◆2
その部屋を一人きりで見渡していたのは、それ程長い時間ではなかった。
「メメ?」
静寂を切り裂いて、どこからか知らない声が聞こえた。
咄嗟に振り返って入口を見る。けれどそこに人影はない。ハッとして部屋に視線を戻してみるけれど、やはり同様に人の姿はなかった。
冷や汗が背中を伝っていく。
何だ。どこだ。
「何だ、人違いか。お前どうやってここに来た?」
カタカタと、何か軽いものを合わせたような音がした。
声は微妙に室内に反響していて、詳しい出処がはっきりとしない。ただ、それが室内から発せられたものだということだけが分かっていた。
「単に迷い込んだだけか? 度胸試しかなんかか? やめとけよ。ここにゃこわーい魔女が出るぜ? 五体満足なうちにさっさと帰んな」
「……誰だあんた、どこに居る」
「どこって、目の前にいるだろ? その目は飾りか?」
からかう様な声につられてもう一度室内を見渡して見るも、変わらず人影はない。
苛立って思わず舌打ちを漏らすと、ひきつれた様な笑い声がした。
「ヒハッ、あーそうだ。そうだった。すっかり馴染んじまったから忘れてたな。おい、下だよ。下を見てみろ」
促されるまま視線を下に落として、そこで思考は止まる。
そこには確かに《《人》》は居なかった。
そこにあったのは、骨。
皮も肉も何も無い、首から上だけの、頭蓋骨。
動いていた。
髑髏が。
上顎と下顎の骨を打ち鳴らせて、カタカタと笑っていた。
「嘘、だろ……」
呆然と漏れ出た呟きは、ただ落ちることなく拾われる。
目の前の、奇妙な骨によって。
「いやいや、現実を見ろよ少年。残念ながら本当だ。ヒヒッ、悪いなこんな格好で。起きたらもう胴体がどっかいってたんだよ」
一体どこから声が出ているのか。
舌も声帯もないはずなのに、声は流暢で違和感がない。それが逆に異様だった。
眼球も耳も付いていないのに、まるで見ているかのように、声が聞こえているかのように話す。
怯む内心を叱咤して、喋る頭蓋を睨みつける。
血の流れる音が聞こえる。
自分の音だ。心臓の脈動の音。
それが、小さく耳元で鳴っている。
汗の滲む掌を握りしめて、細く息を吐く。
この現実離れした光景に、緊張感と警戒心が引き絞られていく。
「……おまえ、一体なんなんだよ」
隙を見せるな。
何があるか分かったもんじゃない。
「ヒヒヒ、『あんた』から『おまえ』に格下げか。悲しいねぇ」
髑髏はその姿に見合わぬ軽快な口調で、下卑た笑い声を漏らす。
何もかもが歪だった。
言葉で言い表せない異様な空気が、体の内側まで侵食されてくるようで、気持ちが悪い。
理屈じゃない。どうしようもなく、本能が拒絶している。
「何? 何って人間さ。いや、そう言うには語弊があるか。死人だよ」
「人、間?」
「そこ疑うなよ、余計悲しくなんだろ? こんなナリだが元は正真正銘人間だったよ」
「……死んでんの」
「首と胴が離れてんだから死んでるに決まってる。こんな状態で生きてるわけないだろ」
「喋ってるけど」
「魔女の気まぐれさ。所謂魔法の賜物だよ」
また、魔女か。
魔法、魔法、魔法。
説明のつかないものは全部その一言で事足りる。得体の知れない未知の力。魔女が扱う恐ろしい力。
寒気がした。
それはこんな風に、生死すら弄ぶことの出来る代物なのか。
「っ、なんなんだよ魔法って……!」
気味が悪い。
もっと軽く考えていた。よく分からないけど便利な力だと。魔女にしか扱えないものだとしても、それだけだと。
とんだ見当違いだ。
「人の身では魔法は使えない。その仕組みを理解できない。干渉できない。魔女が人の姿を模した悪魔と呼ばれる所以だな。理解できねーのを考えるだけ無駄ってもんだ」
肉がない。筋がない。表情なんてあるわけが無い。
なのに、話す声音の抑揚が、目の前の髑髏の感情を明瞭に表していた。
面白がっている。
そうとしか取れない声音で、それはカタカタと骨を打ち鳴らす。
「良いねえ、少年。俺を見て恐怖よりも警戒や敵意の方が勝るなんて、そこらの健全な少年少女にゃ出来ない芸当だ。さてはろくな人生歩んでねぇな?」
「……、おまえ、魔女の手先か」
「いんや? 俺は哀れな被害者だよ。魔女に殺されて、魔女の気まぐれでここに縛りつけられている、哀れな魂さ」
被害者。殺された。
その言葉に、いつかの話を思い出す。
まだ魔女の噂を話半分にしか聞いてなかった時に、言われたこと。
この森では元々何人も行方不明になっていた。その大体は、余所から来た人間だった。
つまり。
その末路が、これか。
「ありゃ、驚かねぇか。その様子じゃ何も知らずに入り込んだわけでも無さそうだな。だがまだ生きてるんなら気に入られたか。ヒヒッ、良かったな? そうじゃなけりゃ今頃バラバラだ。煮て焼いてすり潰されてバラ撒かれてたかもな? 俺やそこのお方がいい例だ」
髑髏が示した先を辿り、ちらと視線を投げかける。そこには、初めに見咎めた焼死体が転がっている。
ふと思った。
壁に寄りかかった焼死体は、髑髏と共にこの牢獄に入っている。
牢獄。罪人を捕らえておく為の檻。その中にあるということは、そこの死体も、同じように生きている……いや、意識はあるのだろうか。
俺の思考を読んだかのように、髑髏は何かを問いかける前に答えた。
「おっと、そこの方は動かんよ。 俺が初めに目覚めてからしつこく話しかけてるけど、まるで反応して頂けねぇ。そのお方は紛うことなき死体だよ」
その言葉に沿うように、焼け爛れた身体は微塵も動く気配を見せない。
髑髏の口振りからして所謂高貴な身分なのだろうが、今は見る影もない。顔は爛れて人相が分からないし、纏っていたはずの服もほとんど焼けてしまっている。
「おまえ、いつからここに居るの」
「さぁ。時間の感覚なんて忘れちまった」
「何でこの城に来たんだよ」
「何でだったかな……ヒヒッ悪いな。目覚めてから記憶が曖昧なんだ。もう自分の名前も分からない。強く印象に残っていることぐらいしか、思い出せない」
「……そう」
「…………、ああ、そうだ、そうだった」
少しの間黙り込んでいた髑髏は、不意に思いついたように声を上げた。
「お前、メメには会ったか?」
突然の知らない名前に訝しむ。
そう言えば、初めにその名を聞いたか。
「知るか。誰だよ」
「黒髪の少女」
心臓が跳ねた。
それを聞いて咄嗟に浮かんだのは、数日前まで共に居た少女。
脳裏に浮かぶ美しい少女は、元々名を持たなかった。
だから、俺が名付けたのだ。そこからまだ、半月程しか経っていない。
それ以前の名を、俺は知らない。
「……さぁ。知らない」
少し間が空いてしまったが、不自然ではなかっただろうか。
胡乱げに視線をやる。髑髏は気にした風もなく言葉を重ねた。
「本当か? ああ、別に少女と断言できなくても構わんよ。そう言えばあれには分厚いクロークを着せていた。フードを被っていれば人相は分からないだろう」
「知らないって。その少女が何」
「少し思い出した。あれが一緒の馬車にいたということは、あれがここに来た理由のはずだ」
『その後に主人に連れられてここに来て、私だけが残りました』
少し前に、彼女はそう言っていた。
ティアとこいつらは知り合いなのだろうか。
こいつがティアの元主人で、馬車にのせられてこの城に来た。そうしてこいつらだけが殺されて、ティアが残った。
話を繋ぎ合わせても矛盾はない。
でも……本当に、そうか?
「そこのご遺体は俺がお仕えしていた敬愛すべき主、ハイマン子爵家のレガート様だ」
何だ、いきなり。
眉を寄せる。でも髑髏は俺に構う様子もなく、好き勝手に話を続けた。
「レガート様は第三子で家督を継ぐ立場になく、そのせいか自由なお方でな。その上芸術肌で、趣味でいくつか作品をこしらえていらしたよ。俺はその作品のファンでね。怖気立つほど恐ろしく、混沌とした中に垣間見える退廃的な美が、俺の心を鷲掴みにしたんだ。あの方の作品の為なら、俺はなんだってできる。何でもな」
「何が言いたい」
「ああ、悪い。脱線したな。つまりな、メメはレガート様の作品の一つだ」
「……作品? 少女なんだろ?」
「ああ。あれは生きていて初めて完成する、レガート様の傑作だ」
その物言いに、ぞわりと背筋が粟立つ。
不意に、出会った頃のティアを思い出した。
頑なに心を閉ざし、自らを物と言い張るその姿を。
「何を、したんだ」
「何だ、やっぱり知ってるんだろう」
押し殺した声に被せるように、答えにならない問いがかかる。
思わず息を詰めた俺を見て、髑髏はカラカラと笑った。
「ありゃ、カマをかけたつもりだったが、その反応からすると正解か。やっぱり生きてるんだな。そいつは良かった」
しまった。
「あれには様々な細工が凝らされているからな。生きているのなら重畳だ。あれ程稀有な作品を、壊されるのは勿体ない」
髑髏の声は弾んでいた。
喜色に満ちていた。
でも、そこに心配の色など微塵もない。ただ『作品』の状態を気にかけていただけなのは明らかだ。
「ああでも惜しいな。あれは少女であるうちが一番美しいんだ。女になってしまったら、あの不完全な魅力は永遠に喪われてしまう。確かに死ぬのも惜しいが、作品自体が変質するよりは大分マシだ。だからその直前に、蝋で固めてしまおうと思っていたのに。レガート様がこんな有様だから、俺が、俺こそがやり遂げねばならなかったのに」
言っている意味が、すぐには分からなかった。
蝋で、固めて。
何を?
人を。少女を。──あの子を。
殺して、固めて。
作品の成長を、少女のままで留めるために。
「こんな身体になってしまっては、この先それを行うことも出来ないな」
事も無げに喋る髑髏を、呆然と見る。
ぞっとした。
訳が分からない。
おぞましい。
狂っている。
これは本当に人間か? 本当に、人間《《だった》》のか?
なんて笑えない冗談だ。
「それにしても奇特だねぇ。なんで庇った? 何も知らない者からすれば、メメの姿など化け物と誹られても仕方の無いものなのに。……ああでも、あれが好き好んでクロークを脱ぐわけないな。だったら、顔か。フードの下の顔は見たか?」
「……何を」
そもそも、ティアは初めからクロークなんて着ていなかった。
だからといって、その下に変わったものがあった訳でもない。普通の少女の身体だ。化け物なんて言われるようなものは、何も。
「醜い火傷跡があったろう? 同情でもしたか?」
「……そんなもの、知らない」
知らない。そんなもの、見ていない。
「人違いだ。火傷なんてなかった」
髑髏の言った少女の特徴は、黒髪と言うことだけだ。そんな人はありふれている。普通に考えれば人違いだ。ティアと髑髏の話す少女の特徴はかけ離れている。
なのに口では否定しても、胸中に燻る靄は晴れてはくれなかった。
奇妙に一致する符合が、脳裏にちらつく。
「そうか? あれは生きているとは思うけどな。最期に見た時は、魔女に気にいられているようだったし…………あ」
何かに気がついたように声を上げた髑髏は、一瞬の後に、けたたましく笑いだした。
「あー、そうか。そうだった。ヒャハッ、少年、お前が知らなくても仕方ねぇよ」
気でも触れたかのような笑い声だ。
いや、違う。最初から狂ってる。
「そうだな、あれの顔には火傷なんてなかったな。そうだよ、あれは、メメは本当の意味で化け物になったんだ。魔女に見初められたあの時から!」
声が耳を通る度、内側から侵されていくような錯覚に陥る。
聞くに耐えない。
「最高だよ! 人が化け物に変わる瞬間をこの目で見られるなんてさぁ! ああ、でも、あのせいでメメの作品価値は無くなった。それだけが残念だな。本当に傑作だったのに。せめて外見だけでも戻ってくれねぇかなぁ」
「もう、喋んな。耳が腐る」
躊躇などなかった。
短く息を吐き出すと、骨を打ち鳴らす髑髏を蹴り上げる。骨は軽く、手応えはほとんどなかった。
勢い込んで吹き飛んだその骨は、壁に激突すると、そのまま砕ける。骨とは思えない脆さで。
そうして、呆気なく幕は閉じた。
残骸は、もう言葉を話すこともなかった。
扉に鍵をかける。
その鍵を窓の外へと放ると、少し遅れてから、遠くで小さな物音がした。
身体が重い。
気分が沈む。
とてもすぐに動く気にはなれない。
壁に寄りかかってため息をつく。
髑髏の吐き出した言葉の数々が、頭の中を回っている。
全てを信じた訳では無い。
あんな頭のおかしい妄言を、信じる方がどうかしてる。
そうだ。そのはずだ。
分かってる。
なのに、先程の狂気の残滓が、思考をグズグズに溶かしていく。
もう、何がどこまで本当なのか、分からなかった。
確かめようにも、ティアは今扉の向こうから出てこない。
厨房でパンを見繕った後にまた寄ってみたけれど、案の定音沙汰はなかった。
その日からさらに数日たったけれど、何一つ状況は変わらないまま。
「……」
あの日。
真夜中、扉の奥に消えた後ろ姿が、脳裏から離れない。
少し前に、縋るように見上げてきたあの目が。
『お願い、逃げて。ここから。──私から』
「……ティア」
君は一体、何を隠してるの。