渇き
あれから、どれほど日が過ぎたのだろう。
随分長い時間が経ったようにも、まだそれ程ではないようにも感じる。
分からない。
外の情報を絶っているから、分からない。
思考に靄がかかっている。
熱に浮かされたようだ。頭が回らない。
鈍く痛む頭に手を当てて、身体を起こす。
その下で、柔らかなベッドが小さく軋む音がした。
ベッドを勝手に使うのには、まだ少し抵抗がある。
でも、仕方がない。床だとすぐに目が覚めてしまうのだ。
ずっと眠っていた。
寝て、起きて、また眠る。その繰り返し。こんなに眠ったことは無い。そのせいか、少し頭が痛い。
だけどそれが一番、時間を稼ぐのに有効だった。
喉が渇いた。
瞼が重い。薄目を開けた視界は、半分に切り取られてしまっている。右眼が開かない。いや、開いているのかもしれない。
でも、見えない。
立ち上がろうと無意識に力を込めたつもりの右手に感覚はなく、ぼやけた思考のままそこを見下ろした。
めくれ上がったクロークの下、服の袖口から覗く手は、異様に白く、異様に細く、──そして、肉がない。
無感動に視線を外して、左手だけでよろめきながら立ち上がる。背中が、少し引き攣れる。
喉が、渇いた。
鏡台の上に置いてある水差しを掴んで、中身を喉に流し込む。
それでも、一向に渇きは癒えない。
鏡に掛けられた布を取る気にはなれなかった。見なくても、その下に映る姿など分かりきっている。
すっかり変わってしまったこの姿を自覚する度に、喉から水分が干上がっていく気がする。
「……はやく」
渇く。
渇く。
この渇きは水では癒えないことを、知っている。
ただ一つ欲しいものがあった。
それだけは、確かだった。
身体が欲している。
舌があの味を求めている。
脳が蕩けるような、あの極上の甘露を。
欲しい。
欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
ねえ、はやくちょうだい。
衝動のままに噛み付くと、口内に鉄の味が広がった。
「……、まずい」
顔を顰めて口を離す。血の滲んだ己の左腕には、既にいくつもの歯型がついていた。
痛みはない。ただ、残念だった。
こんなに近くに求めていたものがあるのに、それは欲しい味ではない。
「まだ、かな」
ぽつりと呟いて、その言葉に首を傾げる。
何を待っていたんだっけ。
何かを待っていた気がする。
でも、分からない。何も考えられない。
ただ、喉が渇いた。
重い身体を引きずって、縺れる足で扉へ向かう。そのノブに手を掛けようとして、ぼんやりと思い出す。
ああ、そうだ。出られないからこんなところに居るんだった。
どうして出られないんだっけ。
……どうだったかな。
「もういいかい」
空っぽの部屋に投げかける。返事はない。
それに何だか悲しくなって、自分で返事を返す。
「まぁだだよ」
まだ。まだ。まだ、だめ。出られないなら、どこにも行けない。
じゃあ、どうしようか。
悲しいな。
ひもじいな。
戻りたいな。
早く満たしてしまいたい。
でも、出られないから満たせない。
そう言えば、今まで寝ていたんだ。なら、また寝てしまおうか。
だって起きていても辛いもの。
「まぁだだよ」
膝から力が抜けた。
扉に背を預けたまま、ずるずると座り込む。
朦朧としたままベッドへと視線を投げた時、ふとその下に、光るものを見つけた。
緩慢な動きで近づき、拾い上げたそれは。
「……もう、いいの?」
隠れんぼはもう終わり?
掌に収まった小さな鍵に、首を傾げる。
ぼうっとそれを眺めていると、不意に、鍵の開く音がした。
扉に目を向ける。蝶番が音を鳴らして、ゆっくりと扉が開いていく。その先には誰もいない。暗い廊下があるだけだ。
そこから顔を出してみると、窓の外で満天の星空が瞬いていた。
円く浮かんだ大きな月が、夜を明るく照らしている。
「あは」
もう、良いのね。
高揚した気分のまま、その場でくるりと回る。
嬉しいな。
もう、我慢しなくてもいいんだ。
左手に持った鍵を掲げて、月の光に透かし見る。磨かれたように曇りのない銀色が、きらきらと輝いていた。
これで、外に出られるね。