は視界が悪い。

 目を凝らしたその先で、扉前に佇む小さな人影から、小さな塊が地面に落ちる。

 それを気にもとめずに動きだした影は、なんの躊躇もなく歩き出し。

 その身体は、至極あっさりと扉の先へ消えた。


 南京錠が落ちている。

 開け放たれた格子扉に手を伸ばすと、その手は容易く扉をくぐった。

 視線をあげると、木に紛れて動く影がある。暗い布が月光を受けて翻るのが、遠くに見える。

 暗がりと距離で碌な輪郭も掴めない、その後ろ姿に。


「……ティア?」


 何故だか、少し前に見た彼女の背中が、重なった気がした。





 ◆





 何だか随分と、久しぶりな気がする。


 森を抜けてしばらく歩くと、それまでの清涼な空気とは打って変わって、淀んだ悪臭が鼻についた。

 顔を上げた視線の先には、月明かりに照らされた建物が、無秩序に乱立している。

 舗装されていない剥き出しの地面。通りの端に寄せられた廃材とごみの山。吹けば飛びそうな粗末なバラック小屋。


 森から一番近いこの地区は、元はただのごみ捨て場だったらしい。

 街から少し離れた焼却炉への中継地点。一時的にごみを集めていただけの場所。

 その周りに廃材を寄せ集めた家をこしらえて、今のような大きなバラック地区が出来上がった。

 ここはイーストエンドの内でも特に臭いが酷い。

 それに、この辺りには明かりさえもない。

 イーストエンドでも下の下。最底辺が住まうのがこの場所だ。


 ごみの合間を縫いながら、かろうじて月光が届く道を選んで歩く。

 人工的な光源のないこの場所は、天気が良い時以外は闇の底だ。とても夜に歩くには適さない。そのせいで、ここに住む者でさえ基本的に夜は外に出ない。少なくとも、屋根や壁を持っている連中は。

 見渡す限り出歩く人影はない。時々、バラックの間の路地から、人の寝転んだ足が覗いている。


 見失った。


 足音を殺して先を急ぎながら、頭にはその言葉が巡っていた。

 耳を澄ます。意識しなければ気にもとめない静けさなのに、そうすると余計な雑音が入ってきた。欲しい音は聞こえない。薄い壁越しの小さな誰かの息遣いや、衣擦れの音が邪魔だ。空腹に鳴る腹の音や、呻き声がうるさい。


 どこに行ったのだろう。

 思えば、あれは本当に彼女だったのだろうか。

 見間違いではなかったか。

 少し前に見た情景を思い出す。


 後を追う前に、一度彼女がいた部屋を確認しに戻るべきだったのかもしれない。

 そう、思わなかったわけじゃない。

 だけど、時間を置くとまた出口が閉ざされてしまいそうで、できなかった。

 何より、嫌な予感がした。

 数秒だけ見た背中はやけにふらついていて、それなのに意外なほど足取りは早かった。森に消えるその様子は、明らかに何かがおかしかった。


 もし、あれがティアだとして。

 頑なに閉じこもっていた彼女が、前触れもなく出てきたのは何故だ。開かないはずの外への扉を開けて、一人きりで外に出たのは。

 元々鍵を持っていたのだとしたら、とっくに使っている筈だろう。あんな風に取り乱していたのに、不自然がすぎる。

 なにか、得体の知れない不安感があった。

 脳裏でカタカタと笑う骨の音が、無闇にそれを助長する。


 それとも、全てが俺の勘違いで、あれはティアではなかったのだろうか。

 もしかしてあれこそが、話に聞いた魔女なのか。




 ごみに溢れたバラック地区を抜けると、馴染んだ廃墟群の中に足を踏み入れる。

 そこを進んでいくと、まだ残り香はあるものの、いくらか空気はマシになってきた。

 瓦礫の散乱する道は先程のバラック地区よりは整備されているものの、所々にあるガス灯は、随分前からその役目を果たしていない。当たり前だ。こんな場所まで火を灯しに来る人などいない。

 音は遠くの方に聞こえるだけで、この辺りは静まり返っている。遠くに聞こえるあの音は、歓楽街の方向か。


 もっと先に行ったのだろうか。

 これより先となると、出来れば行きたくはないんだけど。

 そもそも、本当にこっちで合っているのか。そのことすらはっきりとしない。

 もしかしたら、どこかで既にすれ違っていて、全然違う場所へ出ているのかもしれない。


 本当に、このまま進んでいいのか。

 引き返すべきなのだろうか。

 そもそも、追いついた所でどうするんだ。ふと思い至って動きを止める。


「……くそっ」


 どうかしてる。

 今更になって、そんなことに気づくなんて。


 あの人物がティアか魔女かなんて、今の俺に確かめる術はない。それこそ、探し出して直接確かめでもしない限りは。

 そもそもあの時は暗すぎて、服装すら満足に見えなかった。

 もし探し出せてもそれが魔女だったりしたら、その瞬間、俺はどうなるか分からない。

 こんな所まで愚直についてきた現状に、そう仕向けるための罠ではないかとすら、思う。


『ここに二人、閉じ込められてさえ居なければ、あの人の目論見通りにはならないから』


 なら、いいんじゃないのか。このままで。

 少なくとも、俺は今外にいる。

 このまま、あの人物を追いかけずに家へ帰ればいい。

 ティアは、抜け出せたらもう来るなと言っていたのだから。

 だけど、仮にあれが魔女でなくてティアなら。


 堂々巡りになりそうな思考に、首を振る。もう、いいだろそれは。

 だって、随分前からティアはおかしかった。

 閉じ込められたあの日から。

 ずっと何かを隠していた。何かに怯えていた。

 でもそれを俺には決して言おうとせず、俺に関わらせようとしなかった。


 ──あの日。

 閉じ込められる前に、顔色の悪い寝顔を見ながら、俺は。

 放っておくと死にそうだからと。もう少し傍に居ようと、思ったはずだった。


 だけどそれは、俺の命と天秤にかけるほど大切なことなのだろうか。


 小さく息を吸う。汚れた空気が肺いっぱいに広がる。

 ここはイーストエンド。

 法に見捨てられた、掃き溜めの貧民窟。

 ここで生き抜くために必要なのは、情じゃない。

 生への執念と、慎重さと、割り切りだ。

 そう、ただ初心に戻ればいいだけだ。それだけの簡単なこと。


 いっそのこと。

 全部忘れたふりをして、このまま。

 分かっている。

 冷静に考えろ。

 判断を誤るな。

 どうすればいいかなんて、分かりきってる。

 分かりきってる、はずだ。



 悲鳴が聞こえた。

 その声に、我に返った。

 咄嗟に右の路地に目を向ける。狭いその道に、月の光は差さない。目を凝らしてやっと道の輪郭が分かるくらいの暗闇だ。

 小さく高い声だった。女か子供が発したような。

 場所もきっと、そんなに遠くない。

 足音が聞こえる。

 走っているような早く規則的な音に、荒い息遣い。

 だんだん大きくなるその音が目の前の道から聞こえてくるのに気がついて、思わず身を引く。


 イーストエンドで起こるトラブルはそれ程珍しいものじゃなく、大概が碌でもない。巻き込まれるのはごめんだ。

 今はそんな場合じゃない。


 そう思いつつも素直にここを去ることが出来ないのは、先程の悲鳴と探し人との間に、奇妙な共通点があるせいか。

 何だか、嫌な予感がする。

 警戒しながら路地と距離を取り、すぐ側に迫った足音の主を探る。

 暗がりから躍り出てきた小さな人影を見て、予想外の正体に、目を丸くした。


 ティアでは無い。

 でも、知っている顔だった。


「エリ?」


 歳の頃は七、八くらい。赤茶の髪を背中辺りまで伸ばしている少女。

 あの崩れ掛けの建物の中で、寝泊まりしている子供の一人だ。

 どうしてこんな所に居るのか。

 確か夜は、通り魔を警戒して外には出ない筈なのに。


 エリと目が合った瞬間、限界まで見開かれた瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

 走ってきた勢いのまま突っ込んでくるのを思わず抱きとめる。よほど全力で走ってきたのか、止まったエリは激しく咳き込んでいた。

 その様子を見下ろしながら、その姿に普段とは違う点を見つける。


 身につけた衣類の胸元に、血が飛んでいた。


 ヒューヒューと喉を鳴らしながら、エリは顔を上げる。その目に涙を貯めたまま、小さく掠れた声で、囁くように懇願した。


「たすけて」





 ◇





「選択肢をあげる」


 燃え盛る炎のただ中で、彼女は静かにそう告げた。

 額に残っていた少しの熱が、周囲の熱さに掻き消える。


 床に倒れ伏したその体制のまま、ぼんやりと彼女を見返す。茹だる意識の中で、彼女の言葉を咀嚼する。

 だけどその意味は、とても理解できそうになかった。


「だめ、あなたが選ぶのよ」


 考えるのを放棄すると、それがわかっているかのように、彼女は非難めいた声を上げる。

 しかしその表情は、声とは裏腹に酷く穏やかだった。


「呪いが馴染むまでは、あと少し時間がかかるの。内容は言ってあげたでしょう? 今あなたが死にたいと言うのなら、私は止めないわ。手伝ってあげる。痛みを感じる間もなく、灰も残さず消してあげる。だから、ねぇ、選んでね」


 どうでもいい。

 生も、死も、どうでも。

 勝手にしてくれていい。

 それに黙って従うから。


「ここで人として死ぬか、呪いとともに生きるか。あなたの結末くらい、あなた自身で選んで」


 これが最後のチャンスだから。そう呟いて、彼女は先程己が口付けた額をなぞる。


「どっちが良い悪いじゃないのよ。善悪の問題でもないの。全てを捨ててでも生きる覚悟がある? あなたは生きたいの、死にたいの、どっち?」


 どうして今更、そんなことを聞くのだろう。

 この身を人形だと言ったのは彼女の方だ。


 意思は捨てた。心は捨てた。

 自我を消した。

 空っぽだ。

 もう、何も無いこんなものに、選ぶ事など。


「ならあなたは、どうして死なずに今まで生きてこれたの」


 覗きこまれた瞳に射抜かれる。

 そのあまりに真っ直ぐな視線に、息を飲んだ。

 奥に隠しこんでいた自己を、暴かれるような。


「聞かせて、ブルネット。あなたの願いは、あなたにとって生きるに足るものなの?」


 容赦なく人を焼いたことなど、欠片も感じさせぬ様な笑みを向け。

 四肢を割き、身体を刻んだその手で、慈しむように頬を撫で。

 古城の魔女は、聖母のように穏やかに、その先の言葉を促した。


 願い、なんて。

 そんなもの。


 彼女の姿を見ていられなくなって、目を伏せる。

 すぐ側に広がる地面は、煤と血痕で汚れていた。


 お見通しなのだろう。

 砕いて隠したこの心の内も、きっと、全て。


 無慈悲な殺戮を目にしてなお動かなかった心が、今初めて恐怖を感じた。

 その感情が未だ残っていたことに、少しだけ安堵した。

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