◇2
「ティア!」
脳を揺さぶる衝撃に、唐突に靄が晴れた気がした。
数秒遅れて、じわりと両頬に痛みと熱がわく。それを包むように、人肌の温もりが伝わってくる。
呆然と、焦点を結んだ視界には。
「ア、ルテ……?」
いつになく、険しい顔をしたアルテが居た。
彼の両手が、私の頬に伸びている。
叩かれたのだろうか。ぼんやりと思った。
「しっかりしろよ。いきなりどうした? いきなり上の空で突っ立って。やっぱり具合悪いの?」
ああ、そうか。アルテには、あの人は見えていないんだ。
なら、今この場所にはまだ、あの人は居ないんだ。
この視界はまやかしだ。
だったら、まだ間に合うのかもしれない。
アルテを解放しないと。
そうじゃないと、取り返しのつかないことになる。
「大丈夫です」
大丈夫じゃ、ない。
「ちょっと、立ちくらみがしただけで。大したことはないんです。何でも、ないんです」
魔女が戻ってきたの。どこかで私たちを見てるの。
「……アルテ」
助けて。
それは、言ってはいけない言葉だ。
唇を引き結ぶ。出かかる言葉に蓋をして、息を吐いて気を落ち着ける。
目を閉じれば、視界が遮断されて、変わりに感覚が鋭敏になる。
頬を包む掌に擦り寄って、その温もりに安心する。
安心、したのだ。一人ではないことに。
認めるのが怖かった。後戻りが出来なくなるから。
でもいい加減、……認めよう。
随分久しぶりに人と話して。随分久しぶりに、対等な『人』として見られて。
救われたいと思っていた、押さえ込んでいた気持ちが溢れ出した。
自己防衛の為の諦念は、自らを『物』と思い込んで心を守ろうとしたけれど。
『人』だと言われて、戸惑って、怖くて、それでも、嬉しかった。
私はこの人に、この自分勝手で、強引で、優しい少年に。
歪な存在で有りながら、烏滸がましくも恋をした。
──「それでいいのよ」
静かな声が降ってくる。
いっそ慈しむように穏やかな声音で。
──「認めてしまいなさいな。何も無い空っぽのお人形さんより、今にも壊れそうな淡い心を抱えている方が、あなたは輝くの。……もっと見せて。震えるほどの後悔を、狂うほどの激情を。泣いて、叫んで」
カチリ、と。
遠くで、たくさんの小さな金属音が、重なったように聞こえた。
──「そうして、私を楽しませて?」
薄く笑む気配がした。そうしてとんと一度、私の胸元をを押して、気配は遠ざかる。
目を開いた時に、あの人はいなかった。
視界にはあの黒い空間ではなく、色のある世界と、アルテがいる。
それでも、嫌な予感がちらついて、素直に安堵することが出来ない。
先程聞いた音が、妙に耳にこびりついている。
嫌な感じだ。
あの人が押した胸元に手を当てて、そこでふと思い出す。
肌と服の間に下がった、慣れ親しんだ金属の存在を。
「……嘘」
思い至った可能性に、血の気が引いた。
いや、待って、まさか、そんなこと。
「え」
驚いたように目を丸くするアルテに、構っている余裕はなかった。
おもむろに胸元のリボンを抜き取ると、そこから腕を差し込んで、首から提げた鎖を引き出す。既に体温に馴染んだ長い鎖の先には、大きめの金属の輪が付いている。
それだけだった。
元々そこにぶら下がっていた物は──鍵束として身につけていた筈のその鍵自体が、全て、綺麗に消えている。
鍵をまとめていたはずの輪だけが、虚しくそこに残っていた。
頭が真っ白になる。
気づけば、その輪を握りしめたまま、地面を蹴っていた。
「は、ちょ、っおい!」
今いる場所は、中庭の端。なら一番近い出口は、すぐそこだ。
駆けながら思い描いた場所に、足を向ける。なんてことは無い。目指す扉は、既に視界に入っている。
壁のない、屋根だけが取り付けられた渡り廊下を横切って、その先へ。森と城の境界を目指して、腕を振る。
石塀の一角に取り付けられた鉄製の扉は、錆ついていながらも、まるで頑強さは損なわれてはいなかった。
勢い込んでぶつかっても、軋む音一つ漏らさない。
息を乱したまま、その扉に付けられた錠前を乱雑に手に取る。
そこについているはずの鍵穴は、まるで初めからなかったかのように、綺麗に埋まっていた。
「……嫌」
あの何かが噛み合うかのような金属音は、鍵の閉まる音。
何重にも聞こえたのはきっと、ここ以外の全ての扉の鍵の音。
鍵はない。それを差し込む鍵穴もない。
私はもう、扉を内側から開けられない。
……私も、アルテも、ここから出られない。
「やめて、出して、お願い、魔女様」
足元が崩れていくようだった。
膝から力が抜けて、座り込む。震える手で扉に手を伸ばし、その表面を叩く。衝撃は微塵も扉には響かない。ただ手だけが痛くなる。
「ごめんなさい。許して……!」
初めは弱々しく。次第に強く。何度も何度も叩いても、扉は全く変わらない。そのうち擦り切れた手に血が滲んだ。それでも、手はとめなかった。
赤い血の跡が、扉に刻まれていく。
「馬鹿っ何やってんだよ!」
暗く濁った視界の中に、唐突にアッシュブロンドが映り込む。
手が動かない。ギリッと軋んだ手首に、ようやく、そこを掴まれていることを認識した。
「いい加減にしろよ! なんなんだよさっきから! 全然着いてけないんだけど!」
目を吊り上げるアルテは、私と同じように走ってきたのか、少し息が乱れている。
その顔を見た途端、息が詰まった。
私のせいだ。私が、あの人を刺激したから。
扉は閉ざされた。アルテはここから出られない。家には帰れない。
せっかく、帰ろうとしていた所だったのに。
帰ろうと……?
……そうだ、アルテは、帰ろうとしていた。
不意に閃いた考えに、私はただ縋った。
それだけが、唯一の希望だった。
「逃げて」
「は?」
基本的に、外へと通じる場所は普段から施錠されている。出入りが可能になるのは、鍵を使う時だけだ。……だけ、だった。少し前の瞬間までは。
アルテがどこからこの城に入ってきているのか、私は知らない。
だから、あの人も知らないかもしれない。
もしかしたら、そこからなら、外に出られるのかもしれない。
「ここから逃げて。そうして二度と、ここには来ないで」
「何言って」
「お願い」
「説明しろよ!」
「時間が無いの!」
声を荒らげると、アルテは目を丸くして押し黙る。
必死だった。
「お願い。アルテ、お願いっ……!」
目を真っ直ぐに見上げながら、訴える。
数秒、間に沈黙が落ちた。
アルテは舌打ちを零すと、苛立ちに滾ったその目を瞼の下に隠して、身を翻した。
「後で説明しろよ」
『後』は、来ない。
そうであることを願っている。
遠ざる背中を見つめながら、私は手を合わせて祈った。
日の沈んだ直後の空には、夜の藍が混じり合う。
赤は空の彼方に押しやられて、やがて完全な闇になる。
鉄扉の前で地面に座り込んだまま、私はただ待っていた。
この行為が無駄になることを祈って、アルテが帰ってこないまま、夜に昏れる瞬間を待っていた。
けれど、そんな願いとは裏腹に、長く伸びた草の合間から、アルテは姿を現した。
その表情に困惑と苛立ちを認めた瞬間、言葉にされるよりも前に、分かってしまった。
ここから出ることが出来なかったのだと。
胸元で組んでいた手の力が抜け、だらりと両手を地面に投げ出す。
無力感が身体中を苛んで、何も考えられない。
長らく忘れていた。
そうだ、これこそが。
あの人が望んだ──絶望。
「ごめんなさい」
ぽつりと落とした謝罪をきっかけに、とめどなく後悔が溢れ出す。
どうすれば良かったのだろう。どうすれば、こんなことにならなかった?
突き放していれば良かったのだ。
微塵も揺らぐことなく心を殺したまま、淡々としていれば、アルテの興味はきっとすぐに消えただろう。
それともあの始まりの黄昏に、匂い袋など渡さなければよかったのだろうか。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
最後に外に出たのはいつだった?
少し前に見た、あの人の『プレゼント』が頭をよぎる。右腕を抑え、唇を引き結ぶ。
嫌だ。早く。
どうにかして、外に出ないと。
そうでないと。
このままだと、私はきっとアルテを殺してしまう。