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我が愛しの化け物へ  作者: 砂原樹
【第一部】 魔女と奴隷
12/41

◇2

「ティア!」


 脳を揺さぶる衝撃に、唐突に靄が晴れた気がした。

 数秒遅れて、じわりと両頬に痛みと熱がわく。それを包むように、人肌の温もりが伝わってくる。

 呆然と、焦点を結んだ視界には。


「ア、ルテ……?」


 いつになく、険しい顔をしたアルテが居た。

 彼の両手が、私の頬に伸びている。

 叩かれたのだろうか。ぼんやりと思った。


「しっかりしろよ。いきなりどうした? いきなり上の空で突っ立って。やっぱり具合悪いの?」


 ああ、そうか。アルテには、あの人は見えていないんだ。

 なら、今この場所にはまだ、あの人は居ないんだ。

 この視界はまやかしだ。


 だったら、まだ間に合うのかもしれない。

 アルテを解放しないと。

 そうじゃないと、取り返しのつかないことになる。


「大丈夫です」


 大丈夫じゃ、ない。


「ちょっと、立ちくらみがしただけで。大したことはないんです。何でも、ないんです」


 魔女が戻ってきたの。どこかで私たちを見てるの。


「……アルテ」


 助けて。


 それは、言ってはいけない言葉だ。


 唇を引き結ぶ。出かかる言葉に蓋をして、息を吐いて気を落ち着ける。

 目を閉じれば、視界が遮断されて、変わりに感覚が鋭敏になる。

 頬を包む掌に擦り寄って、その温もりに安心する。

 安心、したのだ。一人ではないことに。



 認めるのが怖かった。後戻りが出来なくなるから。

 でもいい加減、……認めよう。


 随分久しぶりに人と話して。随分久しぶりに、対等な『人』として見られて。

 救われたいと思っていた、押さえ込んでいた気持ちが溢れ出した。

 自己防衛の為の諦念は、自らを『物』と思い込んで心を守ろうとしたけれど。

『人』だと言われて、戸惑って、怖くて、それでも、嬉しかった。


 私はこの人に、この自分勝手で、強引で、優しい少年に。

 歪な存在で有りながら、烏滸(おこ)がましくも恋をした。




 ──「それでいいのよ」


 静かな声が降ってくる。

 いっそ慈しむように穏やかな声音で。


 ──「認めてしまいなさいな。何も無い空っぽのお人形さんより、今にも壊れそうな淡い心を抱えている方が、あなたは輝くの。……もっと見せて。震えるほどの後悔を、狂うほどの激情を。泣いて、叫んで」


 カチリ、と。


 遠くで、たくさんの小さな金属音が、重なったように聞こえた。


 ──「そうして、私を楽しませて?」


 薄く笑む気配がした。そうしてとんと一度、私の胸元をを押して、気配は遠ざかる。


 目を開いた時に、あの人はいなかった。

 視界にはあの黒い空間ではなく、色のある世界と、アルテがいる。

 それでも、嫌な予感がちらついて、素直に安堵することが出来ない。

 先程聞いた音が、妙に耳にこびりついている。

 嫌な感じだ。

 あの人が押した胸元に手を当てて、そこでふと思い出す。

 肌と服の間に下がった、慣れ親しんだ金属の存在を。


「……嘘」


 思い至った可能性に、血の気が引いた。

 いや、待って、まさか、そんなこと。


「え」


 驚いたように目を丸くするアルテに、構っている余裕はなかった。

 おもむろに胸元のリボンを抜き取ると、そこから腕を差し込んで、首から提げた鎖を引き出す。既に体温に馴染んだ長い鎖の先には、大きめの金属の輪が付いている。

 それだけだった。

 元々そこにぶら下がっていた物は──鍵束として身につけていた筈のその鍵自体が、全て、綺麗に消えている。

 鍵をまとめていたはずの輪だけが、虚しくそこに残っていた。


 頭が真っ白になる。

 気づけば、その輪を握りしめたまま、地面を蹴っていた。


「は、ちょ、っおい!」


 今いる場所は、中庭の端。なら一番近い出口は、すぐそこだ。

 駆けながら思い描いた場所に、足を向ける。なんてことは無い。目指す扉は、既に視界に入っている。

 壁のない、屋根だけが取り付けられた渡り廊下を横切って、その先へ。森と城の境界を目指して、腕を振る。





 石塀の一角に取り付けられた鉄製の扉は、錆ついていながらも、まるで頑強さは損なわれてはいなかった。

 勢い込んでぶつかっても、軋む音一つ漏らさない。

 息を乱したまま、その扉に付けられた錠前を乱雑に手に取る。

 そこについているはずの鍵穴は、まるで初めからなかったかのように、綺麗に埋まっていた。


「……嫌」


 あの何かが噛み合うかのような金属音は、鍵の閉まる音。

 何重にも聞こえたのはきっと、ここ以外の全ての扉の鍵の音。

 鍵はない。それを差し込む鍵穴もない。

 私はもう、扉を内側から開けられない。

 ……私も、アルテも、ここから出られない。


「やめて、出して、お願い、魔女様」


 足元が崩れていくようだった。

 膝から力が抜けて、座り込む。震える手で扉に手を伸ばし、その表面を叩く。衝撃は微塵も扉には響かない。ただ手だけが痛くなる。


「ごめんなさい。許して……!」


 初めは弱々しく。次第に強く。何度も何度も叩いても、扉は全く変わらない。そのうち擦り切れた手に血が滲んだ。それでも、手はとめなかった。

 赤い血の跡が、扉に刻まれていく。


「馬鹿っ何やってんだよ!」


 暗く濁った視界の中に、唐突にアッシュブロンドが映り込む。

 手が動かない。ギリッと軋んだ手首に、ようやく、そこを掴まれていることを認識した。


「いい加減にしろよ! なんなんだよさっきから! 全然着いてけないんだけど!」


 目を吊り上げるアルテは、私と同じように走ってきたのか、少し息が乱れている。

 その顔を見た途端、息が詰まった。


 私のせいだ。私が、あの人を刺激したから。

 扉は閉ざされた。アルテはここから出られない。家には帰れない。

 せっかく、帰ろうとしていた所だったのに。

 帰ろうと……?

 ……そうだ、アルテは、帰ろうとしていた。


 不意に閃いた考えに、私はただ縋った。

 それだけが、唯一の希望だった。


「逃げて」

「は?」


 基本的に、外へと通じる場所は普段から施錠されている。出入りが可能になるのは、鍵を使う時だけだ。……だけ、だった。少し前の瞬間までは。

 アルテがどこからこの城に入ってきているのか、私は知らない。

 だから、あの人も知らないかもしれない。

 もしかしたら、そこからなら、外に出られるのかもしれない。


「ここから逃げて。そうして二度と、ここには来ないで」

「何言って」

「お願い」

「説明しろよ!」

「時間が無いの!」


 声を荒らげると、アルテは目を丸くして押し黙る。

 必死だった。


「お願い。アルテ、お願いっ……!」


 目を真っ直ぐに見上げながら、訴える。

 数秒、間に沈黙が落ちた。


 アルテは舌打ちを零すと、苛立ちに滾ったその目を瞼の下に隠して、身を翻した。


「後で説明しろよ」


『後』は、来ない。

 そうであることを願っている。

 遠ざる背中を見つめながら、私は手を合わせて祈った。







 日の沈んだ直後の空には、夜の藍が混じり合う。

 赤は空の彼方に押しやられて、やがて完全な闇になる。

 鉄扉の前で地面に座り込んだまま、私はただ待っていた。

 この行為が無駄になることを祈って、アルテが帰ってこないまま、夜に昏れる瞬間を待っていた。


 けれど、そんな願いとは裏腹に、長く伸びた草の合間から、アルテは姿を現した。

 その表情に困惑と苛立ちを認めた瞬間、言葉にされるよりも前に、分かってしまった。

 ここから出ることが出来なかったのだと。

 胸元で組んでいた手の力が抜け、だらりと両手を地面に投げ出す。

 無力感が身体中を苛んで、何も考えられない。


 長らく忘れていた。

 そうだ、これこそが。

 あの人が望んだ──絶望。


「ごめんなさい」


 ぽつりと落とした謝罪をきっかけに、とめどなく後悔が溢れ出す。

 どうすれば良かったのだろう。どうすれば、こんなことにならなかった?

 突き放していれば良かったのだ。

 微塵も揺らぐことなく心を殺したまま、淡々としていれば、アルテの興味はきっとすぐに消えただろう。

 それともあの始まりの黄昏に、匂い袋など渡さなければよかったのだろうか。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」


 最後に外に出たのはいつだった?

 少し前に見た、あの人の『プレゼント』が頭をよぎる。右腕を抑え、唇を引き結ぶ。


 嫌だ。早く。

 どうにかして、外に出ないと。

 そうでないと。



 このままだと、私はきっとアルテを殺してしまう。




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