◇2
移動はそれほど長くはなかった。
エントランスから伸びた一階廊下の、手前から三つ目の扉。
少しだけ開いていたその扉を足で蹴り開けると、アルテは躊躇なく部屋の中へ足を踏み入れる。
室内の様子を確認する暇もなく、私は降ろされた。起き上がろうと後ろ手についた手が、柔らかい場所に沈み込む。
怪訝に思い見下ろすと、そこは床ではなく、スプリングのきいたベッドの上だった。
心臓が、大きく音を立てる。
『作り替えてあげよう。外側も内側も。僕の理想とするものへ』
ああ、なんだ。
一瞬の空白の後に、唐突に理解した。
感情が凪いでいく。同時に、寒々しい風が、心の合間を通った気がした。
アルテにとっては、私が何を思おうとどうでもいい。
『友達』の関係を望むのは、もう辞めたのだろう。
彼が必要としているのは、『奴隷』の私だ。
好き勝手しても文句一つ零さない、都合のいい人形。
『その眼球も、取り替えてしまおうか』
大丈夫、苦痛には慣れている。
頭の上に影が落ちる。手が伸ばされてくる気配を感じて、俯いた。
だから、気のせいだ。
胸が疼くような小さな痛みも、僅かに感じる息苦しさも。
全部、気のせい。
夢の残滓が見せる幻影だ。
「……なんて顔してんの」
大きな手に包まれた。
頭に乗せられた手はただ触れているだけで、押さえつけるような圧力は感じない。
止まった思考のただ中で、その小さな重みを受け止めていた。
「そんな怯えなくても、何もしないよ」
手が動く。頭の上で、繊細な手つきで。
聞こえた声は、酷く静かでいて、心地よかった。
思わず上げた視線の先で、アルテは形容しがたい表情を浮かべていた。
ただ怒っているわけでもなく、ただ困っているわけでもない。
その表情を、なんと呼べばいいのか、私にはわからない。
緩やかに頭を撫でられるその手を享受しながら、ふと記憶を掘り起こす。
こんな風に、誰かに頭を撫でられることがあっただろうか。
分からない。覚えていない。きっと、なかったのかもしれない。
母親は私が嫌いだったから。
「寝るなら今後そこで寝て」
一通りの後に落とされた言葉に、目を瞬かせる。
ようやく、アルテが何を思って行動したのかが分かった。
納得すると同時に、その内容を咀嚼して、起き上がる。
「いえ、もう起きます」
「そんな顔色で何言ってんの。寝てろって」
「顔……?」
「無自覚かよ……性質悪いな」
片手で頬に触ると、アルテはため息をついた。
「いいから寝てろって」
「でも、あなたは?」
「俺? あー……別に無闇に歩き回ったり、物色したりしないよ。不安ならここに居るし。なんなら縛るなり鍵かけるなり好きにしたら」
「……いえ、でも」
「あーもう! でももクソもねぇよ! 寝ろ! そんで満足するまで起きてくんな!」
アルテは声を荒らげると、呆然とする私の肩を押してベッドに沈め、その上に肩まで毛布をかけた。
「大体俺『あなた』じゃねぇんだけど。そう呼ばれる度嫌味ったらしく見下してくる連中がチラつくから止めてくんない? てかティア俺の名前覚えてる? アルテ! はい復唱!」
「……でも」
返そうとした言葉は、ふいに途切れた。
唇に触れる手の先を辿ると、アルテは眉を寄せたまま、いいから、と静かに呟いた。
「物は物らしく、黙って人間様の言うことに従ってろ」
その言葉に、冷たさはなかった。
真っ直ぐに見つめる視線が、急かすでもなく、ただ私を待っている。
言葉自体の響きは聞き慣れたものなのに、裏腹のその態度は、戸惑うほどに温かみがあって。それは、あまり馴染みのないもので。
私は。
意固地に立場をわきまえようとして、その実彼に甘えていたのかもしれない。
口を開く。
あれほど躊躇っていた三文字は、思いの外すんなりと形になる。
「アルテ」
「ん」
アルテの頬が緩む。
満足気に微笑んだその笑顔は、数日前によく見ていたものよりも、ずっと輝いている気がした。
◆
腹を括った。
あと一度、あの城に行こう。後のことはそれから決める。
数日考えてから出した結論はそれだった。
正直、いくら一人で考えたところで全く分からなかった。何故あそこに行こうとするのか。どうしてそんなに気になるのか。
だったらもう、行くしかない。
あと一度ティアに会って何もわからないようなら、俺はこの関係を切る。
思い立って城に来たは良いが、広いエントランスで倒れている見慣れた姿に、肝を冷やした。
結局倒れていたんじゃなく、寝ていただけだったけど。
窓から射す日がティアの枕元に当たっている。なんだか寝づらそうで、俺は窓際へ行くとカーテンを閉めた。
薄暗い部屋の中でベッドに戻ると、そこに横たわる顔をまじまじと見る。
白い白いとは思っていたが、今日は本当に青白い。まるで病人だ。
こんなになっても自分の体調も分からないって、どういうことだよ。
ため息をつく。手を伸ばして、眠るティアの、額にかかる髪を払った。
この部屋に連れてきた時のあの顔が忘れられない。
一切の感情が抜け落ちたあの瞬間。所在なげに揺らしていたあの瞳。
一体どんな目にあったら、こんな人間ができるんだろう。
ティアが起きるまでは暇だ。何をしていよう。
しばらくした後に、俺は辺りを見渡した。
この部屋から出る気にはならなかった。
ティアにそう言ったというのもあるが、なんだか目を離した途端に起きて来そうな気がした。
壁の方に大きな本棚を見つけて、俺はそこから薄い本を一冊手に取る。
暇つぶしだし、と言い聞かせてページをペラペラめくってみると、そこには左から右まで文字がびっちりと書かれていた。
「うげ」
思わず呻く。本が薄ければ中身も易しいかと思ったが、そんなことは無かった。流石は魔女の城。何書いてあるかさっぱり分からない。
そもそも俺は、最低限の読み書きしか出来ない。読もうと思えるのは絵本くらいだ。文字がたくさんあるとそれだけで気が滅入る。
というかイーストエンド出身なら多少なりとも読み書きできるだけで上等だ。だから仕方がない。と、誰にともなく言い訳をする。
ノルなら読めるかもしれないな、とちらと思った。俺の読み書きの先生、あいつだし。というかあいつ、本当に良いとこの出の可能性がある。
でも、現状これしか暇を潰せるもの無いしなぁ。
顔を歪めながら仕方なしに何冊か本を抜き取り、ティアの側へ戻る。その際近くの机から椅子だけ拝借した。
「……生きてるよな?」
目を閉じていると、本当に人形に見える。青白い顔色が、余計にその印象を際立たせた。
それでも胸が上下しているから、息はしているんだろう。
詰めていた息を吐き出すと、持ってきた本を膝に乗せて、開くことなく伸びをした。
まるで子供のようだ。
親の言うことが唯一絶対だと思っている、頑固で視野の狭い子供。
ティアの世界は狭い。そして多分、あまり物を知らない。
自我が未成熟のうちから叩かれて叩かれまくって、押さえつけられて来たから、こんな風に育ったのだろうか。
どうして、俺はこんなにティアの世話を焼いてるんだろう。
いつもなら関わるのも面倒くさくて放っておくのに。
別に、お節介でも子供好きでもないし、子守りもそんなに得意じゃないんだけど。
強いて言うのなら、放っておくと簡単に死んでしまいそうだ。
それも事故じゃなく、餓死とか主人の命令で、とか。
しかも死に際に大して足掻きもせず、大人しく諦めそうだ。
「……まじで盗み出してやろうかな」
いつかの冗談を思い出しながら、ティアを見て呟いた。
愛だの恋だの、そんなものは分からない。
というか、正直嫌いだ。
どんなに高尚に取り繕ったところで、所詮はエゴの押し付け合い。信じられない。信じる気もない。
そんな不確かなものに縋る奴の気が知れない。
だから、別にティアに惚れている訳では無い。
でも、ティアが死ぬのは嫌だと思った。
理由はそれだけ。
それで、十分なんじゃないか。