◆狂気の虜囚
「汝、死を忘るなかれ」
壁に背を預け本を開いていたノルは、不意に呟いた。
本は貰い物らしい。と言うよりは、誰かが持ってきたものが、誰も読めないから回り回ってノルに行き着いた。文字的にも、内容的にも。
俺もちらっと覗いたことがある。小さい文字がびっしりと書かれていて、見てるだけで頭が痛くなりそうだった。
ただ、全て手書きで記され、サイズも小さめで、装丁も端が焦げて薄汚れたそれは、本と言うよりは手帳のようだった。
「何それ」
ノルの言葉が気になって声をかければ、顔を上げたノルは、驚いたように目を丸くした。
まるで今、俺に気がついたとでもいうように。
「……いや、なんでもないよ」
「何で。良いだろ、教えてくれても。意味深な事だけ言って放置するなよ。気になる」
「ただの独り言だよ。説明が面倒だから聞かないで」
「面倒なだけで、言えない訳では無い?」
首を傾げれば、ノルはしばらく俺を睨みあげた後、観念したようにため息をついた。
「メメント・モリ。死を忘れるなっていう意味の警句だよ」
「それがその本に書いてあんの?」
「いや、直接的には書いていない。これを読んで僕がその言葉を思い出したってだけ」
「……どういう意味?」
「そのままだよ。人はいつか必ず死ぬ。そのことを忘れるなってこと」
よく分からなかった。
そんなこと、わざわざ言われるまでもないことではないのか。
そんな疑問が顔に出ていたのか、ノルは俺が何かを尋ねる前に、言葉を続けた。
「日常の中にいると、つい死の観念を忘れてしまう。変わらず明日が来るように、それを疑わずに行動する。だから戒めてるんだよ。どんなに『今』や『未来』に固執しても、何を欲して何を得ても、それが終わる時を忘れてはならないって」
「それが、『普通』なのか」
「……そうだね。イーストエンドでさえなければ、それが普通の感覚なんだ」
死を意識しない生活。明日を当たり前に思う感覚。
それは、なんて。
「……羨ましいな」
「……うん」
思わず漏らした言葉に、ノルは小さく同意した。
そんなふうに生きてみたい。
終わりを顧みることなく、ただ前だけを向いて、やりたい事をやって。
ノルの言うこととは全く逆になってしまうが、ただその感覚に憧れた。
もし、この場所でさえなければ。ここから出たらそれだけで、そんな『普通』を手に入れることが出来るのだろうか。
「で、結局それはなんの本なの」
「これは」
気になっていたことを問いかける。
手元の本に目を落としたノルは、少し眉根を寄せると、つまらなそうに吐き捨てた。
「頭のおかしい芸術家の手記、みたいな物かな」
◆
不意に、以前ノルと交わした会話を思い出した。
メメント・モリ。死を忘れるな。
いつか必ず訪れるものだとしても、俺はまだ、死ぬ気は無い。
初めに古城を囲う石塀については、一通り見た。
どこも損傷は酷かったが、人が通れるほどに崩れている場所は、いつも出入りしていたあそこだけだった。
他にも、崩れている場所の穴を広げて出られないかとも思ったけれど、どんなに細かなヒビが入っていても、適当な道具で思いきりそこを叩いてみても、それ以上壊れることはなかった。
塀の上も通れないみたいだし、石塀周辺から直接外に出ることは出来ないのかもしれない。
それよりも今は気になることがある。
この城は、元から魔女の持ち物なのかどうかだ。
古城の裏手、庭を挟んで離れた場所に、小さな塔が建っていた。
その扉は頑強な鉄製だったが、特に鍵はかけられていなかった。
重い内開きの扉を押す。中に入った瞬間、石壁に備えつけられた燭台に火が点る。
別に俺は何もしていない。そういう魔法がかけられているのだろう。城の中でもそうだった。夜になると自然と火がついて、眠ろうとした時に勝手に消えた。
踏み入った塔内には何もない。ただ小さな部屋の隅に、壁に沿うようにして階段が続いている。
形状からして、恐らく塔の内側に沿って作られた螺旋階段だろう。推察しながら、上へと延びる階段へ足を掛けた。
新しく建った城が古城として寂れていくまでに、どれくらいの時がかかるのだろう。
少なくとも数十年。もっと言えば数百年。
その始まりの時に、果たして魔女は関わっているのだろうか。
それは多分、違うのだと思う。
もしそうだとしたら、あんな風にぽっと出の噂として語られたりはしないだろう。
敷地内には厩舎もあった。
でも、その中身はもぬけの殻だった。
魔女のものしては、ここには無駄なものが多い。
庭師用と思われる小屋だったり、使用した形跡のない厨房だったり。
多分この城は、魔女が建てたものではない。だったら魔女が把握していない抜け道や隠し通路なども、あるのかもしれない。
そういった物が普通はどこに作られるのか、俺にはわからない。
でも魔女が知らない、ということなら、城自体よりも周辺にある建物の方が、魔女の興味は薄いだろう。その中でもあからさまに怪しいのが、この用途の知れない塔だった。
外から見た限りだと高さはだいたい三、四階建てくらい。遠くから目につくほど高くはない。壁面はレンガ造りで丸みを帯びており、ところどころに窓と思わしき四角い穴が空いている。天頂に屋根はなく、ただ平らになっている。
もしかしたらこの中に、なにかヒントがあるのかもしれない。
外に出るためのヒントが。
階段を一歩上がるごとに、得体の知れない何かが足元から這い上がって来るようで、息が詰まる。
嫌な雰囲気だ。
空気が淀んでいる。
そこかしこに、窓があるにもかかわらず。
階段を登りきった先には、入口と同じような鉄の扉が構えられていた。
雨風に晒されてきたはずの外のものよりも、何故だかこちらの方が錆びている。
扉の前に転がっていた鍵束を拾い上げると、そこには無骨な三つの鍵がぶら下がっていた。そのまま扉に視線を向けると、同じく三つ鍵穴がある。
鍵が掛けられているのだろうか。それもこんなに厳重に。
この先には一体何があるのだろう。
嫌な予感がして、鍵を開けるのを躊躇する。
逡巡は数秒だった。
鍵を開け、深呼吸をすると、意を決して扉を開ける。
微かに、何かが焦げたような刺激臭がした。
それに僅かに顔を顰め、ついで目に飛び込んできたものに、息を飲む。
塔の壁に沿うように作られた部屋は丸い。目線の高さに空けられた吹きさらしの窓は一つだけで、他の窓は届かないような高い位置に空けられている。
それよりも、何よりも、目を引くのが。
中央よりやや左寄り。壁に背を預けるようにして座り込んだ、黒焦げの──死体。
「……」
焼死体の足元には、それとは別の髑髏が一つ転がっていた。焦げているのは死体だけで、その周辺の壁にも床にも、焼けたような跡はない。
壁に取り付けられた拘束具は使われた気配がない。
部屋の隅に置かれた簡素なベットも、使われた様子がなく整ったままだった。
高い塔の上に据えられた一室。入口を閉ざす鉄の扉に、いくつもの鍵。
ここは、この塔は。
「……牢獄」
罪人を繋ぐ為の檻だ。